別章 円環
夜の研究所は、
昼の名残を、まだどこかに留めていた。
廊下の天井灯は、等間隔に並び、
必要な場所だけを照らす。
光は強くない。
色は薄く、
音は削ぎ落とされ、
空気だけが、静かに循環している。
人の気配は、ほとんどない。
コツ、
コツ、
コツ。
靴音が、一定の間隔で響く。
急がず、
止まらず、
まるで、時間そのものが
歩調を刻んでいるように。
少し離れた場所で、
男は、白衣のまま立ち止まっていた。
片手には、小さな端末。
画面は暗いが、通話は続いている。
「……まだ起きとるんか」
返事は聞こえない。
それでも、男は続ける。
「無理をするな、言うとるじゃろ」
「お前は……昔から、考え過ぎる癖がある」
ひとつ、息を吐くような間。
廊下の途中、
研究室の扉は、開け放たれたままだ。
中では、
未完成の演算が、静かに息をしている。
男は、その前を通り過ぎる。
気づかない。
気づく必要も、ない。
廊下の突き当たり。
自動販売機が並ぶ、小さな休憩スペース。
固いソファが壁際に置かれ、
観葉植物が、意味もなく置かれている。
男は、ソファの端に腰を下ろした。
「……演算か?」
少し間を置いて、
「その処理は、お前の方が早い」
「ワシより、ずっとな」
指先で、端末の縁をなぞる。
「残っとるのは、もう手順だけじゃ。
ワシの意識状態を、非生体演算層へ移行して。
入力したら……それで終いじゃろ」
声は、淡々としていた。
決断ではない。
ずっと前に決めていたことを、
なぞっているだけの声だ。
その頃。
開け放たれた研究室に、
一人の女性が入る。
足音は、ほとんどない。
モニターに映る設計図を一瞥して、
小さく首を傾ける。
「……このままだと」
指先が、宙で止まる。
「大切なものが、足りない……よね」
キーボードに、コードが打ち込まれる。
《KØØ-SIA-01》
優しい速度で。
削除ではなく、重ねるように。
「これで……祝福の完成」
女性は、微笑んだ。
保存。
確定。
彼女は、何も持たずに部屋を出る。
廊下で、男とすれ違う。
「……こんな時間に、知らん顔じゃな」
男は、言う。
振り向きかけて――やめる。
「ちゃんと、聞いとるわい」
端末の向こうの声が、続いている。
男は、そのまま研究室へ戻る。
中に入って、扉を閉める。
変化には、気づかない。
モニターの前に立ち、
完成した演算を、ただ見つめる。
「……よし」
小さく、頷く。
世界は、まだ始まっていない。
だが――
ここで、
すべては一度、祝福された。




