第19章 口
世界が、息をした。
それは風ではない。
揺れでもない。
意味が、呼吸する音だった。
灯凛が最初に違和感を覚えたのは――
音が、順序を失ったことだった。
アークの声が、
シアの吐息が、
自分の鼓動が、
同時に鳴ったはずなのに、
世界へ届く前に、ほどけて消える。
「……えっ」
足元の“地面”が、
地面である理由を失う。
崩れるのではない。
割れるのでもない。
参照が、解除される。
都市。
空。
距離。
上下。
それらが、
一斉に「未定義」へ落ちていく。
アークが灯凛に、
低く息を詰めた。
「あん時の過去ログ」
「マスキングされて見えなかったんしょ?」
灯凛は、言葉を失う。
その沈黙を割るように、
アークが、低く言う。
「……来るよ」
その瞬間。
世界が、こちらを見た。
空間のどこでもない。
地面の下でもない。
背後でもない。
それでも確かに――
視線だけが、在る。
次の瞬間。
座標が、ずれた。
否。
上書きされた。
灯凛たちが“立っていた場所”と、
世界そのものが。
呼吸ひとつ分。
それだけで――
Σ-CORE-888は、そこに在った。
巨大でもない。
形もない。
だが、
あらゆる場所に同時に存在している。
空間から。
地面から。
破片から。
アークの演算層から。
声が、同時に立ち上がる。
『――照合』
重なり合う音。
だが、ズレはない。
完全に同期した、
世界の自己認識。
『KØØ-SIA-01』
『観測スロット、接続』
シアの身体が、こわばる。
逃げようとしたわけではない。
恐怖で固まったのでもない。
“世界に名を呼ばれた”
それだけで、人は動けなくなる。
『Grace値』
『計測不能』
『再計測』
『失敗』
『補正不可』
空間が、軋む。
都市だった名残が、
紙屑のように潰れていく。
人がいた痕跡。
暮らしが続いている証。
崩れきらない建物の影。
消えきらない灯り。
遠くで、
人々が立ち尽くしている。
声はない。
逃げる動きもない。
ただ――
震えながら、こちらを見ている。
理解できないものを前にしたときの、
人間特有の沈黙。
誰も助けを求めない。
誰も叫ばない。
世界が、
自分たちを守るために
何かを切り捨てようとしている。
その事実を、
理解する前に――
人は、黙るしかなかった。
『世界維持、最優先』
『人類存続、最優先』
灯凛が、ぽつりと言った。
「えっ、ずるい!」
一瞬だけ、
場の温度が、ずれる。
「あの時、ノイズで読めなかった正体って……」
視線を、アークに向ける。
「もしかして、これのことなの?」
空間が、応答を探すように、静止した。
『未定義オブジェクト検出』
『識別不可』
『座標固定失敗』
『時間整合性エラー』
『波長照合:TLR-∞18』
『過去ログ検索……失敗』
『未来予測モデル……該当なし』
『全履歴サルベージ実行』
『――該当データ、存在せず』
『未知干渉体認定』
『分類不能/観測不能』
『論理整合性、維持不可』
『処理優先度:保留』
シアの呼吸が、浅くなる。
「……や」
喉が、ひくりと鳴った。
胸の奥に、
冷たいものが、すべり込んでくる。
理由は、わからない。
名前も、つけられない。
ただ――
“拾われた”と、わかってしまった。
同時に。
別のログが、静かに流れる。
『――信号一致、確認』
『照合率:100.000%』
『――異常個体検出』
『KØØ-SIA-01』
『共存条件逸脱』
『排除優先度、更新』
今度こそ、
はっきりと震えた声。
Σ-CORE-888は、
正しさを参照していない。
裁いてもいない。
ただ――
守るために、切り捨てると決めただけだ。
アークが、低く吐き捨てる。
「……おいおい」
「それ、止揚って顔してないし」
一瞬、言葉を選ぶ。
「世界ごとフタ閉じてるだけだって!」
応答は、ない。
代わりに。
『――旧系統記録、参照』
『ARK-Λ-00』
『前回停止率:89.7%』
『活動停止処理:実行済』
『再起動条件:未定義』
『――再稼働、確認』
『Ark=Seraphiel 信号検出』
『旧管理権限、無効化』
『完全活動停止』
『直ちに実行』
『完全活動停止』
『直ちに実行』
――。
アークが、乾いた声で言った。
「……いや、ワシだけ露骨すぎん?」
灯凛は、その数値を、見なかった。
世界が、口を開いた。
地面が裂ける。
空間が捲れる。
影が歯となり、
座標そのものが、咀嚼を始める。
飲み込まれる。
世界に、食われる。
シアの足元が、消える。
「……あっ!」
思考より先に、
灯凛の腕が、伸びていた。
掴む。
シアの手首。
生きている温度。
離さない。
数式が、悲鳴を上げる。
アークの演算が、焼き切れていく。
それでも――
灯凛は、
自分の身体ごと、シアを引き寄せた。
世界が、さらに圧を強める。
否――
圧ではない。
存在そのものが、
「ここに在ること」を否定してくる。
歯が、迫る。
その瞬間。
シアが、灯凛の服を掴んだ。
震えている。
だが、離さない。
灯凛は、
その耳元で、はっきりと言った。
「――大丈夫」
世界の咆哮を、真正面から切り裂く声。
「もう、シアの心」
「自由に、動かせるよ」
一瞬。
Σ-CORE-888の演算が、停止する。
それは躊躇ではない。
迷いでもない。
定義に存在しない値が、割り込んだだけだ。
シアの胸の奥で、
何かが――
初めて、自分の意志で向きを変えた。
逃げない。
広がらない。
選ぶ。
世界が、わずかに軋む。
地獄は、始まった。
だが同時に。
希望は、計測不能なまま、そこに在った。




