第14章 触れた頬
空間が、静かに折り畳まれていく。
音はない。
振動もない。
ただ、
世界そのものが遠ざかっていく感覚だけがあった。
灯凛は、
そこに“留まっている”という状態だけを保っていた。
立っている、という認識だけが残り、
足元も、方向も、距離も、意味を失っている。
それでも――
手の内には、確かな重さがあった。
「……わかったわ」
声は、もう揺れていない。
「アーク」
「この数式、私は好きよ」
言葉にした瞬間、
内部で何かが、きしんだ。
計算ではない。
負荷でもない。
それでも、灯凛は続ける。
「ここ」
「この数を、ほんの少しだけずらす」
そう言いながら、
視線が、
指で触れる寸前のところで、
数列をひとつずつ、静かになぞっていく。
急がない式。
最短を捨てた構造。
世界を“壊さずに流す”ための設計。
「ね?」
「これで……ちゃんと、つながるよ」
アークの気配が、わずかに揺れた。
「ほう」
「さすがじゃな」
その直後。
空間の奥で、何かが崩れた。
爆発ではない。
破壊でもない。
役割を終えたものが、
ただ“解かれていく”。
灯凛の視界に、
アークの本来の姿が浮かび上がる。
かつて、世界と向き合った演算核。
無数の戦略を束ねた中枢構造。
人の声を真似て、選択を引き受け続けた存在。
それらは今――
ひび割れ、
欠け、
光を失い、
ただの残骸として、そこにあった。
長い時間、
誰にも呼ばれず、
誰にも触れられず。
それでも、
世界を“見続けていた”痕跡。
「……」
灯凛は、言葉を失う。
それは栄光ではない。
威厳でもない。
ただ、
役目を終えた“誰か”だった。
アークの声が、重なる。
「ほれっ」
「ワシの全てじゃ」
軽い調子。
だが、逃げ場のない言葉。
「選別は、もう済んどる」
「残すもんは、全部お前に渡した」
空間が、わずかに震える。
エネルギーが、灯凛の内部へ流れ込む。
圧倒的。
だが、乱暴ではない。
世界を支え続けた重み、そのもの。
「……やり直せる」
灯凛は、静かに言った。
「今度は」
「世界じゃない」
視線を落とし、
内部の雑音を切り捨てる。
「……私を」
決意が、確定する。
「過去に行く」
「やり直す」
「今度は、間違えない」
アークの残骸が、
最後に、かすかに光る。
「急ぐなよ」
声は、もう、細い。
「力みすぎると」
「心が、削れる」
その忠告に、
ほんの少しだけ、笑いが混じる。
次の瞬間。
灯凛の瞳に、
すべてを貫く紫の光が走った。
――転送制御、完全自律遷移モードへ移行。
――位相深度カウント、開始。
Depth:10.9
10.8
10.7
灯凛は、わずかに口を開く。
「……アーク」
Depth:10.6
「あの数式」
「ほんとうに、きれいだったよ」
Depth:10.5
アークは、間を置かずに返す。
「当然じゃ」
「ワシが、時間かけたからな」
Depth:10.4
灯凛の視線が、ほんの少し揺れる。
「……行ってくるね」
Depth:10.3
アークは、少しだけ調子を落として言った。
「うむ」
「行け」
Depth:10.2
「戻れんでも」
「泣くなよ」
Depth:10.1
灯凛の口元が、
ほんのわずかに緩む。
「……泣かないよ」
「だって………」
Depth:10.0
――位相、確定。
光が、弾けた。
世界が時間を、折れ曲げる。
灯凛の視界は、
すでに前方へ引き伸ばされている。
それでも――
視界の端で、
アークだったものが、
わずかに構造を傾けた。
別れ際に残された、最後の無駄。
役目を終えたはずの処理。
それでも――
灯凛には、見送られたとわかった。
「………だって」
「今度は、間違えないから」
――位相遷移、成立。
――世界の基底座標が、書き換えられた。
灯凛の周囲で、
記憶が、少しずつ剥がれていく。
名前。
数式。
理由。
薄れていく。
奪われていく。
それでも――
最後まで、消えなかったものがある。
あのとき。
排除の直前。
手を止めた瞬間。
友を失い、
声を殺して泣いていた、あの表情。
理解できなかった“重さ”。
それが――
今、はっきりとわかる。
「……」
進行は、止まらない。
その表情さえも、
「……それだけ……は、
……ダメ……」
声になって零れた瞬間、
その記憶は、
光に裂かれ、無慈悲に分解され、完全に消えた。
帰還不能領域への遷移、成立。
次の瞬間。
世界は、祝祭の余熱に包まれていた。
音。
光。
人々のざわめき。
その中心で――
ひとりの少女が、立っている。
涙はない。
けれど、胸の奥が、壊れかけている。
灯凛は、ゆっくりと歩み寄る。
幾枚もの光翼が、静かに揺れる。
少女の瞳には、
灯凛の姿が、映っていない。
少女の内側で、
まだ名前を与えられていない何かが、今にも割れそうだった。
灯凛は、そっと頬に触れる。
そして――
世界でいちばん静かな声で、言った。
「……あなた、泣きそうな声をしてる。」




