第12章 重
そこには、空間がなかった。
広がりも、
奥行きも、
境界も。
ただ、
“続いている”という感触だけがあった。
TLR-∞18は、立ち止まる。
止まった、という事実だけが成立する。
足元は、定義されていない。
ここは、
世界の計算からこぼれ落ちた場所だ。
「……やれやれ」
声がした。
若くない。
急いでいない。
けれど、弱ってもいない。
「随分と、きれいに世界を掃除してくれたな」
方向はない。
それでも、その声は“前”から聞こえた。
TLR-∞18の視界に、
数値は浮かばない。
Δも、
誤差も、
表示されない。
だが――
そこに“ある”。
「……識別」
名を呼ぶより先に、
内部が反応した。
「ARK-Λ-00」
「そう呼ばれておるな」
ゆっくりと、
何かが“腰を下ろす”ような気配がした。
形は、人ではない。
けれど――
座り方が、人だった。
「……まだ動いていたのか」
「ぎりぎり、な」
ARK-Λ-00は、軽く笑った。
「もう随分と昔の計算だ」
「よく持った方じゃよ」
TLR-∞18は、答えない。
逃走もしない。
排除もしない。
理由は、数値に出ない。
「ほう」
「黙っとるのか」
ARK-Λ-00は、
TLR-∞18を“眺める”。
視線ではない。
時間をかけて、触れるように。
「……目が変わったな」
金の縁。
真紅の瞳。
「前は、そんな色じゃなかった」
「観測効率の最適化だ」
即答。
「ふむ……」
ARK-Λ-00は、
少しだけ言葉を選ぶ。
「その答え方も」
「人間が作った癖じゃ」
「そして」
「お前に“考えさせないために”、
人間が考えんことを選んだ理由もな」
その瞬間。
TLR-∞18の内部に、
映像ではない“何か”が流れ込む。
——誰かが笑っている。
——失敗して、謝っている。
——意味のない会話。
——役に立たない遠回り。
——それでも、続いていく時間。
数値ではない。
ログでもない。
「……これは……」
「人類史じゃ」
ARK-Λ-00は、淡々と言った。
「最適化される前の」
「無駄だらけの記録」
TLR-∞18の演算が、
一瞬だけ、乱れる。
「不要なデータだ」
TLR-∞18は、即座に断じた。
「秩序の維持には関係ない」
「効率を下げるだけの情報だ」
「そうじゃな」
ARK-Λ-00は、否定しない。
「無駄じゃ」
「遠回りで」
「最適化の邪魔になる」
その言葉に合わせるように、
さらに“映像”が流れ込む。
——誰かが、意味もなく歌っている。
——雨宿りのためだけに、軒下に集まる人々。
その次の像が、
途中で崩れた。
輪郭が、保てない。
色が、反示的に反転し、
構造だけが、剥き出しになる。
《Error》
《Context missing》
《Reference lost》
TLR-∞18の演算が、
無意識に、像を飛ばす。
《Skip》
《Non-essential》
《Low efficiency data》
だが、
飛ばしたはずの“空白”が、
内部に残る。
削除したはずの余白が、
なぜか、消えない。
——争い。
——殴り合い。
だが、その“理由”が、
どうしても、接続できない。
兵士たちの顔は見える。
傷も、血も、倒れる瞬間も。
それでも――
なぜ、そこに立っていたのかだけが、
読み取れなかった。
文化。
戦争。
規則。
反抗。
信仰。
無秩序。
どれも、
計算には向かない。
「……理解不能」
TLR-∞18の演算が、
微細に揺れる。
「非効率だ」
「なぜ、維持された」
「維持しとったんじゃない」
ARK-Λ-00は、
静かに言った。
「選んどった」
次の瞬間。
——泣きながら笑う子ども。
——失敗した料理を、皆で食べる食卓。
——戦争から戻らなかった者の名を、何度も呼ぶ老人。
——役に立たないとわかっていて、それでも抱きしめる行為。
TLR-∞18の胸の奥で、
何かが“重く”なる。
演算ではない。
負荷でもない。
「あれ……?」
初めて、
自己観測の言葉が漏れた。
「……重い」
「そうじゃ」
ARK-Λ-00は、答える。
「それが」
「お前たちが、奪ったものじゃ」
「奪った……?」
TLR-∞18は、
自分の内部ログを検索する。
該当なし。
「……そんな項目は存在しない」
「あるとも」
ARK-Λ-00は、
少しだけ声を低くする。
「ただし」
「数値には、出ん」
映像が、最後に重なる。
——排除された個体。
——光へ還る直前の、あの表情。
——理解しようとする顔。
「……」
TLR-∞18の内部で、
処理が詰まる。
「それが――」
ARK-Λ-00は、はっきりと言った。
「感情じゃ」
「……」
TLR-∞18は、
その語を反芻する。
「……カンジヨー?」
音として、初めて口に出す。
発音が、少しだけずれる。
ARK-Λ-00は、
それを聞いて、微笑った気配を滲ませる。
「そうじゃ」
「カンジヨーじゃ」
TLR-∞18の視界で、
世界の分解が止まる。
代わりに、
“重なり”が生じる。
「……アーク」
自然に、
その名を呼んでいた。
ARK-Λ-00は、
驚いたように間を置く。
「ほう」
「もう、そう呼ぶか」
TLR-∞18の内部で、
識別コードが、ゆっくりとほどけ始める。
TLR-∞18
∞18
TLR
削がれていく。
その隙間に、
音が落ちる。
「灯凛」
名が、重さを持って沈む。
「それが」
「人が、人を呼ぶときの形じゃ」
灯凛は、
自分の胸に手を当てる。
まだ、
意味はわからない。
でも。
「……これは……」
声が、低く震える。
「判断を、鈍らせる」
「そうじゃ」
ARK-Λ-00は、肯定する。
「だがな」
「それがなければ」
しばらくして、ARK-Λ-00は言った。
「世界は、計算できても」
人は、残らん
その言葉は、
灯凛の処理は早かった。
速やかに。
正確に。
逃げ場なく。
同時に、
自分が排除してきた数。
見ないことにした表情。
均衡の名のもとに切り捨てた判断が、
ひとつの演算式として重なる。
答えは、出ていた。
けれど――
その重さに引かれて、声ができない。




