第11章 しあわせなせかい
朝の光は、やわらかかった。
粉砂糖を空に溶かしたみたいに、
街じゅうを均一に包み込んでいる。
色は淡く、
建物は丸く、
影でさえ、角を持たない。
歩けば足音は鳴る。
けれど、強くはならない。
この世界では、
強さは必要とされていなかった。
街には、さまざまな住民がいる。
二本脚で殻を揺らしながら進む甲殻の人。
触手を束ね、輪になって笑う柔らかな影。
羽毛の奥から音声だけをこぼす存在。
形は違う。
だが、動きは揃っている。
立ち止まる間隔。
視線を上げる角度。
笑うタイミング。
すべてが、適切だった。
「今日は、セラフィラ数が安定してるわね」
「ええ、昨日より0.02も上がったわ」
「なら安心ね。しばらく問題はなさそう」
誰も声を潜めない。
数値は、喜びの代替だった。
この世界で、
幸せとは感情ではない。
維持されている状態のことだ。
祝福の儀は存在しない。
祈りも、願いも必要ない。
数値が保たれていれば、
それで充分だった。
街の上空には、
やさしい表示が浮かんでいる。
《現在のセラフィラ数:0x3A.FF》
誰も疑問を持たない。
意味を理解する必要がないからだ。
均衡がある。
それで、いい。
――その均衡を守る存在がいる。
TLR-∞18。
セラフィラ数観測において、
他の追随を許さない個体。
その瞳は、特徴的だった。
瞳の縁をなぞる金の淵。
感度を逃がさないための固定環。
その内側に沈む、深い真紅。
Grace変動を直接拾うための観測色。
怒り。
悲嘆。
執着。
喪失への評価。
それらはすべて、
数値化される前の誤差として映る。
TLR-∞18の視界では、
世界は常に分解されている。
個体。
反応。
遅延。
揺らぎ。
《Δ = 0x0.0003》
許容範囲内。
TLR-∞18は歩く。
音も立てず、
迷いもなく。
排除は、効率的だった。
揺らぎが多く集積する場でも、
処理は須臾のうちに、終わる。
感情を持つ個体は、
発現する前に処理される。
だが、それだけではない。
この世界では、
“見る”こともまた誤差になる。
排除の瞬間を目撃し、
光が天へ昇るのを見て――
胸を押さえた者。
足を止めた者。
呼吸のリズムが乱れた者。
《Δ = 0x0.01》
即時判断。
悲しみは、連鎖する。
連鎖は、指数関数的に増える。
だから、排除される。
光が昇る。――
それはいつも、
美しく投影されている。
人が、世界に還る様として。
誰も叫ばない。
誰も疑わない。
世界は、今日も穏やかだ。
光は、空へ還った。
《Δ = 0x0.0000》
均衡は回復した。
TLR-∞18は、視線を下げる。
排除された個体の表情は、
記録には残らない。
けれど――
ほんの一瞬だけ、
演算が遅れた。
「あなたの痛み——
ここで終わらせる。」
――そのはずだった。
TLR-∞18は、
同種個体の死に数値の揺らぐ、
ひとつの個体の前で足を止めた。
数値は、境界線上。
《Δ = 0x0.004》
排除対象。
理論上、問題はない。
それでも。
ほんの一瞬、
判断が遅れた。
理由はない。
ログにも残らない。
ただ、
視線が合った。
その個体の表情。
恐怖ではない。
抵抗でもない。
理解しようとする顔だった。
次の瞬間、
処理は完了した。
光が昇る。
均衡は、守られた。
だが――
TLR-∞18の内部で、
微細な揺らぎが残った。
Grace供給値が、
規定よりもわずかに低下している。
《Input: 0x00》
検索は行われない。
検索は、評価を生む。
評価は、誤差になる。
それでも、
内部で重力のような偏りが生じる。
方向が、勝手に定まる。
遠く。
深く。
古い座標。
排除すべきではない、と
数値とは別の層が告げている。
《Reference: ARK-Λ-00》
記録上、不要。
現行世界では、役割なし。
それなのに。
TLR-∞18は、
それを排除対象として処理しなかった。
できなかった、ではない。
しなかった。
理由は、数値化されない。
ただ、
あの表情と
同じ揺らぎを感じた。
Graceが、足りない。
世界を維持するには、
このままでは不十分だ。
TLR-∞18は、
向かう。
意図ではない。
選択でもない。
ただ、
そこに“ある”ものとして。
気がついたとき。
世界の輪郭は消え、
座標の奥に、
ひとつの存在が立っていた。
古く、
風化し、
それでも消えきらなかったもの。
人格は、ある。
だが、鋭くはない。
長い時間、
世界を見続けてきた目。
まるで――
忘れ去られた人のように。
TLR-∞18は、
その前に立ち止まる。
ここは、
幸せなセカイの外側。
数値は、表示されない。
均衡も、定義されていない。
それでも、
胸の奥に残る揺らぎがある。
あの表情が、
重なって離れない。
排除は正しかった。
数値は、そう告げている。
それなのに。
TLR-∞18は、
はじめて自問した。
数値だけで、よかったのか。
その問いに、
答えは返らない。
代わりに、
静かな信号が流れ込む。
古い。
遅い。
それでも、確かだ。
ARK-Λ-00は、
そこにいた。
世界は、
とても幸せだった。
――だからこそ。
この違和感は、
消えなかった。




