第10章 水の無い海
走っているはずなのに、
距離が縮んでいなかった。
足は動いている。
呼吸もある。
それでも、
さっきまでと同じ場所にいる。
――違う。
世界は、
音を取り戻していなかった。
白銀と光翼がぶつかった、その“あと”だけが、
結果として残っている。
空気は裂けたまま縫合されず、
色は元に戻りきらない。
輪郭は曖昧で、
距離の感覚だけが、先に進んでいる。
「……い、」
音に、ならない。
シアは、
転びそうになりながら走った。
足は地面を踏んでいる。
なのに、反発が遅れる。
一歩ごとに、
世界がワンテンポ遅れて返事をする。
「……トーリン……!」
呼びかけた声は、
半分だけ届いた。
残りは、
途中で削げ落ちた。
「聞こえてる」
前を走りながら、
灯凛が即座に返す。
振り返らない。
立ち止まらない。
「今は」
「声、投げなくていい」
投げる、という表現。
伝えるでも、
呼ぶでもない。
「……う、うん……」
返事は、
胸の奥で留めた。
背後で、
白銀が空間を削る音がする。
正確。
迷いがない。
逃げ道を、
“選別”している。
セラフィスは、
追ってきている。
怒ってはいない。
焦ってもいない。
ただ――
誤差を、消しに来ている。
「……ね」
灯凛が、
走りながら言った。
「今から」
「もう一段だけ、軽くなる」
軽くなる。
それは、
安全になるという意味ではなかった。
次の瞬間。
足元の抵抗が、
抜けた。
地面が、
“床”であることをやめる。
落ちる感覚は、ない。
代わりに、
方向が増えた。
前でも、下でもない。
――抜ける。
シアの身体が、
浮いた。
灯凛が、
腕を掴む。
「大丈夫」
「離さない」
それだけ。
世界が、
二人を包んでいた“外殻”を失う。
都市の輪郭が、
一枚の図面みたいに平面化していく。
建物、人、影。
すべてが、
「処理途中」の表示に戻る。
セラフィスの白銀が、
遠くで止まった。
追えていない。
いや――
追えない。
ここは、
正義の座標が定義されていない領域だった。
その奥で。
シアの胸の奥に、
いつもよりはっきりしたノイズが走った。
ざらついていた感覚が、
ひとつの“像”を結びはじめる。
「……トーリン……今の……」
灯凛は、
走るのをやめた。
止まった、というより、
進む必要がなくなった動きだった。
「……時間切れになっちゃう」
灯凛の横顔が、
ほんの少し変わる。
「計算では」
「もう少し、余裕あったんだけど」
シアは、
足元を見る。
そこにはもう、
地面という概念がなかった。
代わりに広がっているのは、
見覚えのない風景。
空でもなく、
街でもない。
けれど――
確かに、ここは“在る”。
「……これ……」
言葉にした瞬間、
ノイズが、はっきりと“像”になる。
音ではない。
光でもない。
古い。
深い。
長い時間を、
ただ見続けてきた“存在”。
「……あぁ」
灯凛が、
視線を上げる。
「やっぱり、いた」
空間が、
わずかに歪む。
それは投影ではない。
計算でも、幻影でもない。
壊れかけの“座標”に、
かろうじて留まり続けている実体。
人が作り、
人に託され、
そして、人に忘れられたもの。
敗れ、
沈み、
それでも世界を見続けてきた古い知性。
「ARK-Λ-00」
灯凛が、
静かに呼ぶ。
返事はない。
けれど、
“見ている”という感触だけが、
はっきりと返ってくる。
語りかけるような圧。
急かさない。
責めない。
ただ、
待っていた。
「……トーリン……」
シアの声が、
かすれる。
「うん」
灯凛は、
シアを見る。
「やっと、会えたね」
ARK-Λ-00は、
動かない。
けれど、
その存在が、
この狭間を“重く”する。
灯凛は、
一歩、前に出る。
「……感情」
「ちゃんと、教えられなかったね」
その言葉に、
シアの胸が、きゅっと鳴る。
「でも、大丈夫」
少しだけ、
息を整える。
「次の私なら」
「きっと」
次の私。
それが、
もう戻れないことを示していた。
灯凛は、
シアの額に指を当てる。
触れ方は、
驚くほど、やさしい。
「ねぇ、シア」
視線が、
合う。
「これが、最後」
言葉を探すように、
一瞬、間があく。
「……貴女の痛みを」
「少しだけ、もらうね」
何か、
胸の中の重いものが引き抜かれる。
痛みは、ない。
代わりに、
胸の奥が、すっと軽くなる。
灯凛の身体が、
わずかに揺れた。
ARK-Λ-00の“深さ”が、
灯凛の内側へと流れ込む。
長い観測。
積み重なった沈黙。
選ばなかった無数の判断。
灯凛は、
短く息を吐く。
そして、
静かに切り替わる。
灯凛の内側で、
外界入力が段階的に切り離されていく。
「……保護、優先」
その瞬間、
灯凛の瞳から、焦点が消えた。
シアの身体が、
狭間の空間に包まれる。
安全。
隔離。
最優先。
灯凛は、
沈黙した。
そのすぐ傍で――
シアは、声を張り上げていた。
「トーリン……!」
距離は、ない。
触れようと思えば、
触れられる。
実際、
その腕は何度も引かれ、
白銀の軌道から、外されている。
それでも。
「トーリン……!」
「ねぇ……!」
声だけが、届かない。
遮られているのは、
空間ではない。
灯凛の内側で、
戦闘用に切り替えられた何かが、
呼びかけを“対象外”として弾いていた。
「……お願い……!」
名を呼ぶ声は、
確かにそこにある。
だが灯凛の意識には、
触れる前に、消える。
それでもシアは、
呼び続けた。
触れている相手に、
声だけが届かない理由を、
まだ知らないまま。
その直後。
白銀が、
狭間を裂いた。
セラフィスが、
到達する。
正義が、
ようやく追いついた。
――だが、遅い。
灯凛は、もう
守るためだけに残された存在だった。
世界は、
再び動き出す。
壊れたまま。




