009 カレーライス
いきなり破綻しかけたカレー作りは、その後も難航を極めた。未空が調べて来ていたのは水にダイブさせる順序だけだったようで、切り方や皮の向き方については全くの無知だったのだ。
寿哉も特段料理の専門家ではない。それでも、健康に関わりそうな根本的な部分は把握しているつもりだ。ジャガイモの芽にはソラニンという毒物が含まれており、除去せずに口の中に入れてしまうと中毒を引き起こす。これは料理の知識と言うよりかは、一般教養に入るのではないか。事実、未空も危険性については理解していた。
高速道路の本線を走りたいのに、ハンドル操作を誤って何度も枝分かれで間違える。そんな運転が、数十回も繰り返された。運転席でハンドルを握っているのが未空で、助手席から補助しているのが寿哉。蛇行しながらも交通事故だけは起こすことなく、ようやく降りるべきポイントの標識が見えてきたところなのだ。
文化鍋を半分満たしている液体の色は、食欲をそそる粘っこい茶色。カレールーが入れられていて、もう完成が近いことを予言している。
その鍋に箸の片割れが突っ込まれた。ドロドロの液体中に沈んでいる具材たちを突き刺しては、引き抜く。概ねどの食材も快く突き刺さるのをよしとしてくれていたが、唯一人参だけは中まで熱が到達していないらしい。
「……あれ、人参が抜けなくなっちゃった……」
振り回してずり落ちるのを待つのは原始的なやり方であり、そんなことをしてはカレーが飛び散ってしまう。
未空は冷静にもう一方の箸で人参を突いた。無念と言いたげに、引き離されたウサギの大好物は沼へと沈んでいった。
「……まだ、熱通ってないみたいだな……」
肉の赤みはすっかり消えているので、その気になれば皿に盛りつけて食すことのできるようにはなっている。野菜は、最悪半生でも食感が劣るだけだ。
しかしそれでは、未空が宣言した『リベンジ』にならない。ジャガイモが煮崩れを起こしたり、反対に人参の中が固いままのようでは、完璧なものとは言えないのだ。
「……前みたいに、ジャガイモ無くなっちゃわないよね……」
順番抜かしをして柔らかくなっていたジャガイモが顔を出しているのを見て、前回の二の舞になるのではないのかと不安なようだ。
ただ、レシピ通りに事を運んでいるのに失敗作が出来上がってしまっては、その工程表を作った人の信用問題になる。クレームが寄せられれば、仕事が無くなるかもしれない。
……だから、大丈夫だとは思うんだけど。
寿哉は手に持っているお玉で、鍋の底から沈殿しそうになっているものを引き上げ、かき混ぜる。火があたっているのは底の部分なので、定期的に対流を起こして熱を循環させなければ焦げ付いてしまう。
「……味見してみても、いいかな……?」
「調味料の味付けじゃないんだから……」
塩だのポン酢だのを配合して出来上がった味付けの素が予想と違った味かどうかを検査するために、味見というものがある。ここで異常に甘ければ塩と砂糖を取り違えていたことになり、事前に防ぐことが出来るのだ。
カレーは、加熱時間によって味が劇的に変化すると言う事は無い。二十四時間強火で放置したのなら灰が覆いかぶさって苦くなるだろうが、隠し味を入れず調理する分にはカレールーの味になるようになっている。
……もう食べたくなったのかな?
水が沸騰するのを待っている時ですら、お腹が減ったと呟いていた未空。色付いたとろみのあるカレーを目の前にして、食欲が収まらなくなったのだろうか。
寿哉が否定的な見方をしたのに構わず、未空は大きめのスプーンを棚から取り出してきた。今も尚湯気が上がっているカレー鍋に差し込み、一すくいした。
「……結構、熱そう……」
熱そうという感想で表せるものではない。皿に盛りつけられているものはコンロから遠ざけられて数分経過したものであり、それでも熱い。直に熱されているカレーからとってくれば、それはそれは灼熱地獄だ。
ふぅー、ふぅー、と鉄のへこんだところにちょこんと乗っかっているカレーに吹きかける息遣いが、否応なしに鼓膜へと伝わってくる。豊満な唇が丸まって、そっと口づけをするように冷ましているのに、無駄に意識を集中させられた。
……なんでそこに芽がいくんだよ……。
自身でも、行動の意味がよく分からなかった。熱そうなものに息を吹きかけているなど、未空と密接していれば既視感の有るものだ。
それなのに、意識がそこに行った。一心不乱に近づけている様が、美しいと感じてしまっていた。
パクン、と一口でスプーンは未空の口の中へと消えていった。欲求不満で早く腹を満たしたいと懇願していた目が、至福を味わっていた。
「……おいしい……」
リポーターには語彙力が必要であるが、未空に味を伝える義務はない。感想だけで、十分に思いをつかみ取れる。
「……これ、私が……」
自らの手で作った料理がおいしかったことが無かったかのような発言だ。実際、そうなのかもしれない。
緊張していては見せる事の無い、緩まり切って地面に落ちそうな頬。力みが一切感じられないまぶたの筋肉。とても幸せそうで、なによりだ。
……未空が嬉しそうにしてるのを見てると、俺もほっこりするんだよな……。
何か人を和ませるような魔力を、未空は持っている。学校でやじられていたのが不思議なほどだ。
さらに数分ほどが経過し、ようやく中心にまで火が通った。白米と合わせて、順に皿に盛りつけていく。
トッピングは、特になし。作るのを忘れてしまっていた。
「……作りすぎちゃったかな……?」
二人分の盛り付けが終わり、まだ鍋にカレーが大量に残っている。レシピの水の量を四人分で作ってしまっていたようだ。
「余ったら、冷蔵庫にでも保管しておけばいいんじゃない?」
カレーを翌日以降に繰り越すときは、決してコンロの上で寝かせてはならない。一晩寝かせたカレーはおいしいと言われているが、それよりも食中毒菌が繁殖してしまう危険の方が大きい。
ちゃぶ台の脚をたたんでしまわないように注意して、隣同士に飾り付けられたカレーライスを配置した。一直線上にしなかったのは、未空からのお願いによるものである。
「……トッピング、これでよかったかな?」
「未空が疑問形ばっかり使うなんて、珍しいな……。別に、普通だと思うけど」
優柔不断なリーダーは、所属している集団ごと地獄へと突き落とす。歴史上の人物でも、真っ二つに分かれた戦でどちらにも所属できなかったがために家系が断絶してしまうということは頻繁に起こっている。
クラス内をまとめ上げるほどのカリスマ性がある未空は、彼らのような過ちを犯さなかった。曖昧になって決定に逆らえない他クラスをよそに、一クラスだけ反対意見を提出したことは珍しい光景で無かった。
自分に自信を持てなければ、決断にも迷いが生じるというもの。メンタルが強くなくては、個性がぶつかり合う集団のトップを張っていられない。
だからこそ、未空がしきりに不安がっているのは滅多にみられるものではない。不慣れで緊張もあったカレー作りだったとしても、尾を引きずり過ぎだ。
「……最初に、謝るね。寿哉、ごめん」
カレーライスに手をつけようとしていた未空が、思いとどまって額をたたみにこすりつけた。突然のことで、何をしたか脳内で処理されるのに数秒を要した。
不祥事を引き起こした会社の代表が、マスコミに向けて土下座をしているワイドショーの中継を眺めていたことがあるが、いまいち形式的で感情がこもっているようには見えなかった。お金が絡むと、人間の汚らしい一面を隠せなくなる。純粋な気持ちを失ってしまっているようだった。
高校生が青春真っ盛りと言われるのは、そういったお金云々に関係ないからだ。全員平等で収入が無く、個人の技量によってのみ位付けがされる。誰にでも、のし上がれるチャンスがある。
これが社会人になると、やはり収入のことが話題に入ってくる。かっこよく見えても低収入だと付き合いたくなくなる人は少なくないだろう。
「……寿哉に、いいところ見せたかったんだ」
廃れた商店街で結んだ約束を、破っていた。『無理して背伸びしない』という項目を、性懲りも無く無視していたのだ。
……未空の気持ち、分かる……。
しかし、寿哉にそれを咎めようとする気は無い。
寿哉に弟がいたとして、自分が出来ないからと弟に全てを託す気持ちになれるだろうか。強がって、年上の底力を見せようと能力を超えてしまわないだろうか。
……強がっちゃうよな……。
「でも、許して? 約束、破ってないから」
舌をちょろっとだけ出して、澄み切った顔の未空。約束の時刻に遅れて謝られているような、そんな気がした。向こうに非があったとしても、多少の事なら許してしまいそうだ。
……許せるなぁ……。
未空を引き留めていたのは、疲労がたまることによって街中でいきなり倒れてしまうことを恐れて、また本来の彼女らしさが失われるのが辛くてのことだ。長所が良く出ているのなら、見過ごしても構わない。
「……細かいことは良いから! さあ、召し上がれ!」
物事の先端まで突き詰められたくないと、荒業で水に流していった。カレーライスは共同で調理したはずなのだが、正論を言っても折角の会話に水を差すだけだ。
一番初めに顔を見せたのは、ゴロゴロとしたジャガイモだった。切り口が不規則で凸凹したものが多く、それでも十分煮込まれてとろけていた。
……柔らかくて……。
料理下手の未空が作ったとは思えない出来栄えだった。レシピ通りにしただけなので個人の技量は関係ないと説いてはいけない。
「……どーう? うまく切れたつもり、なんだけど……」
不味くなりようが無いのだが、未空はまだ不安要素が抜けていない。討論で持っている自信を、プライベートでも遺憾なく発揮できないものなのだろうか。
寿哉の通信簿では、全観点が満点評価。見た目、味付け、感情、どれも自身の目で頑張っているのを見てきた。手を抜くことなく、限界まで手を伸ばしていた。
躊躇することなく、親指を天高く突き上げた。SNSにあるいいねボタンに相当する。
完成度に疑問を持っていただろう未空も、満足そうに次々とスプーンを口に運ぶ寿哉を見てようやく暗示が解けたようだ。
「……大成功!」
その未空の一言は、冷えていた体を末端から元気づけてくれた。
※毎日連載です。内部進行完結済みです。
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