万里子の報告
エピローグ 万里子の報告
「ただいまあっ!」
弾む声、こんなに上機嫌なただいまを言えるようになったのは全部あの人のおかげ。
万里子は家に帰ると支度を調え、大嫌いだった家庭教師の先生と向き合った。
先生の名前はアイコ。
身長は60センチくらい。
お肌は白く柔らかで、くりんと丸い大きなお目々が可愛らしい。
声音は滑らかで心地よく、英語の発音もパーフェクト。
胸のあたりに鮮明な映像パネルを持っている。
世間で「人工知能ロボット」と呼ばれる先生だった。
「すごいでしょ。パパの会社が開発した最先端の家庭教師よ。万里子のためにカスタムプログラムされてるの」
あれはもう3ヶ月前、家に帰った万里子に、母・冴子は自慢げに胸を張った。
開いた口が塞がらないとはこのことだ、万里子は口を手で隠す。
「前の先生は?」
「数学は100点だからもういいって言ったのは万里子よ」
「だったらこのロボットだって」
「何言ってるの。この先生は数学だけじゃなくって英語も理科も社会だって教えられるのよ。それに学習効果も人間の先生の2倍以上。研究所の折り紙付きよ。万里子のために何億と使って最適化してもらったんだから」
何億?
パパの会社の研究者さん、ごめんなさい。
でも。
「会社の私物化はいけないと思う!」
「私物化じゃないわよ。万里子はちゃんとした実験台。だから頑張りなさい」
そう言うと冴子は説明員と称する中年の研究者さんを呼びつけた。
「あの、お嬢さま――」
「…… 分かりました。説明をお願いします」
思い出しても腹立たしい。
母はいつもずるいのだ。
私が断れない状況に持って行って無理矢理に約束をさせる。
テニスは母のお友達の顔を立てるためだった。ダンスはおじいさまの名誉のため。英会話はトランプで負けたから。でも、今思えば、あれは嵌められた。何回もやっていたら、そりゃあ1回くらいは負けるに決まってる。だからといって私は自分の境遇を恨んでいる訳じゃない。私はすごく恵まれている、それくらいのことは分かっている。だから何でも頑張ってきた。途中で放り出すのは大嫌い。
でも、母はもっと大っ嫌いだ。
継母とか、そういうんじゃないのに、大っ嫌いだ。
しかし、アイコ先生は予想に反して教えるのがとても上手だった。その上、雑談にも応じてくれる。お疲れでしょう、今日はここまでにしましょうか、と最後は5分早く切り上げてくれたりする。さすがは最新鋭のAI。プライドばかり高い高名な先生なんかよりずっとずっと私のことを想ってくれる。
だけど、問題はそこじゃない。
万里子はアイコ先生の授業を受けながら、めまぐるしい今週の出来事を思い返した。
家庭教師と言う言葉の取り方ひとつで、とんでもない勘違いが生まれてしまう。
ロボットなんかより、千鶴さまとお話がしたい。
ただそんな一心だったのだけど、考えてみればこんな境遇、普通は分からない。
「どうしました? 心ここにあらず、ですね」
「はいアイコ先生。その通りです」
「でも、いいことがあったみたいですね」
「はい、とっても」
「アイコにも教えてくれますか?」
「…… もちろんです!」
初めてそんな気分になった。
アイコ先生に聞いて貰おうと思った。
よく「人工知能は心を持てるか」と言うことが話題になる。
勿論それは難しすぎて万里子には見当すら付かない。
そもそも「心」って何なのか、科学的にはよく分からないって言うし。
でも、ひとつだけ言えることがある。
今、万里子はアイコ先生に「聞いて欲しい」と思ったのだ。
心の中を知って欲しいと思ったのだ。
万里子は、それはもう、自分はこんなにお喋りだったのかと思うくらいに、べらべらとと洗いざらいに喋った。
二月、新入生の手続きの日に千鶴さまの姿を見かけて舞い上がったこと。
でも、彼女は「遺児特待生」として大学の寮に入るのだと言うこと。
四月、満を持して申し込んだ交換日記は断られてしまったこと――
「結局、クララ会の先輩方に助けて頂いて、今日は嬉しい日になったんです」
「そうですか。クララ会の先輩に何を助けて貰ったんですか?」
「万里子の知らないところで助けてくれてたみたいで、実はあまり知らないんです」
ここでアイコ先生は珍しく、ちょっと考えるポーズをした。
アイコ先生のコンピュータはとても高速らしく、瞬きする間に恐ろしくたくさん考えることが出来るらしいのに。
「万里子さん、ひとつお願いしていいですか?」
「何でしょう?」
「私を、その千鶴さんに会わせて貰えませんか?」
「……え?」
「そしてその、クララ会の先輩方も会わせてください」
「はい、勿論です。是非会ってください! でも、どうして?」
「どうして――」
アイコ先生は首を傾げて笑って見せる。
「AIだって嫉妬するんですよ」
ゆりたちの交換日記 完




