第8話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「チャーリー先生!」
謝るだけ謝って、すぐさま部屋を出ようと思った千鶴。けれどもチャーリー先生はピアノの椅子から立ち上がると、怒るどころか嬉しそうに右手を挙げた。
「立花さん、だったかな。僕の演奏を聴きに来てくれたのかい?」
「あ、いえ、その、楽しそうなメロディが聞こえたから……」
「だったら一曲披露させてくれ。正直な感想を聞かせてくれたら嬉しいなあ。あ、扉は開けておいて。勘違いされないように」
「でも、音が漏れたら?」
「わざと漏らしてるからね。僕の演奏を聴いて貰うように」
言うが早いかチャーリー先生は椅子に腰掛け大きく深呼吸をする。そうして鍵盤に手を載せると、聴いたことがある旋律が流れ出した。確か「my favorite things」という曲だ。
お世辞にも上手ではなかった。でもBGMとして聞き流すにはまあまあなレベルだ。姫さまのように音の粒のひとつひとつが際だった宝石のように心地よく弾ける訳ではない。間違うことなく弾いてはいるけど、どこか平坦な印象。でも、禿げかかった頭を左右に振って、足でリズムを取っている。大好きで弾いていることはよく分かる。
それよりも――
千鶴はさっき「チャーリー先生」と言ってしまったことに思い及んで、それがとても心配になってきた。先生をあだ名で呼んでしまった。しかもその由来は先生の髪の毛の多寡に起因するに違いない。拙いことを言っちゃった――
短い演奏が終わると、千鶴は立ち上がって拍手をした。先生によるとこの曲は「サウンド・オブ・ミュージック」と言うミュージカルの中の一曲らしい。
「でも、曲名は知ってたんだな。えらいぞ」
「昔、父が遺したCDを母がよく聴いていたので」
「だろうね、今時の若い子は知らないもんな」
私ってば、今時の若い子じゃないの?
「それよりどうだった、僕の演奏? 正直に言ってくれ」
「そうですね、先生はこの曲が大好きで、楽しく弾いているのが伝わりました」
「うんうん」
「ミスもなく、安心できる演奏でした」
「うんうん」
「数学の先生なのにピアノも弾けるなんて凄いです」
「ありがとう。本当に正直な感想だね」
「ごめんなさい」
「いや、それがいいんだ。それでいい。僕が昼休みにここで練習しているのには三つの理由があるんだよ。わかるかな?」
「えっと――」
期待している先生を見ると、答えないわけにはいかないようだ。
千鶴は少しだけ考えて。
「誰かに聴いて貰えるから?」
「ひとつ正解」
「そして感想が貰えるから?」
「ふたつ正解」
「あとは…… ストレス解消?」
「残念だ」
チャーリー先生はそう言うと、勿体ぶらずに答えを明かした。
「家にはピアノがないからだよ」
それは、昼休みの練習だけでここまで頑張ったと言うことだろうか。だとしたらなにげに凄いことだ、と千鶴が褒めると、チャーリー先生は首を横に振った。
「ピアノはないけど安いキーボードはある。でもやっぱりほら、ピアノの方がいいじゃないか。弾き心地も音色も。特にこのグランドピアノはプロの演奏家も使う代物だからね。気分も違うよ」
「何となく分かります」
「それに家で弾いていると妻が「うるさい」とか言うんだよね」
「えっ、そんなことないですよ。ちゃんと弾けてるじゃないですか?」
「うん、僕もそのつもりなんだけどね。でも、うるさいらしい。あ、これはここだけの秘密だよ。どこからどう妻に伝わるか分からないからね」
「はい、分かりました、えっと…… 石井先生」
千鶴は頭をフル回転させて、チャーリー先生の名前を思い出して言った。
しかし、先生は楽しそうに笑うと。
「チャーリーでいいよ、気に入ってるから」
「気に入ってる?」
「もしかしたら、何か勘違いしてないかい? チャーリーの由来を知ってるかな?」
「えっと……」
何か勘違いしている?
千鶴は考える。
と言うことは、髪の毛は関係ないと言うこと?
だとしたら、一体どうしてチャーリー先生はチャーリー先生なのだろう――
考えながら千鶴はずっと先生の頭を見つめていた。
「だから、ここじゃないよ。確かにもう危ないけどね」
チャーリー先生は自分の頭をペシペシ叩くと、鍵盤に手を載せた。
「この曲、知ってるかな?」
弾き始めたのはポップな感じの、これまたジャズの曲。かなり弾き慣れた感じで先生は体を揺すりながら弾いていく。絶対聴いたことがある! この曲は――
「分かりました!」
千鶴の声に先生は演奏を止めて振り返った。
「えっと、曲名はわかりません。でも、由来は分かりました。チャーリーパーカーです」
「大正解だ、大したもんだ。曲名は「Confirmation」。もう五年前になるかな、ピアノに嵌った僕は、ここでこの曲ばかり練習していてね。気がついたらチャーリー先生って呼ばれてたんだよ。いやあ光栄だよ、僕みたいな素人がね」
「五年前から始めたんですか、ピアノ」
「いや、七年前だ」
先生は胸を張る。
「最初は恥ずかしくてここじゃ弾けなかった。自己流だから基礎も出来てない。きっと経験者に言わせたらめちゃくちゃだ。でもね、まあまあかなと自分じゃ思ってるんだ。今度は友達も連れてきなさい。もっと練習しておくから。あ、そう言えば君は高入生だったね。友達はできたかい?」
「はいっ!」
「うん、いいことだ。この学園はどうだい?」
「ここに来れてよかったです。皆さんとっても優しいですし」
「それに素晴らしい伝統もたくさんある」
「伝統って、例えば交換日記とか?」
思い切って言ってみた千鶴に、先生はうんうんと肯いて。
「そうだそうだ、あれはいい。同級生だけでなく、先輩や後輩とも仲良くなれる。貴重なことだ」
「でも、途中から来た人間が先輩面しちゃ迷惑ですよね?」
「そんなことはない。高入生も違う学校で違う経験をたくさん積んだ立派な先輩だ。そっちの方が後輩には面白いかもしれん」
「そうでしょうか?」
「そうに決まってる」
授業中は冴えないギャグでよく滑る先生だけど、こうして話をしてみると、堂々としていて頼もしい。千鶴はこの先生にもっと訊いてみたくなった。
「でも、伝統に疎い私なんかじゃ、大切な伝統は伝えきれないんじゃないですか?」
「そんな心配は無用だ。部活でも委員会でも何でもいい、いい先輩を作りなさい。そうして、その先輩にしてもらって嬉しかったことを後輩にもしてあげなさい。大切なのはたったそれだけだ」
「たったそれだけ?」
「形式は学校という環境が伝えるものだ。でもね、重要なのはその心だ。人の中にある伝統の心だ」
明快にすっぱり言い切られ、そうかな、と肯いた千鶴。さっきまで頭の中でこんがらがっていた難しいあれこれが、一気に解けていくようだった。さすがは教鞭を執って何十年、ベテランの先生だ。
「悪いことは伝えなくていい。だから伝統は変わっていい。大事なのは精神だ」
「えっと、せっかく練習していたのにお邪魔してごめんなさい」
「何を言っている、そのためにいつもドアを少しだけ開けて弾いてるんだ。また友達を連れて来なさい。僕の統計では、ここに来た生徒は数学の成績が上がるから」
「そうなんですか?」
「もちろん手心なんかは一切加えない。僕はその辺はドライだから。でも、成績は上がる。統計上有意な差が出ている。間違いない」
「じゃあ、今度は友達も誘って来ます」
「ああ、待ってるよ」




