第3話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
クラスには結希さんと七海さんしかいなかった。
授業までまだ50分ある。万里子さんってば、どれだけ早く来たの? 大切な睡眠時間を削ってない? だったら申し訳なかったな、と千鶴は悩む。
見ると、結希さんは自分の席でただじっと日記帳を睨みつけている。
お相手は誰なのだろう、クルールは学園公認、隠す人などいない、とは結希さんの言葉だ。あとで聞いてみよう。
ちなみに七海さんも日記を読んでいる。嬉しそうな空気。いつも無表情な七海さんが時折クスッと笑っている。
千鶴も席に座ると、水色の日記帳を広げた。
何が書いてあるのだろう?
昨夜、五月先輩のお部屋に行ってパソコンで「ミサキ電器」を検索してみた。さすがは日本を代表する大企業、家にある家電製品だけじゃなくって、次世代の自動交通システムとか最新の人工知能の実験とか、本当に未来を開発していた。そして何気に「御前万里子」と検索して驚いた。スピーチコンテストで入賞したのは知ってたけれど、絵画コンクールに書の展覧会、果てはテニスクラブの試合結果までがぞろぞろと出てきた。本当に何でもござれの才媛。恵まれた境遇を差し引いてもすごかった。
もし、もう一度申し込まれたら――
冷静になればなるほど、心配だけが大きくなった。
やっぱりエビは鯛を釣ってはいけないんじゃないだろうか。
身の程とか釣り合いとか、そういうのは確かにあるんじゃないだろうか。
そんなこと、馬鹿げた考えだって分かってる。
でも、彼女がみんなにどう思われるかって想像したら。
自分に何が出来るんだって想像したら。
昨夜。
たったひとりの夜。
漆黒の空は千鶴の勇気を吸い取っていった。
でも――
千鶴は水色の表紙に意識を戻すと、強く息を吐いてページをめくった。
千鶴さま
万里子のこと覚えていてくださったんですね。
とても嬉しいです。
六年前、千鶴さまが焼いてくださったお好み焼き。
マヨネーズたっぷり、かつお節どっさり。
鉄板から熱々をコテで食べると、大人になった気がしました。
私、はっきり覚えています。
焼けるソースの匂い、
熱々でホクホクの食感、
おなかから満たされてくる幸せな気持ち。
でも一番忘れられないのは、
千鶴さまが万里子の味方になってくれたことです。
コテは正しいってお母様に反論してくれて
甘いジュースより水の方が合いますよって弟を諭してくれて
少し汚れた小吉さんを、可愛いねって撫でてくださった。
私はお母様に反論した人って、初めて見ました。
しかも、黙らせてしまうなんて驚きです。
とっても頼もしかった。
とっても格好よかった。
千鶴さまは万里子のヒーローです。
それなのに私は昨日、嘘をついてしまいました。
ごめんなさい。
千鶴さまは勘違いなんてしていません。
家庭教師をしてください、って書いたのは、
給金をお渡しできるって思ったからです。
きっと千鶴さまが想像したとおりなんです。
2ヶ月前、新聞部の情報で千鶴さまが来られるって知りました。
またお会いできるのだと思うと心が躍りました。
とても嬉しかった。
万里子ったら、部屋で小吉さんと一緒に踊ってしまったんですよ。
そして決めたんです、クルールになってもらうんだって。
千鶴さまは絶対に受け入れてくれる。
万里子のとなりに来てくれる。
万里子をいつも見ていてくれる。
私は千鶴さまのことは何ひとつ考えずに、
勝手に信じて疑いませんでした。
そして同時に、千鶴さまの境遇も知ってしまいました。
調べるつもりはなかったんです。
でも、聞いてしまいました。
だから、あんなことを書いたのです。
きっとお役に立てる。
きっと喜んでいただける。
勝手に思って、勝手に決めて。
でもそれは万里子の傲慢な思い上がりだったんですね。
千鶴さまに言われて初めて気がつきました。
千鶴さまの言葉だから気づけました。
昨日、ちゃんとお伝えすべきだったのに、
私、怖くて言えませんでした。
ごめんなさい。
せっかくチャンスをいただいたのに、
こんなことを書かなきゃいけないなんて。
だから私もお伝えします。
怖いけど、ちゃんとお伝えします。
万里子は強がりで見栄っ張りで、
それにきっと、わがままです。
わがままだから勝手に思い込んだのです。
わがままだから、千鶴さまに向かって声を荒げたんです。
千鶴さまは私のためを思って言ってくださったのに。
もう自己嫌悪です。
あとからいつも悲しくなるのに。
頭に血が上って酷いことを言って。
みんなの気持ちを傷つけて。
昨日はごめんなさい。
でも、これだけは信じてください。
千鶴さまをお慕いする気持ちに嘘はありません。
マリア様にだって誓えます。
だからもう一度お願いします。
大好きな千鶴さま
万里子をとなりに置いてください。
万里子をいつも見ていてください。
万里子のわがままを叱ってください。
万里子のクルールになってください。
お返事 お待ちしています。
びっちりと紡がれた綺麗な青い字。
余白に描かれた、裏表紙と同じ小吉さんのイラスト。
理由はあります、って昨日の言葉が、すっと胸に落ちていく。
愛おしいって、こんな気持ちなのかな?
もう、どうしようもなく。
千鶴は水色の日記帳をその小さな胸に抱きしめた。
万里子ちゃん……
けれども――