第8話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ダメってことはないよ、そんなことはない」
千鶴は狼狽した。
この質問が来ることは分かっていたのに――
「でも、万里子じゃダメだったんですよね?」
「ダメとか、そんなことはないよ。万里子ちゃんは凄いよ」
「だったら……」
彼女は千鶴を向いたまま立ち上がった。
「だったらどうして振られたんですか? 万里子の何が悪かったんですか?」
「あ、いや、それは――」
「教えてください! 万里子の何がいけなかったのですか?」
迫る姫さま。
そのあまりの剣幕に、千鶴の脳細胞はパニクってしまった――
姫さまが私を睨んでいる。
炎のような目を、零れんばかりに滲ませて。
固く結ばれたピンクの唇は悔しそうに小さく震えて。
――
あ。
何を考えていたんだろう。
私を見下ろす彼女の長い黒髪が、一陣の風に強くなびく。
とても綺麗。
「お願いします。千鶴さま、教えてください!」
返事、しなきゃ。
何て答えればいい?
もどかしい。
考えがまとまらない。
落ち着け。
そう、こういう時ほど落ち着け――
「ちょっと待って」
千鶴も立ち上がると、大きく二回、深呼吸をした。
「支離滅裂な話になったらごめん。最初に謝らないといけないことがあるの」
「あやま、る?」
「うん、ごめんなさい」
その言葉で、千鶴の気持ちはすっと落ち着いた。体中が楽になった。
「万里子さん、私に家庭教師になってって書いてくれたでしょ。でも私、勘違いしちゃった。あれの意味、私にお金を施しをしてくれるって意味だと勝手に思い込んでたの。だからあんな返事をしちゃった。同情でクルールの申し込みをされたって思った。そんなの嫌だって意地を張っちゃった。でも、それは私の思い込みだったんだね。さっき絵里花さんや香子さまと話をしていて気がついたんだ。家庭教師って言うの、友達って意味だよって教えられた。本当にごめんなさい」
千鶴は頭を下げる。
「いえ…… いえ、万里子の方こそごめんなさい」
「ううん、全部私のせい。私ね、卑屈になってたんだと思う。みんな私なんかと違うから」
「そんなことないです! 千鶴さまは何も悪くないです」
「ううん、反省する。だからごめんなさい。でもね、万里子さんにも考えて欲しいことがあるの」
「万里子に?」
見ると、姫さまの顔から色は完全に消えていた。さっきまで林檎色だった頬は生気を失い、ピンクだった唇も薄黒く見えた。千鶴は笑顔を作ると努めて明るい声を出す。
「絵里花さんっていい人だよね。私、ここに来て随分と助けられたんだ。今日も文芸部の茶話会に一緒に来てくれた。部活説明会の時も令女のことをたくさん教えてくれた。万里子さんのことも褒めてたよ。しっかりしていて聡明で頑張り屋さんだって。昨日のピアノも万里子さんだって教えてくれて一緒に聴いたよ。絵里花さんって優しくて頼りがいがあるよね。あんなに素敵なノワールはいないんじゃないかな。本当に立派な人だよ――
「だから?」
「え?」
「だ だ…… だからっ?」
姫さまはキツく握った両の拳を2度3度と強く振った。
「だからどうだって言うんですかっ? 絵里花さまは関係ない、何も関係ない! 万里子は千鶴さまに申し込んだんですっ!」
彼女はその強い瞳を潤ませて、燃えるように千鶴を睨んだ。
「絵里花さまが立派なことくらい分かってます。みんなに言われなくても分かってます。でも関係ないですよね! 全然関係ないですよねっ!」
「あっ、え――」
とても「仰るとおりで」とは言えそうにない剣幕で。
彼女だって周りの噂は知っていたのだ、姫さまのお相手は絵里花さんだろう、って。
それでも彼女は千鶴を選んだ。
私のことを知った上で、選んでくれた。
万里子さんの言うとおりだ。
でも。
それでも彼女のためを思えば――
「万里子は千鶴さまがいいんですっ!」
ひときわ大きな声。
激しい感情が一粒、その綺麗な瞳から零れ落ちる。
抱きしめたい!
こんなに想われて嬉しくないはずがない――
そんな衝動を抑えても、千鶴は確かめなければならなかった。
「でも、どうして私?」
その一言で、燃えるような姫さまの激情が、みるみる消えていった。
堅く結ばれた拳がゆっくりと開かれる。
「そ、それは……」
「ねえ、あっちに行かない?」
だらりと腕を垂らした姫さまと花壇の横をゆっくり歩いた。そうしてグラウンドが見える手すりの前で立ち止まった。外周を走る陸上部のゆりたちが小さく見えた。
姫さまは千鶴の真横に立った。
その長い黒髪が千鶴の腕を撫でた。
仄かに香るのは清潔なシャボンの匂い。
「理由はあります。ちゃんとあります。万里子は……」
俯いて、震えて、苦しげな声。
「万里子は、本当は……」
「焦らなくてもいいよ」
「本当は…………」
「……」
「ほんとう、は……」
「日記帳」
「え?」
「あの、水色の日記帳、持ってるよね」
「はい、もちろん」
「だったら」
あっ、と小さく息を呑んだ姫さまに、千鶴は小さく頷いた。
「書いてくれると嬉しい」
「それは、もう一度チャンスを頂けるってことですか」
少し笑った姫さまに、千鶴も微笑みで応えた。
「そういうことかも」
それは自分自身に向けた言葉だった。