第7話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「私のこと、お忘れですか?」
花壇の前でふたりは立ち止まる。
「ううん、思い出した」
「ホントですか!」
蕾のように堅かった万里子さんの表情が、一気に咲いた。
「ついさっき、だけどね」
「嬉しいですっ!」
頭に手をやり苦笑いする千鶴に、容赦なく満開の笑顔が降り注ぐ。
「本当に嬉しいです」
「私も嬉しいよ。そうだ、小吉さんは元気?」
「はい、すっごく元気です! 今は万里子の机の上から窓の外を眺めてます」
「窓の外って何があるの?」
「道です。家の前の道です。万里子の帰りを今か今かと待ってるんです」
ふふふっ、と吹き出すようにふたりは笑う。
「大切にしてるんだ」
「はい! でも学園では秘密にしてます」
「分かってるって。安心して」
「あの…… お店、どうなったんですか?」
「ああ、やっぱり来てくれたんだね、ごめんね」
それは千鶴がまだ小学生だったある日のこと。
おばあちゃんのお好み焼き屋に、親子連れがやってきた。女の子と男の子と綺麗なお母さん。女の子はピンクの服を着て、籐のかごに愛くるしい茶色のくまのぬいぐるみを入れていた。世間一般にはテディベアと呼ばれるそのぬいぐるみを、女の子は小吉さんと呼んでいた。
最初、つまらなそうにしていた女の子。お好み焼き屋は初めてらしく、テーブルの調味料をひとつひとつ手に取り始める。
千鶴はそんな彼女にたくさん説明をした。お勧めしたブタ玉をじっくり焼いてコテで返す。ひっくり返すのは得意だったから、女の子は喜んでくれた。たっぷりソースをかけると、いい匂いが胃袋をくすぐった。細くマヨネーズをたっぷり掛けると女の子は身を乗り出して目を輝かせた。かつを節をどっさり載せると声を上げて喜んでくれた。彼女は見よう見まねで大きなヘラで食べようとしたから、小さなヘラを持って行ってあげた。でもあとで、お店の裏でおばあちゃんに叱られた。
「お母さんはお皿にとって、箸で食べるよう言ってはったやろ?」
「だって大きなヘラで食べようとしてたから――」
「先にお母さんに聞くんや。小さいコテをお持ちしましょうか、って」
「……だって」
「返事は、はい」
「はい……」
「まあ、嬉しそうやけったけどね、あの子は」
帰り際、女の子は「絶対また来るねっ」って約束してくれた。次は辛口のソースもいっぱい使う約束もした。黒い車に乗った女の子は最後まで窓から顔を出して手を振ってくれていた。
でも、おばあちゃんのその店は、それから暫くして畳んでしまったのだった。
目の前の花壇には赤や黄色のチューリップやアネモネ、可愛いひなぎくが咲き誇っている。その中を2匹のモンシロチョウがゆらゆらと飛んでは止まりを繰り返す。どの花がいいのか迷っているのか、それとも風に流されているだけなのか。腰をかがめて花壇を観察していた姫さまは、やがてくすりと笑った。
「水やりは終わってますよね」
彼女が指差す土の色に千鶴も同意する。
「……ホントだ、濡れてる」
「園芸部が花壇の手入れを人に任せるのは、新聞部が編集を人に任せるのと同じですもの」
姫さまは立ち上がると真珠のように微笑んで、小さく肩を竦めた。
「水やりは口実だったってこと?」
「そう言う人です、香子さまは」
彼女の長い黒髪が春の風に揺らめくと、優しい匂いがふわりと届いた。
「ねえ、ベンチに座らない?」
「はい」
ふたりは長椅子に、少しだけ離れて腰掛ける。
見上げると甘い綿菓子のような雲がぽつんぽつんと浮かんでいる。
その白雲の合間から真っ直ぐ降り注いだ光が、瑞々しい花々を輝かせる。
「綺麗ね」
「そんな! 千鶴さまの方がずっと綺麗です」
「あ、いや、ひなぎくのことだけど」
「うっ うう~っ」
頬を林檎色に染める姫さま。
同級生を威圧的に叱責し、壇上から堂々たる熱弁を振るった、あの姫さまからは、とても想像できない。
「ここは素敵ね。見晴らしもいいし、花壇も目を楽しませてくれる」
「ですよねっ! 今日みたいに晴れた日は最高です。万里子はここでお弁当を食べたりするんですよ」
「ひとりで?」
「いいえ、彩子さまとか香子さまが誘ってくださるんです」
「優しい先輩たちなんだ」
「はい、とても。優しくて気が利いて、私なんかよりずっと大人です」
「万里子さんもしっかりしてるじゃない」
「そうでしょうか?」
小首を傾げる姫さま。
「そうだ、いいこと思いつきました」
「いいこと?」
「はい。ここでお好み焼きパーティーをしましょうよ。マヨネーズも鰹節も青のりもいっぱいで。あ、もちろん千鶴さまが主役ですよ」
「いいの? シスターに叱られない?」
「叱られます。すごく」
「だめじゃない」
「バレなきゃいいんです」
顔を見合わせふたりは笑った。
「万里子、放課後のお御堂も好きなんです。心が洗われる気がして」
「勝手に入っていいの?」
「勿論です、礼拝堂ですから。ほとんど誰も来ませんけどね」
「どうして?」
「シスターが来るからです」
ふたりはまた一緒に笑った。
「意外。万里子さんって面白いね」
「ごめんなさい、はしゃいでしまって」
「ううん、私も愉しいよ」
「ありがとうございます。でも……」
言葉を切った姫さまは、ゆっくり大きく息を吸って。
「ご迷惑をおかけしてごめんなさい!」
「ああ、なんか騒ぎになっちゃったね。でも、万里子さんのせいじゃないよ」
「いいえ、万里子が迂闊でした。それに、誤解を解こうともしてません」
「そんなことしたら余計に騒がれるよ」
「彩子さまにも言われました」
「だったら仕方がないよ」
「あのっ、教えてください」
「……」
「ノワールの件、どうしてダメだったんですか?」
口を堅く結んだ万里子さんの瞳は、真っ直ぐに千鶴を向いていた。