第3話
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フラワーホールはカフェテリアや売店が入る全面ガラス張りの新しい建物。
中はランチタイムなだけに混んでいた。
「万里子さんが頼ってこられたんですか?」
「違う違う。私が押しかけて聞いたんだ。そしたらすぐに白状したよ。あの子も困ってたんだろうね」
人でいっぱいのカフェテリア、千鶴は痛いほどの視線を感じた。勿論それは彩子さまに向けられたもので、千鶴はおまけ。「一緒に歩くあの女はどこの馬の骨?」ってなもんだろう。
明るくて商品豊富な売店はまるでコンビニみたい。ふたりは飲料が並ぶ棚の前で立ち止まった。
「何がいい? おすすめは、この牛さん印のカフェオレ」
「じゃあ、それにします」
愛らしい牛さんのイラストが描かれた紙パック。千鶴が手を伸ばすと、彩子さまの細い指が先にそれをふたつ掴んだ。
「財布は仕舞って」
「でも、そんな訳には」
「いいの。先輩の言うことは絶対よ?」
そんなやりとりすらも周囲の熱い視線にさらされている。顔が火照るのを感じながら、千鶴は先輩の言葉に従った。
ふたりは窓際の、散りかけの桜並木がよく見える席に座った。高い太陽が白いテーブルを眩しく輝かせた。
「こうして仲良くしてるところをたくさんの人に見せつけたら、千鶴ちゃんは私の知り合いだって広まるでしょ? そうしたら姫ちゃんが声を掛けたこともクララ会がらみだったかも、ってなるわよね」
「彩子さまは策士ですね」
「そんなにいいものじゃないわ。老獪なズル狸よ」
ちょっと自慢げな自称・ズル狸さまはストローに口を付け、牛さん印のカフェオレを一気に啜った。千鶴もそれに倣う。初めて飲む牛さん印はミルク感が強くてもコーヒーの味がしっかりしていて、千鶴にはとても贅沢な飲み物に思えた。
「千鶴ちゃんはさ、昨日のあれを見て姫ちゃんのことを嫌いになったの?」
「嫌いになんてなってません」
「ホントに?」
「はい。ただ、ちょっと怖いなとは思いました」
「はははっ、そうだよね、ありゃ酷かったもん。でも、あんな姫ちゃんは珍しいんだよ。昨日はすごく忙しかったから、ピリピリしてたんだろうね」
「部活発表会があったからですか?」
「開会までピアノ演奏してたでしょ? あれ、姫ちゃんが弾いてたのよ。だから挨拶は中高一緒にあたしがやろうかって提案したんだけど、大丈夫ですって譲らないの。ピアノの代役も蹴ったしね。説明会が終わったあとも率先して出口誘導するし。役員の仕事じゃないのに」
「えらいんですね」
「ひとりで頑張りすぎ。だから時々爆発しちゃう」
彩子さまは牛さん印の紙パックを軽く潰してテーブルに置いた。時折、周りの席から視線を感じるけれど、テーブルの間隔は広いし声が聞こえることもないだろう。
「やっぱり、あの爆発を見たから断ったの?」
「それは…… 一番の理由じゃありません」
「一番じゃあないんだ。じゃあその一番目を教えてくれる?」
千鶴は考えた。言えません、秘密です。そう言うのは簡単だし、そう答えるべきかも知れない。けれども、それでは奢ってもらったこの牛さん印に申し訳ない――
「私にはその資格がない、って思ったんです」
「資格?」
「令女の交換日記は憧れの先輩に申し込むもの、って聞いてます。だから、私なんか……」
言いながら悲しくなった。たったの一日だけど、姫さまについて色々なことを知った。みんなが語る姫さまは頑張り屋さんで聡明で、学園一の人気者。実際、壇上でスピーチをする彼女は凜として綺麗で、見惚れてしまうほどだった。しかし、一番印象に残っているのは放課後のこと。彼女の真っ直ぐな眼差しは何度も何度も千鶴の脳裏に蘇った。
「資格はあるんじゃない? だって姫ちゃんから申し込んできたんでしょ?」
「そうですけど。でも、違うんです」
「何が?」
どう説明しよう?
憧れで申し込まれたんじゃないことは、あの文面を見たら分かるはず。
でも――
でもそれは、ふたりだけの日記の中。
たとえ彩子さまであっても、牛さん印がすごく美味しかったとしても、喋ることは躊躇われた。
「それは…………」
「言いにくいことだったらムリには聞かない。でも、姫ちゃんの想いは真剣だと思うけど」
「……」
「姫ちゃんは待ってたみたいだよ」
「待ってた?」
「そっか……」
彩子さまは窓の外に目をやった。
よく晴れた空の下、並木の桜は無残でみすぼらしかった。
だけどそこには目立たないけど、緑の若葉が芽吹いている。
「あのっ!」
千鶴は彩子さまの方へ身を乗り出した。
「ん、何?」
「ひとつ教えてください?」
「いいよ、何でもドドンと聞きなさい」
「どうして彩子さまは、私が特待生だって知ってたんですか?」
昨日の昼休み、彼女は千鶴が特待生であることを言い当てた。だけどそれは、千鶴が喋らなければ分からないことのはずだった。特待生、と言えば聞こえはいい。でもその実態は奨学生。千鶴は最初、自分は頑張って学園に選ばれたと思っていたけど、多分違う。学園に拾われたんだ。この学園は生い立ちだけじゃなく、勉強だって出来る人ばかり。だから学校も特待生に目立つ札は付けてない。
「学園長先生から聞いた」
「学園長先生が?」
「うん、そう。学期末に学園長先生が突然、クララ会に来てね、「来月から新制度の生徒が来るからよろしく」って。学園長先生はさ、長いこと入院してて心臓の移植までしたらしくって。久しぶりにお会いしたな」
「心臓の?」
「そう。九死に一生って聞いた。千鶴ちゃん、どうかした?」
「あ、何でもないです。えっと、だったら私のことは皆さんも知っている訳ですね」
「まあ、そう言うこと。殿上人のみんなは、ね」
やっぱり知ってたんだ、万里子さんも。
だから……
「あ、でも」
彩子さまは顎に人差し指を当て、真っ白な天上を見上げた。
「最初に名前を出したのは姫ちゃんだったかも」
「えっ?」
「そうそう、特待生の話題が出たときに「それは立花千鶴さまのことですか?」って姫ちゃんが先に言ったんだ。それで、学園長先生はそうですよ、と」
「……」
千鶴はまた分からなくなった。
やっぱり姫さまは元から私を知っていた?
私、会ったことがある?
こうなったら「家庭教師」についても聞いてみないと――
「あの、もうひ……」
「ごきげんよう、ランウェイの君」
千鶴の質問を遮るように、背後から声がした。
「げ!」
あからさまにイヤな顔をする彩子さま。
「酷いわね。いくら何でも「げ」はないでしょう?」
「「げ」は、ごきげんようの「げ」よ、紗和さん」
「外道が来た、の「げ」ではなくって?」
「あ、そっちか」
「酷いですわ、デートして欲しい先輩ナンバーワンの名が泣きますわよ」
ふたりの横に立ったのは、長い栗毛をポニーテールに纏めた飴色メガネのお姉さま。
「で、こちらの可愛らしい新入生、紹介していただけないかしら?」
メガネの奥に光る瞳を向けられると、千鶴はその場に立ち上がった。
「仕方ないな。こちら、一年の立花千鶴さん。あたしの大切なお友達」
彩子さまは、やれやれといった顔で立ち上がり千鶴を紹介した。
「で、こちらは竹見紗和さん。ノワールの3年生で、泣く子も黙る新聞部のスッポン部長さま」
「スッポンは余計よ」
「はじめまして。一年月組の立花千鶴です」
「こちらこそ、竹見紗和よ。お噂はかねがね聞いているわ。ところで……」
「あ、そろそろ戻らないと」
彩子さまは腕時計を見ながら、紗和さまの言葉を遮った。
「まだ早いんじゃない? 10分はあるわ?」
「戻って予習しなきゃでしょ? ね、千鶴ちゃん」
「あ、ええ……」
「じゃあひとつだけ、ひとつだけ教えて」
「さすが、スッポン部長ね」
「新聞部には褒め言葉よ」
「じゃあ、誤植の女王!」
「あれは単なる変換ミス!」
「よっ! ミス変換グランプリ」
「うるさいわね!」
「じゃあ、行こうか千鶴ちゃん」
「ちょっと待って、姫さまとのことだけど――」
「それはノーコメ、さ、行くわよ千鶴ちゃん」
「待ちなさいよ! じゃあ、千鶴さん! 彩子さんとはどこで知り合ったの?」
「ん~っ、それはねえ、偶然入ったお好み焼き屋さん」
「あなたには聞いてない」
突然、彩子さまの右手が千鶴の左手を掴んだ。
そして千鶴にウィンクを投げると、手を繋いだままで駆けだした。
「行くよ、千鶴ちゃん!」
「えっ?」
「あ、ちょっと待ちなさい!」
そんな言葉は無視して、彩子さまはダッシュで駆けだした。
引っ張られた勢いで千鶴も後を駆けていく。
「待ちなさいって言ってるでしょ!」
「しつこい! 学校は走っちゃダメ!」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「千鶴ちゃん、紙パックはそのゴミ箱ね」
「はい」
彩子さまに引きずられ、人の垣根をすり抜ける。紗和さまは行く手を遮られて、ふたりのリードが広がる。
「待ちなさ~い!」
「待ちませ~ん!」
振り向き舌をペロッと出す彩子さま。
「止まりなさ~い!」
「止まりませ~ん!」
「ちょっと話を」
「あっ、マンゴプリンが落ちてる!」
「そんな引っかけ、誰が?」
さすがはスッポン部長、距離が離れても諦めない。
「千鶴ちゃん大丈夫?」
「はい」
「あなたはそのまま行きなさい。あたしは紗和を止めるから」
「イヤです」
「え?」
「逃げ切りましょう!」
「…… 分かった。じゃあ、こっち」
「はいっ!」
「ちょっ。ちょっと貴女たち~~~っ!」
「彩子さま足速いですね」
「千鶴ちゃんだって、あ、そこ曲がって」
「はいっ!」
「ふたりとも~っ、覚えてなさ~いっ!」