一章 part6
「どうして泣いているんだい。」
彼女から、強引に傘を渡されてから、もうどれだけ経ったか分からなくなった位に立ち尽くしていると、そう後ろから声を掛けられる。段々と強くなっていく雨脚の中で、その男の声だけはやけに鮮明に耳へと響いた。
可笑しい。彼女だけが使うにしては大きすぎる傘は僕をすっぽり覆っているはずなのに、声の主は見えない癖にどうして解ったのだろうか。少しだけ、ほんの少しだけ気になったその疑問を声にすることはし無かった。
「すみません、ボール見ませんでしたか!」
アスファルトにかかった雨を踏みつぶすようにドスドスと足音が近づいてくる。
「ああ、これかい。」
先ほどの声の主は、傘と地面の間で軽快に足を運んでボールの所までたどり着くと増えた足音に歩み寄っていく。
「ありがとうございます!」
そうして、ドスドスとまた足音が遠のいていくと声の主はスタスタと近づいて、真白の靴が見えるくらいになってから今度は明確な答えを求めるように僕に問いかけた。
「君の助けた命があまりにも尊すぎて、自分の行為に涙が出るほど感動したのかい。」
「ちがっ、」
そこで口籠もる。
咄嗟に口をついて出た否定の言葉の片鱗は彼にとっては十分だったらしく、ハハと好機に笑うと、力など微塵もかかっていない僕の傘をゆるりとどけた。
「何だ、喋れるじゃあないか。」
あんまり静かな物だから、人形のように思ったよ。
そんな皮肉が、皮肉には聞こえない態度で笑う彼の顔は、見覚えがあった。
変人。もうすっかり喋らなくなった誰かのうちの一人がそう彼のことを揶揄していたのを思い出す。害は無いからと、クラスでは所在をほったらかしにされている彼が、教室で誰かと話しているのはただの一度も見たことは無かった。
けれど、彼には一人でいる事への後ろめたさは何処にも感じられなかったのも覚えている。彼女のように、何かしらに動かされた強い意志を持って一人でいるわけでも僕のように惨めに見えるだろう一人でも無い。彼には、望んで一人でいるという着飾らない優雅さが常に纏わっていた。
「一条君、最近君はずっとそんな調子じゃ無いか。元気でも無いのかい。」
目を逸らしたくても、逸らすことが出来ない不思議な魔力のせいで彼の鋭い瞳を一心に見つめる。どれだけ見てもその瞳が何を思っているのか得られる物はなく、都合の言い答えを持ち合わせていない僕はただ沈黙を貫くことしかできなかった。
「まただんまりか。」
彼はうんざりとした様子で、肩を落としてみせた。
「…。」
「思うに、君は実に上手くやれていたと思うよ。他の人間が、今の君を受け入れられないくらいには。」
先ほどの落胆が嘘のように、彼は天に向かって人差し指を立て目を細めるとニヤリと笑った。傘を差していないから全身ずぶ濡れになっている体に反して、彼は酷く気分が良さそうだった。
「最初は、酷く残念だったよ。君の生き様を見るという、僕の学校での楽しみの一つが消えてしまうからね。」
顔を上げると、次に彼はおどけた。めくるめく表情の変化は昔にサーカスで見たピエロみたいだ。
「勘違いは辞めてくれたまえ、僕には生憎そっちの趣味は無いんだ。」
顔を元の位置に戻すと、咳払いして彼は続けた。
「けれど、僕は無くした代わりに新しい楽しみを見つけた。」
それは何だと思う?
雨雲に掲げた人指し指を僕の方に向けて、まるで内緒の宝物を見せる前のように目を輝かせている。
「正解は君自身だよ。一条錦君。確かに今までの仮面のような笑みと、いつからか作り出した偽物の善意を当たり散らすのを見られないのは至極残念だ。でも、学校が始まってからずっと積み重ねてきた関係をどうして急に投げ出したのか、その理由を考えるだけで僕は全身の震えが止まらないんだよ。」
恍惚の表情で天を扇ぐ。そして視線だけを90°戻し、傘を落としたままの僕を見据えた。
「さっきの様子を見て、僕は確信に至った。人生が、人間が180°変わるというのは滅多に起きないものだ。だからその出来事は、いくらか想像できた。それは、君の今までの全てが無に思えてくるような経験で苛烈を極める物に違いなく、でもなかなか一つに絞ることは出来ない。そうして手をこまねいていたら、涙を流す君を見つけた。その様子が、確信の残りひとかけらを埋めたのだよ。」
雨粒がアスファルトに打ち付けられるのに負けないくらいの大きさで彼は深呼吸した。
「錦君、君は人を殺したことはあるかい?」
途端に、胸がじんわりと熱を持ち始める。段々と、動悸が雨音に負けないほどの大きさに膨らんでいく。その様子を見て、全て狙い通りだと彼はほくそ笑んだ。
「やっぱり、僕は正しかったらしい。分かる、分かるよ。僕にも、その経験の一つや二つはある。それにきっと誰だって、普通に生きていれば一度は通る道さ。」
そうなのだろうか。これは、そんなに簡単に済まされることなのだろうか。咄嗟に掴んだ彼女の背中の、服越しに伝わった体温が思い出したように掌に充満する。血なまぐささも、内臓の裂けた腐った臭いも無いあるべき場所にあった体温は、酷く優しい心地でしばらく手を離すことを忘れていた。
その熱が彼女を咄嗟に助けたのは誰かと問いかけて離さないから、誰なのか僕はずっと手を引くのも出来ずに考えていた。彼女を殺すまいと手を出したのは父様の考えを疑うことなく盲信してきた僕か、何処かでその考えを否定し疑問に思っている僕か、それとも握った彼女の服から体温を引きずり出した人殺しか。どれだけ反芻させても出ない答えに、彼女の声がかかるまで僕は頭の中をずっと回っていた。
彼はそれを、誰もが一度は通る道だと言った。つまり”普通”だという事だ。僕の周りにいた人間も皆この胸をえぐり取ってしまいたい気持ちを抱えながらも意気揚々と、何も考えていないふりで生きているのだろうか。だとしたなら皆、僕の思っている以上のガワを被った鷹揚な化け物に見える。
「君も、殺したことがあるの。」
「ああ、あるとも。僕があまりに魅力的がゆえに、何度もね。」
ともすれば、彼も内に秘めた邪悪を決して誰にも見せずに生きていける化け物なのだろうか。だとするならば彼が僕に答えを示してくれるかもしれない。人殺しの片鱗すら見せない彼は僕の傘を拾い上げると華麗に弁をふるった。
「誰だって他人に良くは見られたいものさ。かくいう僕も、ね。だから、あるべき自分を殺して偽物の都合のいい人間を演じたりするものだ。尤も、それをする価値のある人間は一人もクラスには見えないがね。」
頭の中が空っぽになる。彼と僕との間には、並々ならない齟齬があるのかもしれないと彼の言葉で正気に戻った。
人を殺すことが、誰でも行う人道的なことだと少しでも期待した己の厚顔具合に辟易する。僕以外の人間は、一時の感情で人を殺したいと思う事すらないだろう。それは目の前で訳の分からないことを宣う彼も、きっと変わらない。周知の事実に頭が重くなって地面を見つめ続ける無知な自分に反し、一度決壊した川の水笠に身を任せて彼は捲し立てる。
「君が毎日の植物への水やりを忘れてしまったように今までの努力を怠るようになった理由、間違いない。人間が生きているうちに必ず一度は当てはまる感情が君に気づかせたのだよ。それはずばり、恋だ。君の水を撒いていた花が、芽吹いたというわけさ!」
反応を窺いながら、彼は得意げに言い切って見せた。思ったよりも乏しい反応に、より一層の峻烈さを含めて彼は僕の肩を掴んだ。
「ぁあ、そうだ!誰彼構わず偽物の善意を振り回していた君はあるとき気付いてしまった。周りのすべてがどうでもよくなるくらいの彼女への恋心に。けれど誰もかれもにいい顔をしたい君は特別な彼女に、今更どんな特別なことをすればいいのかわからない、だから君はここでこうやって立ち尽くしているというわけだ。これですべてのピースがそろった、人間を変える”恋”というのはやはり素晴らしい。」
これは、どういう気持ちだろうか。気持ちよさげにしている彼とは真逆の感情が体を蝕んでいく。頭ごなしに抱いている感情を決めつけられた時のこの感情の名前が僕には分からない。分からないままでただ膨らんでいくこの思いは彼の猛威の中で行き場を失っている。
「シュタルク!それにしても、君があのモノクロ、いや高松君に恋心を抱いていたとは君もなかなか物好きのようだ。いいさ関係ない。愛は蒼よりも藹々しいからね。誰が誰を好きになろうとそこに愛があれば関係など無いのだよ、錦君。」
肩を掴んだまま、彼は熱烈な視線を僕に向けて一人で盛り上がっている。彼の瞳を見て声を聴くだけで段々、段々と言葉にできない想いは限界に近づいていく。
やがて彼は手をどけると、その掌を僕の前に突き出した。一気に軽くなった肩は、僕を前に向かせるのには十分なものだった。
「ほら、この手を取り給え。右も左も分からない迷える子羊には僕の力が必要だろう。僕が君を、必ずや高松嬢に見合うようなネットな男にしてあげよう。」
この胸を焦がすような感情が、焼き尽くすような痛みが恋だというのなら、きっと可笑しくなってしまう。この気持ちがそんな綺麗でずっと足をついていられる微温湯のようなものであるはずが無い事は無知な自分にも理解にはおよばない、これはもっと混沌としていて、足をつけたら仕舞には何もかもが崩れ去ってしまうようなそんなものだ。
いつか、人を殺す寸前に抱いた気持ちが焦げた胸に代わって、全身に芽吹いていく。自分が悍ましいほどに膨れ上がっていく。きっとどれだけ葛藤したところで芯間は変わらない、たとえ父さまのもとに生まれなくたってきっと僕は生まれながらにこのドスの効いた黒いモノを切に心の内で買っていたのだろう。
「迷うことは無い。涙を流したくらい自分のありように悩んでいるのだろう。ならば僕が、力になろうとも。」
さぁ、と差し出された手をじとりと見つめる。その手は人を殴ったことも、傷をつけたこともなさそうな綺麗な手だ。きっと彼も、こんな気持ちを抱いたことすらない普通の人間で、簡単に誰かの中から誰かを特別にすることが出来る気概を持っているのだろう。
その小綺麗な善意に明確な殺意が、沸々と沸き立っていく。
「いらない。」
行方を失った感情と今までずっと心のどこかにため込んでいた思いは待ちわびていたように喉から突き出てくる。鋭利な言の刃は、僕を切り裂いて彼の胸をも突き刺した。
嫌になる、抑えの効かない憤怒がこんなにも己を醜く感じさせることに。感情に任せることで僕のどこかが悦んでいることに。今の僕を、鏡に映し出せばきっと絶望するのは想像に難くない。其れだけの嫌悪を宿した瞳で彼を睨めつけたのだ。
一瞬たじろいだ彼の反応が、僕の胸に突き刺さる。怖いのは、まだこの気持ちの底が見えないことだ。その一端を垣間見た彼も皆と同じように、僕の本当に落胆するのだろう。そう思って又、頭が重たくなっていくと彼は僕の手を思い切り掴んだ。
「…、シュタルク、シュタルク錦!君はそんな顔も出来るのだね。」
静静寂寂とした小ぶりの雨の中、独り愉悦に浸っている彼は僕の手を血の気がなくなるくらいにぶんぶん振り回すと情動に支配された目で僕を掴んだ。
「どうやら、僕は君という人間をかなり勘違いしていたようだ。まさか、こんなにうれしい誤算があったなんて、君はなんて魅力的なのだろう。」
彼の放つ言葉と態度のすべてが、到底理解の及ばないのも僕の落ち度なのだろう。もう出てくることのなくなった笑顔の代わりに、精一杯の動揺が心を揺らす。
「ああ、僕は今までなんともったいない事をしていたんだ。まさかこんな素晴らしい人間が僕の近くにいただなんて!」
悦楽此処に見つけたり。周りの雨と僕と時間さえもすべて置いてきぼりにした中大きく深呼吸をして、彼は僕の肩をもう一度強く強くつかんだ。
「是非とも、僕の学友になってくれないか!」
彼の全身全霊の籠ったその言葉は最早僕の手には負えなくなり、都合のいいものを答えあぐねているとじりついた雲がすっかりなくなっているのに気付いた。代わりに雨の合間から照りついた太陽が、アスファルトに差し掛かって眩い。その一つが瞼にひりついて離れないから俯くことも出来なくなって前を向くと満面の笑みが広がっていた。どうやら、肯定の意で取られてしまったらしく彼の期待の眼差しを即座に否定しようと口を開くと即刻右手で制止される。
「いいんだ、友人に余計な言葉は必要ないだろう。これからよろしく頼むよ、ムッシュ。」
彼女から開けた普通の世界はやはり分からないことだらけで明確な善意はルービックキューブのように脈絡なしに悪意に代わることもあり、明確な敵意が懇意に変わることもあるらしい。あれだけ父さまに教えられた他人への無償の善意は、今の僕を陥れる悪意に代わっていって彼を突き放すために作った言葉は彼にとって憂いのない喜びの言葉となっている。
「友人として、君の恋路を応援しているよ。はは。」
空は雲も何もない快晴なのに何処からともなく降りしきる雨は止むところを知らず、独りでにかかった虹が艶やかにアーチを作っている。
「なかなか綺麗じゃないか。」
彼の眼には、何が映っているのだろうか。
この世界のことはまだ何もわからないけれど、この目に映る虹が美しいことだけは疑いようもなく心が感じていた。
誰かの産み出したこの胸の内を外に出さないよう咄嗟に胸をおさる。
嘘偽りのない純粋な気持ちは、歯止めが利かなくなる。そうしたら、また人を殺すほどの気持ちが出てきてしまう。それが堪らなく恐ろしくなって直ぐその気持ちに僕を混ぜて、無かったことにした。
りーな:どう、最近は
ちゃんと約束守れてる?
モノ :お生憎さま、ちゃんとやってる
りーな:よしよし、さすが一色
モノ :まぁ、ね
りーな:なに、その含みのある言い草は
なんかあったみたいな
モノ :いや、なんにもないよ
りーな:ホントにぃ?
モノ :うーんまぁ、色々あった
りーな:そりゃ無理やり喋ってるわけだから、色々あるでしょうよ
モノ :誰がやらせているんだか
りーな:誰が勝負に負けたんだか
モノ :(目が罰点のスタンプ)
りーな:ま、なんだかんだ元気そうで良かったyo
モノ :いつまで続けるのか分からないからあんまし元気じゃないかも
りーな:そりゃあ、勿論仲良くなるまでよ
モノ :絶対無理
りーな:またまたぁ
自分との共通点がいろいろ見つかって、やきもきしているころじゃないの
モノ :…
りーな:あら、もしかして図星
モノ :うるさい
りーな:ごめんごめん
ちゃんとご褒美は用意してるから、もう少し我慢してて
モノ :ご褒美って何よ
りーな:それは、まだ秘密
言ったらつまんなくなっちゃうから
モノ :ん。
りーな:あら、もういい時間
モノ :ね
りーな:じゃ、おやしみ~
モノ :お休み
好きと楽しいと嬉しいは嫌いで、幸せは大嫌いだ。
良い気分になると私はいつも空高く舞い上がったみたいになる。そうして天高く静止した上空から一度下を見れば、あまりの高さに堕ちるのが怖くなる。
楽しいの後にはいつも悲しいがあって、嬉しいの後にも悲しいがある。好きの後には嫌いがあって幸せの後には必ず不幸が訪れる。理由をいくら考えても、これといった答えは出てこない。けれど空の青さに取ってつけた理由をつけるようにもし荒唐無稽にこのことに理由をつけるなら一度飛び上がった後、人はちょっとやそっとでは更に空の上を飛べるほどに満足できなくなって幸せに気づけなくなってしまうのかもしれない。
私は今、とっても不幸せだ。だって夜分遅くまでのりなとのやり取りは、とっても幸せで時間を忘れてしまうほどだったから。
そうやって、今日の寝坊への示しのつく理由を考えながら、何時もの廊下を渡っていく。こうでもしないと、知らずのうちに死んでしまったりするのかもしれないのだから自分の行いの一つ一つを顧みるのは至極まっとうなことだ。と、誰にするでもない言い訳を作り出しては頭をぶんぶんと降った。
胸と手は、昨日からずっと傷んだまま今もズキズキと私の体を蝕んでいく。寝坊はしたもののおばあちゃんが朝ご飯を作ってくれたから、時間は何時もと大差ない。蝉の声で皆、思い出したように騒ぎ出し始めるこの時間に昨日鉢あったあいつがもしかすれば今日もいるかもしれないと肩を強張らせたが杞憂だった。
絆創膏に包まれた手のひらを確と見つめる。肩が自然と重くなって、足取りも軽やかとは程遠いものになったのはこの両の掌が示してくれている。
私は昨日直ぐにできなかったことを、あいつにするべき事をしなければならない。言葉にするのは癪だから言わないけれど何か形に映る、何かをしない限り、この疼きが治ることは決してないのだから。
杞憂だったのは廊下まで。人気のない一本道から何時ものように教室に入り込むとすぐに異様な光景と空気が私を包んだ。
「やぁ」
犬も食わない荒唐な景色に皆と同じよう見ないふりをして席に腰掛けると、その光景を作りだしている元凶の一人に無稽にも声をかけられてしまった。
「…。」
もしかしたらと淡い期待を膨らませながら一度知らん顔をしてみる。私に話しかけたわけでは無ければ、応答しない方がお互いの恥を塗らないで済むし何よりもこれ以上、この教室の中で目立つことはごめんだった。
「おや、どうやら聞こえていないらしい。」
諦めの悪そうに、少し考え込んだ後その声はもう一度私にかけられる。
「やあ、モノクローム!おはよう。」
何処かでどうせこんなことだろうと悟っていた。だから、なんとか認めないようせめてもの抵抗に無視を決め込んでいたのだけれど名前を呼ばれてしまったのならばもう、逃げようがない。
出来る事なら、このクラスで二番目に嫌いな生き物と言葉を交わしたくない。だからこれ以上会話をすることが無いように言葉を一つ一つ選んだ。
「あんたに声をかけられる理由がないと思うんだけど。」
皆が囃す様に凍て刺す視線と声で、一言だけ。風のうわさで聞いた話では私にねめつけられると皆蛙のように動けなくなってしまうそうだ。今は、そんな吹いたら倒れてしまいそうな話の効力にすら縋りたくて願いも一緒に込めた瞳でそいつを見る。
「そうカッカしないでくれたまえ、折角の美女が台無しになってしまうよ。」
私の会心の攻撃も、この豺狼への効果は今一つだった。
ひりついた空気が当たり前のように肌を撫ぜる。教室にいる皆が、私たちに視線を寄せて、集まった熱が恐らく二人を焼いているからだ。
ジリジリと焼けていく肌に、若干の居心地の悪さを感じているとそんなもの元から存在していないかのように軽快な口ぶりで獰悪な男は続けた。
「そも、学友の学友に声をかけない方が失礼というものではないかな。」
そうだろう、と馬が後方に促すといつも嫌でも目に映る鹿が俯いたままで自分の席に座っている。馬は表情を鑑みて私と同時に少しのため息を吐くと、まぁいい、とこちらに直った。
「別に、今更あんたがそういう括りにあるわけでもないでしょ。」
理屈という名の一般論が通用するのは一般人だけ。目の前のその男は明らかに私たちを今見ているような視線とは一線を画す人間であるのは言うに及ばない。
現にHAHAHAと高らかに笑いながら、手で顔を覆うその仕草は普通の人間なら恥ずかしくて絶対にできないだろう。厚顔無恥なこの男にしかできない芸当で一般的な話をされても、周りを含めて私も困惑することしかできない、せいぜいできるのは呆れて見せることぐらいだろう。
「手厳しい!取りあえずは廊下で続きをしないか。募る話もあるのでね。」
親指を廊下の方に指してクイと首を動かす。どうやら、意に介していないように見えるだけでこいつも、まわりの視線を訝しく思っていたのだろう。こいつに連れられて何処かに行くというのはごめんだが、こいつにこれからずっと声をかけられるのは死んでもごめんなので、取りあえずは否定も肯定もしないまま促されるままに廊下に向かった。
教室の中は、私たちが外に出た途端八月蝉い蝉みたいになった。
「あのさ、なんであんたが私に声をかけるのよ。」
この言葉はいつか誰かに云ったような記憶がある。おぼろげな脳中で以前も確か今と同じ心底不満げな顔だったことだけ覚えている。
「ん?さっきも言ったろう。僕の学友の学友たるモノクロ君に朝の朝礼をするのは至極もっともなことではないかな。」
目の前の紳士ぶっている男、陽川は前から知っていたが頭がぱっぱらぱーで、脳みその代わりにスポンジでも詰まって居そうな声で言葉を投げかけた。
「はぁ、あいつとアンタが友達?そんな話、ありえるわけがないじゃない。そもそも見てわかる通り、あいつとは友達ですらないし。」
「フッフッフッ、そんな稚拙な嘘で僕を騙せると思っているのかい。やるならもっと緻密でないと。
君と彼とは誰もが羨むような友好関係にあるじゃないか。
それに、僕と彼とが友人であるのは紛れもない本当の出来事だよ。昨日、彼からもきちんと了承を得ることができたからね。」
「そんなわけ、」
呆れ混じりに陽川の目を見れば、一点の曇りもない真っすぐな瞳で私を見つめ返している。その双眸を見ると、こいつが嘘をついているわけでは無い事が嫌でもわかってしまった。嘘の方がどれだけましだろうかと思い何度も目を見据えてもそこにはやっぱり嘘は一つもない。
恐らく、いやきっと到底私には理解できない何かで二人の関係は繋がってしまったのだろう。そう考えていくとこれから私に起こるべく地獄のような出来事にため息が漏れ出ていく。
「安心したまえ!君からムッシュを全て取ろうというわけじゃない。…そうだ、放課後の時間は君にくれてあげよう。何も君ら二人の時間を奪うつもりもないからね!”今日も”優雅に過ごしてくれたまえよ。」
「いらないわよ。」
最大級の嫌悪を込めた瞳で、陽川を見る。
彼なりの気遣いの全ては二人に、特に私にとっては裏目でしかない。ここで拒否しておかなければ、粘着質にずっとこいつなりの親切を向けられる。胃がいくつあっても足りないことは想像しなくても何となく悪寒で察しているので、此処は私にできる最大限の拒絶を示した。
「はぁ…、やはり君では駄目だ。そんなものでは足りない。」
「は?」
「いや、気にしないでくれたまえ。」
世界にはきっと、何をどう頑張っても自分とは絶対に分かり合えない人間がいる。クラスで謂えば、私にとっては蝉のように声高に面白おかしく群れる人々がそれだ。そして同様に彼ら彼女らも私の同じことを思っているだろう。
でも、お互いにそう思っているのが何となくわかるだけまだましだ。
今片手で制止した目の前のこいつ、陽川憂という人間は明らかに他のモノとは違う世界で生きている。こいつの中にはきっと、自分以外がいなくて一人で世界が成り立っていて何を言っても無駄だと、私だけではなく私の嫌いなクラスも同様に思っているのは彼がいつも一人でいることで簡単に理解る。
そんな非常識な人間が、一体どういった経緯で馬鹿が服を着た人間と関係を築く気になったのかは皆目見当がつかなかった。
「それよりも、だ。」
嫌悪と畏怖とが倒錯している中、浮かない顔をしたままでいると人差し指が私に向けられた。
「昨日、君は確か錦君に助けられたはずだが礼の一つや二つはもう済ませたのかな。」
クラスで一番、何を考えているのか分からないこいつと対峙しているのは正直怖い。
その言葉がこいつの口から放たれたときばかりは、その恐怖を忘れた。
「余計なお世話よ!」
つい、思いのほか荒んでしまった声が廊下に響き渡る。100歩譲ってあの場を見られてしまったのは、なんとか了承できる。けれど、その後の私のとるべきだった行為をこいつにだけはとやかく言われる筋合いはない。
飛び出た気持ちを、なんとか地面に着地させようとあくせくとしていると
「ほう、君もなかなか面白い人間じゃないか。彼ほどではないが。」
それが彼の色眼鏡にかなったらしく満足そうな顔をしながら、私を一瞥してくる。
「その反応を見る限り、勿論感謝の意は示したという事だね。」
「当たり前じゃない。」
「そうか、それならいいんだ。僕としても決して君たちの邪魔をしたいわけではないからね。」
寧ろ君たちのことは、応援しているのだよ。
ギラギラと衒った肉食獣のような目で見つめられると、途端に忘れていた恐怖が体を包んでいく。そうして動けないままでこいつを睨み返していると思い出したような鈍痛が胸に襲い掛かった。
ズキズキ、ズキズキと胸に切り傷がついたみたいになって顔をしかめる。嘘を重ねれば、こうなることは当然なのに、ついこいつにだけはいたぶられるような弱みを見せまいと強がりを言ってしまった。この弱みすら見られないようになんとか顔を背けようとすると、不幸中の幸いに目の前の人間は恍惚の表情に浸って踵を返した。
「それでは、これからよろしく頼むよ。モノクロ君。」
振り返ることのない後ろ姿に、すっかり気の抜けた肢体はその場にへたり込んでしまった。地面を通してヒンヤリと手に伝わる冷たさは、治ることのない両の手の傷に絡みついて鈍い痛みを思い出させる。心なしか昨日よりも痛みが増したように思える感覚は、じわじわと私を死へと近づけていく。まだ生きていられるのは、多分あの時一条に少しだけの正直を行為にすることが出来たからだろう。
でも、それだけでは足りない。満足のいく行為を為せていない頭の中は死なないためあれやこれやと大忙しになっている。
全く、本当に、難儀な体になってしまったものだ。したくないとは思っても、過半数がしなければと思ってしまえば私はそうせざるを得なくなってしまう。とはいえ、陽川にああ云われてしまったら感謝の意を伝える気が直ぐには湧いてこないのも確かだ。
はぁ、と大きな息を吐く。
胸をつんざくような動悸がマシになるまで、しばらくはチャイムが鳴ってもずっとそうしていた。
何もかも、自分のことさえもわからなくなってしまってから、僕は体育という授業が心底嫌いになった。他人との意思疎通も満足には出来ない僕に連携のれの字もとれるわけがなく、より一層クラスに奇異の目で見られるこの時間には出来ないことをするより、こうやって体育館の隅に体操すわりでうずくまっている方が何倍もマシに思う。僕のチームの番が来ても誰も僕を呼ぼうとはしないのを見れば、彼らもきっと同じ考えだと分かる。
普通なら、こんな身の上になった人間に誰か一人くらいは手を差し伸べてくれるのだろうか。豹変した人間が、どうしてどうにかなってしまったのか、気に留めてくれる人間はいるのだろうか。けれど僕は普通ですらいられないから、きっと以前から手を差し伸べてくれる人間なんて一人も作れやしなかったんだろう。
脹脛の間にできた影をずっと眺める。けれど目に移っているのは、陰じゃない。そのずっと奥の方、何処にいても暗がりを通して見えるのは、いつもの、あの忌まわしい裏路地だった。目を開いたままでいると段々、だんだんと影は濃くなって影の先に映し出された映像はより鮮明になっていく。
仕舞にはひざの間から移る掌の感触まで鮮明になっていって、手に出来た影までもが黒く暗く、そして少し赤くなっている。ずっとずっと、もうずっと先に仮に僕が生きていられるとしても、ずっと、そうずっとずっと先にまでこの影も続いていくのだろうか。
だとしたならば、それは、それは…
「ほら、僕等の番だ錦君。何時までもうずくまっていないでコートに入りたまえ。」
陰が、細長い影と繋がっている。その影は黒の筈なのに少し眩しく見えて目を逸らすと目の前では、キザな青年が手を僕に差し伸ばしている。
その綺麗な手を取るかとるまいか、考えあぐねているとじれったいというように彼は無理やり僕の手を取ってコートに歩いて行った。
「僕がトスを上げるよ。皆、異論はないかい?」
軽快で、それでいて重苦しい言葉はコートにいる残り四人を黙らせるのには十分すぎるほどで、彼の提案に異を唱える人間はいなかった。
種目はバレー、正式な競技用のモノと比べればかなり低めのネットは手を伸ばせば優にてっぺんまで届くほどだろう。もちろんそれは手を伸ばそうとすればの話だから、僕にとってこのネットは酷く高く、それでいてそびえたつような壁に見えた。
「錦君!」
余所見をしていたからか彼の声に目を向けた瞬間に、頭に鈍い痛みが走る。強制的に曲げられた視界を元に戻しコートを覗くと、向こうのチームの誰かがガッツポーズをとっていた。
「大丈夫かい?」
「うん。」
大丈夫だ。これくらいの痛みなんて、大したことは無い。
歩みよってくる彼は、尻もちをついた僕を勢いよく引き上げると耳打ちをした。
「次、君が前に来たらトスを上げるよ。」
彼の提案に頷くことは出来なかった。
僕が?なんのために?
今更皆に気に入られようといい恰好をする気は湧かないし、今スパイクを打った彼が仮にわざと僕の顔を狙っていたとしても怒りは微塵も感じない。
「君を見せてくれ。」
肩をトンと叩かれる。先ほどの顔を殴打した衝撃に比べれば痛さなんてこれっぽっちも感じさせない刺激は何故か、痛みを孕んで全身に広がっていく。
言葉を、頭の中で反芻させる。僕?僕を彼に見せるって、一体全体どういう事だろうか。解釈が正しいならばあんなに汚いものを、彼に見せるという事だろうか。
「錦君!打ちたまえ!」
意識が、頭の中から目の前に戻った時にはもう頭上にボールが舞っている。
無理だ。僕には、そんなことは出来ない。硬化した脚は、動く気力すら僕に湧かせやしない。
彼を見やる。こんな期待外れの僕を今、彼はどんな顔をしてみているのだろうか。父さまのように幻滅して僕を非難するのだろうか。
けれどその顔は、僕の予想するものとは大きく違っている。
僕が、彼の上げられた球を打つことを必ずするとそう確信しきった顔でニヤリと微笑んでいた。
もう一度頭上のボールを見る。今、飛ばなければもう間に合わない。今しか、もう機会はない。そう思った時には、あれだけ動かなかった上半身は勝手にネットを越えて一所を捉えていた。向こう側にいる彼のとは違う笑みの、気色の悪いしたり顔の少年。まだ飛び上がった僕を認知できていないその顔は、まさに今が至福の時間だとでも言いたげに歪んでいた。そんなにも球を当てられたことが嬉しいのだろうか、たったそれだけのことで、彼は、それに周りの人間すらも喜べるんだろうか。
恨めしい。
そう思うと、抱かなかったはずのどす黒いモノが行動を支配して、気づけば力の限りに思い切り、左手を振りかぶっていた。
「ブラーボォ!」
何が起きたのかは想像つかない。途中で目をつぶってしまったから。
ただ、聞こえてくるのは彼の満足げな声と続いて人間が一人倒れる音、耳に残っているのはただのそれだけで、跡は何処にも蠅のなくような気味悪い声も無かった。
「いってぇ」
コートを挟んだ向こう側から呻き声が、絶えず聞こえてくる。
ストンと地面に着地する音とボールの跳ねる音とが消え入る頃にようやく声の出所を見ると、さっきのスパイクを打った子がうずくまって頭を抑えている。血こそ出ていないものの仕草からは、相当な痛手を負っていることが窺える。
「僕の最高のトスに!君のドンピシャのスパイクが見事に決まったようだね!」
後方で拍手を喝采している彼を見ることはしない。それよりも自分のしでかした行為に一杯一杯でじわじわと顔が青ざめていくのが分かる。
「謝らないと、」
期待に応えられたことへの嬉しさは微塵もない。
血の気が引いていきながらも、一時的に重くなくなった脚は自然と件の青年へと向かっている。一刻も早くこの静けさに包まれた状況を何とかするべく、コートを潜ろうとネットに手をかけたところで誰かに肩を掴まれた。
「謝る必要などないさ、君も同じことをされたのだから。」
「でも、」
彼の静止にそれ以上を言えないのは彼のいう事がもっともらしく反論の余地が無いからで、それでも彼を振り切って向こうのコートに向かったのはそうしなければいけないと、そう思ったからだ。謝らずにこれ以上汚れてしまったら、堕ちてしまったら僕は、もう人ですら無くなってしまうかもしれないのが恐ろしかった。底の見えない暗闇で、もう自分がどれだけ堕ちているのかも分からない中でせめて潔白でありたいと馬鹿々々しくも願ってしまった僕はきっともう地に足がついてしまっているのだと、自嘲しながら。
「…、ごめん。」
何がどうして謝るのかは、僕にすら分からなかった。
「チッ」
だから彼がどれだけ失礼にふるまっても文句を言えるわけもなかった。
彼はバツが悪そうに立ち上がり、僕の方を軽くねめつけて体育館の外によぼよぼと歩いて行く。
「おい、中原!どこ行くんだ」
「保健室だよ!」
教師の詰問を跳ね飛ばす様に吐き捨てるとおぼつかない足取りで玄関の角に消えていった。
「今の行動は、あまり感心できないな錦君。」
振り返れば期待外れの目で、彼は僕を瞥している。今彼の瞳を捉えてしまえば自分がどうにかなってしまいそうで思わず目を背けた。
その目を向けられたのは、彼で二人目。無能を見るかのように捉えられると僕はもう何にも言えなくなる。
舌頭にも汗が滲む錯覚を覚えるほどに、彼の口元を見て次の言葉を待つ。
「君はもっと、君らしく生きなければ。普通なぞに縛られる必要はないのに。」
あの人とは真反対の意味を持つ声に、息が詰まった。その言葉に込められたのが皮肉でなければ彼は、僕が僕では無い事を否定しているという事になる。
「まぁいいさ。其のうちに、ね。」
蛇ににらまれた蛙の気分で閉口している僕をよそに、彼は楽し気に体育館から去っていった。去り際に、時計の方を指したのと終業のチャイムが鳴ったのとはほぼ同時だった。
「あんた、あいつにそそのかされたの」
放課後、何時ものように周りの人間がいなくなるまで考え事をしていると彼女の声で現実に引き戻される。
そそのかされる、その文字の意味するところは多分今日の体育のことだろうか。彼女の言葉でまだ数刻前の記憶を鮮明に思い出そうとするけれど、都合の悪いことはあまり覚えていられない性分らしくどれだけ念じても出てくるのは彼が僕にかけた言葉くらいだった。
「多分、違う。」
大方、あの場面を見ていたクラスメイトがあちらこちらで吹聴して回っていたのだろう。目の前でへの字を作った怪訝そうな瞳を見ればあの一件を知っているのだろうと分かる。
「そ。」
実際、彼に口嗾されたのが全てじゃない。寧ろ、自分が自身ですら気づかなかった感情を拾い上げたのは僕だった。だって、あの時心の底から愉悦を感じていたのも僕だったのだから。
何時ものように、自分で聞いておきながらの返答に興味を亡くした彼女は一瞥もせず教室を後にした。
「××××。」
去り際、独り言のような小ささで宣う彼女の言葉を聞き取ることは出来なかった。
下駄箱で、いつものように上履きを脱いでいると何の変哲もない普通の傘立てが目に入った。それで電撃が走ったように、昨日彼女に借りた傘のことを思い出す。今日は傘のいらない天気なので直ぐに返す必要もないが、家に置きっぱなしの其れは出来れば早く、明日にでも持ってこようと思う。
何時ものように、ちらほらと周りを見渡すと渋い顔で立っている彼女を見つける。その様子を見るにすぐにでも返してほしいというわけではなさそうだが、彼女はせっかちなところがあるのでやっぱり早めがよさそうだ。
少しばかり急いで靴を履いていると、彼女にまだ昨日の感謝を伝えていないことに気づく。いくら家に帰った時にはびしょびしょになっていたとはいえ、貸してもらったことに対する報恩の言葉はきちんと言うべきだ。
なら、”ごめんなさい”は?
言葉が頭に響いた時には思考が黒一色でそれ以外は全て簒奪されていた。途端に周りの酸素は亡くなって代わりに喉を埋め尽くすのは罪悪感に塗りたくられた血みどろの体液だけだった。
苦しい、あれだけ簡単にできていた呼吸は赤子のように忘れ、代わりにえずくように吐き出した空気と弁が詰まってしまった肺に無理やり押し流した空気の音が漏れる。
彼女が視界の隅に入る。あの時と同じ制服で、あの時と同じ顔で、あの時と同じ姿でそこに立っている彼女は怪訝そうに携帯を見つめながら僕の到着を待っている。
嫌だ。見ないで欲しい。血みどろの手で喉を顔を抑える。溢れ出る叫声を必死にせき止めて、漏れ出る殺人者の顔を見られないよう必死で隠して。
今更、世道にのっとった綺麗な人間ぶったって全て遅いことは分かっているのに。心のどこかでは笑いさえ起きてくる。
だって僕は、こんなにも汚いのに。
「つッ」
脚から伝わってくる鋭い痛みで、息つく島もなく真暗から現実に引き戻される。知覚した後でなおも薄れることなく続く鋭利な激刺は、段々と喉に詰まった体液を奥に引っ込めていって正常に戻る。
痛みの正体がなんなのか、確認しようと靴を脱ぐと間髪入れず真っ赤に染まった靴下から血がアスファルトに滴った。手で痛みの在りかを数か所弄るとその全てから金属特有の冷たさを感じる。
試しに一つ、手に止まった金属を勢いよく引き抜くとまるで慣性でも働いたみたいに抜け目から血がドバドバと溢れ出てくる。
「それ、画鋲じゃない!」
しびれを切らした彼女は、僕を急かす為に目の前まで来ていたらしくさっきまでの怪訝な顔を引っ込めて気の悪い顔で僕の前に立っていた。
「早く!そっちも脱いで!」
促されるままにもう片方の靴を脱げば、同様に地面に血だまりを作る白かったはずの靴下が露呈する。
その光景を見るや否や、躊躇うこともせずに彼女は画鋲を引き抜き始めた。僕も、少しは抜こうとしてみたけれど手が足に行き着く頃には鋭利な痛みは一つもなくなっていた。
こんな時にぴったり100点満点のおあつらえ向きな顔を僕は知らない。だからただ止むことのない出血が血だまりを膨らませていくのを何もせずに眺めていることしかできない。
大抵表情に困っている時、僕は酷く間抜けな顔をしているらしい。いつか同じように硬直してしまった時には彼女に小ばかにしたような笑みで見られたのは、まだ記憶に新しかった。
今も、僕を彼女は小ばかにしているのだろうか。半ば確信しながら恐る恐る彼女の目を見れば、キリと凛々しい相貌がとらえているのは僕の顔ではなく足だった。おまけに、きっと僕のドジを見て笑っているだろうと覚悟してみた彼女の表情に、喜と楽は微塵も入っていない。
その表情には見覚えがあった。いつかあの人が、僕を殴り飛ばした時に見たのとおんなじ顔と全く同じ気持ちが内包されているように僕の血に染まった足をまじまじと睨めつけていた。
でも、一つだけ違うのは何となく怒りの矛先が僕に向いていないんじゃないかと、期待外れの人間では無い事を安心できることだった。
「立てる?」
地に足をつければ、思い出したように鋭利な痛みが襲ってくる。思わず顔を顰めると、一瞬彼女も痛々しそうな顔で僕を見た後何処かに走り出して行ってしまった。やがて廊下の向こうに彼女の足音は消えた。
僕は、独りになった。人っ子一人いない昇降口には斜陽がかかり作り出された下駄箱や傘立ての影は実物よりも大きく見え、今にも飲み込まれそうな目の前の其れをぼんやりと眺める。もしかすると僕は、彼女の行き場も動機もない善意を嬉しく思っていたんだろうか。先に帰ってしまった彼女を思うと、胸の小さなどこかがぽっかり空いてしまったようなそんな感じがする。ぽっかり空いた穴から覗けば、昔買っていた鳥が何処かに飛んで行ってしまったのを思い出した。あの時は、父さまが一緒にいたからと出てくる感情を簡単に押し殺して笑うことが出来た。
今はそれも出来なくなって、ふがいなさと後退してしまった自分の無力に押しつぶされてしまいそうだ。アスファルトには、固まり始めた血だまりと同様に僕の何倍も伸び切った影が見えた。血だまりが嵩を増すごとに蓄積される痛みは、独りになれば不思議と感じることはない。
代わりに襲ってくるのは、脳裏に焼き付く何時もの光景とあるはずのない幻痛だけ。
それに比べればこのくらいの痛みなどど微塵も痛みではない。きっと彼女は、死ぬくらいに痛かったのだろうから。
今の今までの彼女という存在は、僕の罪悪からできた幻だったのではなかろうか。彼女に与えた痛みを思えば、歪な今までの状況にも納得がいった。
「ん。」
虚ろに足先の深紅を眺めていると、目の前には帰ったはずの彼女が立っていた。
「ん!」
一瞬、幻かと思ったが手に持っている十字架の刻まれた箱を前面に突き出す様は現実のものだとすぐに分かった。パッと手放したそれを地面に落ちないように手で受け止めると、
「それ、中に包帯と絆創膏が入ってるから。」
彼女は満足げに今度こそ駐輪場に向かって行く。斜陽に映し出された彼女の影は、等身大に見えた。
「あ、りがとう。」
ふいに口をついて出た言葉に驚いたのは、彼女だけではない。
一瞬、ピクリと肩を震わせ立ち止まった等身大は振り返ることもせずまた歩き出すと今度こそ見えなくなった。
去り際に一言
「私も。」
と、独りごとのようにつぶやいた四文字に込められた意味は、まだ僕には分からなかった。けれどきちんと、血の通った人間の発した言葉であることは理解った。
僕の為したことは到底五文字で許されることではないと分かっているから、ごめんなさいは謂わなかった。だから真っ赤に染まった真っ白を脱いで止血をして、包帯を巻きながらそれに代わるもっと大きなものをぐるぐると探し続けた。
モノ :あいつに友達が出来た
りーな:へぇ、やるじゃん
どうやら彼はひーろとはちがったみたいだねぇ
モノ :ねぇ
りーな:(。´・ω・)ん?
モノ :別の形でだけど、りなの言ってた目的は完成したんじゃないの
りーな:なんのことぉ
モノ :…。
りーな:んー。まぁ、貴方が納得できるのならやめてもいいよ
モノ :…。
りーな:納得できるならねぇ~
モノ :うざ
りーな:( *´艸`)
そっと携帯を充電器につないで、私は眠りに落ちた。
まどろみの中に、投影機が映像を映していく。その映像は意識が、朦朧とすればするほどにはっきりとしていき、やがては…、まるで…わた…し…が……
「ひいろ、あなた何処に行ってたの!今日は学校が終わった後すぐに約束があるって言ったじゃない!」
「うるさいな、お母さんより大事な用事が急にできたのよ!」
「じゃあそれは、どんな予定だったの。母さんを差し置いての急な予定なんだからさぞかし大事な用だったのね。」
「それは…友達との、大切な、」
「そう、じゃあそれはそれは大層なケーキを準備して盛大に誕生日を祝ってもらったんでしょう。お母さんも嬉しいわ。」
「そ、れ、は」
「やっぱりね。ひいろ、貴方は一つ勘違いをしているわ。貴方の誕生日も知らない、興味すら持たないような人間で周りを囲んだって、貴方は立派にはなれない。だって、それはただ、貴方の近くにいるだけじゃない。」
「…、るさい」
「そうね。本当は今日にしようと思っていたのだけれどやっぱりやめておこうかしら。だって一色、いま貴方は昔より、貴方が小さいころよりもよっぽど素敵な人間ではないもの。」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
そうやって私は、乱暴にドアをこじ開け外に飛び出した。もう決して二人で入ることのかなわない、そのドアを。
何時もより嫌に重たかったノブの感触は、夢の中でも一入に覚えている。
「で、俺に用ってなんだよ、高松。」
「惚けないで、昨日のあれあんたでしょ。」
腕組をして、冷徹な目つきで中原を睨む。運動部に所属し、教室でよく名前を耳にするこの大柄な男でも私の蛇睨みにかかれば、怖気づいて緊迫した汗を流すほどになるのは自明だった。
「は、あれって詳しくいってくれなきゃ分かんねえから。」
「一条のこと。」
彼の名前で、目の前の表情と空気が一気に曇ったのを感じた。バツが悪そうに中原はそっぽを向いている。
「…。あいつに、ボールぶつけたことか。」
「いや、その後のことよ。」
きょとんと惚けて見せた後に、また元の顔に戻る。
「あぁ、あいつに謝られたことか。あれじゃあ、俺が完全に悪者になっちまって、ったく、あいつもホントに人が悪ぃよ。」
「へ、」
あいつが、謝る?それは果たして、どちらの顔でだろうか。意外な事実に興味が湧いたが頭をぶんぶんと回して雑念を取り払った。
「違う違う!もっと後のことよ、あいつの靴の中じきに画鋲が入ってたの。」
「は?」
今までのバツの悪そうな顔が嘘のように、全部怒りで埋め尽くされていく。思わずたじろいでしまいそうになるのをこらえ毅然とした態度で尋ねる。
「あんたがやったんじゃないの。」
「するかよ、んなこと。そこまで人間腐っちゃいねえよ。大体、あいつが急に気色悪くなっちまったから、」
私のことを芯に捕らえるその瞳に、嘘はない。これが嘘ならどれだけ楽だったろう。はぁ、とため息を漏らす。
「じゃあ、いったい誰があんなことしたのよ…。」
犯人が彼ではないのなら、誰があんな非道をしたのかは皆目知る由もなかった。
「…、分かんねぇけど多分そこまでのことするやつはクラスにはいないと思うぜ。話も聞かねぇしな。」
「そう。」
嘘偽りのない言葉は、余計に私を分からなくさせる。暫く一人で考え込んでいると中原は踵を返して歩き出した。
「まあ、なんかあったら言ってくれよ。あるたびに何時までも俺のせいにされてちゃ困りもんだからな。」
「、分かった。」
思えば、例外を除いてクラスメイトとまともに会話したのは初めてかもしれない。予想に反して生まれた事実に何か都合のいい言葉を見つけようと頭の中をくんずほぐれつしていると
「お前、皆が言うのと違って案外普通なんだな。」
また大きな事実だけを残して手を上げると彼は教室に戻っていった。
少しだけ麗らかになった胸中を惑わされないようかき混ぜてから、状況を整理する。
中原の言葉のどれにも嘘はなく、全て紛うことない真実だった。ともすれば、犯人は別のクラスの人間かもしくは学外の人間という事になる。
ムムムと、絆創膏の剥がれた手を顎に当ててどれだけ考えるふりをしても答えは出ては来ない。腕についた時計に目を遣れば、もうすぐチャイムのなる頃合をさしている。昨日のように授業が始まってからクラスに入るのはいただけないので結局振出しに戻ってしまった捜査に一端の区切りをつけて私も教室に戻った。
私という生き物は、理不尽という言葉が死ぬほどいや正確には死にきれないほどに嫌いな人間らしい。
昨日、一条の足から溢れ流れて出来た血だまりと夕焼けに照らされた鋭利な金属を見て一瞬、感情のタガというやつが外れるほどに慷慨してしまった。アスファルトに滴っていく血と、何時かの自分とを重ねてこう思ったのだ。絶対に、許せない、と。
こんなことを平然と行える人間は、私を刺した人間と同じ血の通っていないドぐされ野郎で恐らく性根すらも腐っている。そんな人間はもう二度とこんな真似ができないよう、懲らしめてやらなければいけない。いや、極刑でも、恐らくは構わない。誰も手を下す人間がいないのなら、私がそうしてやる。
そう思ってしまったが最後、私はそれを実行しなければならなくなった。事の顛末は大体そんな感じで、一時の情動に流されてしまったがために今、私はこうして犯人捜しをしているというわけだ。なのでこれは、私が群を抜いたお人よしだからというわけではない。
一日の終了を告げるチャイムを小耳に挟みながら、両の掌を見る。傷一つ残っていないまっさらな手は、少しだけ私を清々しい気持ちにさせてくれる。それでいて残りの半分ほどに満たない気持ちは、てんで満足のいかないものだが。胸を蝕む鈍痛も綺麗さっぱりなくなって呼吸も何の問題なしに出来る。心なしか今日は、眠気を感じず授業中に一度も居眠りしなかった。
「よし。」
取り敢えずは、結局止めるに辞められなかった今日の日課を終わらせてから捜査を再開しよう。昨日よりも軽くなった体で、少なくなり始めた教室の席から立ちあがると目につく何時もの場所に向かう。
目の先のそいつ、一条が私と同じ気持ちで同じように犯人に怒りを感じてくれていれば私も動きやすいのだけど、何時ものやるせなさそうな顔を見るに期待はしない方がよさそうだ。
「ねぇ、いち…。」
「錦君!今日の体育をサボるとは、一体全体何事だい!?僕の華麗なトスも、打つ人間がいなければただの放物運動になってしまうじゃあないか!」
名前を呼ぼうと声をかけるも、途中で嫌気がさすほどに陽気な声に遮られてしまった。
「ごめん、実は昨日、足を怪我してしまって。」
ズボンをたくし上げて短めのソックスから覗かせる白の包帯をその陽気な人間に見せると、手を足に置きながら酷く痛哭し始めた。
「ああ、両足に巻いてあるじゃないか!そんな大層な怪我、一体全体どうしたというんだい。」
「靴の中に画鋲が入ってたのよ、それも脚を包帯で覆わなきゃいけないくらいにね。」
このままずっとこのやり取りを傍観しているのも癪なので、間に入り一条に代わって答えを言った。
「やぁ、モノクロ君。ご指摘どうも。」
少しつまらない顔で襟を正すと陽川は振り返って私を見た。皆私の両眼を蛇だのなんだのと揶揄するけれど、目の前のこの人間の瞳孔の方がよっぽどこの言葉がふさわしい。
臆することのないように呼吸を整えてから口を開く。
「で、今そんなことをしでかした犯人を捜してるの。当の本人がこれじゃあ、見つかるものも見つからなそうだけれど。」
蛇の奥、席に座ったままの無頓着を軽くにらむと、ごめん、とそれだけ帰ってきた。
「まぁまぁ、僕の大切な友人をそんなにいじめないでやってくれたまえ。」
「はぁ?あんなひどい事されたのよ!逆にどうして犯人に怒りを感じないのか、疑問で仕方ないわ!」
「君の方が熱くなってどうするんだい。」
一条との間に立ち塞がるこの非常識は、厄介なことに正鵠を射るのが上手い。謂われて血の昇った頭を冷ましていると今にもチロチロと舌なめずりが聞こえてきそうだ。
「…、じゃああんたはどうなのよ。」
私が一条に話しかけるのをやめないのはこいつらの間に、明確な友情と呼べるものを微塵も感じないことも少しの原因がある。
ほとんど試す様、陽川に訊けば彼は少しだけ怒りをちらつかせた眼で私を見た。
「勿論、怒っているさ。大切な錦君を傷つけたのだからね。」
でも、と一条の方を見る。
「彼がどうしたいのか。それを先に考えるのがマストだろう。」
君はどうしたいんだいと陽川が一条に促せば一条は困ったように、僕は大丈夫だからと答えにならない言葉をつぶやいた。
私とするよりも幾分かまともな応答をする一条に、不思議と腹が立ってくる。
「そんなわけないじゃないの!」
少しだけ私情の混じった怒りを言葉に乗せても、氷のように微笑む壁が声を通させてはくれない。
「彼がこう言っていることだし、僕等もまだ動くべきではないんじゃないかい、モノクロ君。」
はぁ?と、その言葉で喧嘩腰になった私をいなす様にその場から早々に退くと教室の戸を開いた。
「僕は十分に錦君と話させてもらったから、今日はもうお暇させてもらうよ。」
「待ちなさいよ。」
聞こえるはずのその言葉は奴の耳をすり抜けていく。何にも阻害されることなく戸を閉めようとする陽川は去り際に指を一本立てた。
「ただ、錦君。」
一条が、ゆるりと彼の方を見る。
「君が動くのであれば勿論、僕は力にならせてもらうよ。」
妖しく微笑する表情から真意を読みとることは出来なかった。
では!と優雅にステップを踏んで消えていく男に、呆れを感じて一条に直る。
「それ、痛むでしょう。」
彼がいなくなった途端、何時もの調子を取り戻した一条に苛立ちながら包帯に包まれた足を指さす。
「大したことないよ、こんなもの。」
「嘘。」
刺された背中をさすりながら、一条の言葉が偽物であることを追求する。昨日の血だまり、あれだけの量が人体から流れ出る程の怪我が痛みを伴わない筈はない。痛いものは痛いと言えばいいのに、変なところで強がりを見せるこの唐変木にもう一度尋ねる。
「怒っていないの。」
「うん」
いつもは訥々と、たどたどしく言葉を生み出す癖に、この質問にだけは明確な意思をもって彼は答えた。目を見た限りでは全くと以て、本当にそう思っているのだろう。
「そう」
それ以上、何も言うべき言葉も見つからなかったのでその場を離れることにした。こんな下らないものに意固地になる彼の見当は理解しがたいものだろうと早々に諦めた。
教室の戸に手をかけて彼をちらりと見る。すると、彼もこちらを見ていたようで目と目が合うと急ブレーキをかけたみたいにその方向を変えた。
「むかつく」
彼に聞こえない声で、そんな皮肉だけを残して教室を後にした。
だってむかつくのだ。あいつの一挙一動、変わる前も馬鹿のように変わった後も、意地を張る場所も何もかも。
これが当然だ、という顔で心無い仕打ちを一身に受けたって何かが解決するわけでもない。それなのに、そんなところにこだわりを持っている訳の分からなさがより一層私の溜飲を上げる。
「別に、死ぬわけじゃないのに」
そんな大層な何かを持っていたって生きるうえでの枷になるだけで、代わりに何かくれるような制約でもない限り塵ほどの役にも立たない。
だからせめて私とどこか似たものには楽でいてほしい。楽なまま世間に流されて行ってほしい、なんて以前とは正反対の気持ちをあいつに抱えていることに気づいて失笑した。私はきっと、彼のする事は何でも気に食わないらしい。なんにでも気に食わないから、彼の姿を目に入れるだけでイライラとしてしまうのだ。だから、彼が今為されていることを見ても同じような気持ちを抱いてしまうのは仕方のない事だった。
辛くて苦しいのは、本当に嫌で嫌でたまらないけれどそれが無かったら僕は、どうにも僕ではいられなくなってしまう病気のようなものにかかってしまったらしい。だって僕がこれ以上惨たらしい人間にならないよう彼女にこれ以上の迷惑をかけまいと、心の中では確かにそう思っているはずなのに気を張ったどこかから漏れ出たへまが彼女に突拍子もなく降りかかることを、何処かで期待してしまっているのだ。それで、蛇のような目でチロチロと小言を吐く彼女の毒牙が僕に噛みついて、まるで植物の水分を吸収するみたいに成長できることがなにより生きている実感が湧いた。
こんなにも饒舌でいるのはまさに自分という人間がつい昨日彼女のおかげで痛みを味わえたからで、てんで八方塞がりの状況に光が差し込んだことがまだ自分の中に消化しきれていないのが大きい。これなら、何か僕の命以上に価値のあるもので償うことが出来そうな、そんな期待が急に降って湧いたみたいだった。
まるで、自分が昨日よりも立派な人間になれたようなバカげた錯覚に陥る。このまま行けば、直ぐにでも彼女を殺してしまった事にとって代わる方法が頭に舞い込んできそうな予感がする。
何時もより、ほんの少しばかり清々しい心地で廊下を歩く。大抵こんな朝早くの学校は人の気配も朧気で、蠅のように啼くものも聞こえず心地がいいものだ。
だから僕はそんな少しの清々しい気持ちさえ、勿体ないからと心の中にしまうのをすっかり忘れていた。いつも、自分でそう思う事の大半は間違っていて正しいと思う事のほとんどは正しくはないのに、それでも僕はまた馬鹿の一つ覚えで前向きに生きていけるかもしれないなんて、そう思っていたんだ。
それは、まるで雨が降る前燕が空から降りて下の方を飛ぶように、地震の前触れにナマズが騒ぎ立てるのと同じように、あいまいな前触れで僕を地にたたきつけた。
優雅に空なんて飛べるとばかり思っていたからこそ地にたたきつけられたとき、より一層の絶望を感じるのに気付いたのはこれで数度目で、そのたびにこんな気持ちになっているんだから全く自分の蒙昧ぶりにはほとほと呆れかえる。
教室に入ってすぐ目に入った光景は、僕を簡単に僕ではいられなくさせた。教室の、前列の窓際。その机の上には、誰のものか原形の残らないくらいにぐちゃぐちゃになった携帯傘が置いてあった。目をこすっては見てもその持ち主が変わるわけでもなくて、目を擦る度に寧ろそれが誰のモノかはより鮮明に分かっていくようだ。
全身の毛が逆立つなんて言葉にしかない阿呆の戯言だと思っていたけれど、今本当に細部にわたる一つ一つまでの意識が鮮明に繊細に感じ取れる。こんな大きな気持ちに支配されるのはあの時以来。あの時と比べれば成長したはずの僕なら抗う術くらい身についているはずだと期待していたけれどやっぱり、そんなものはどこにも毛ほども身についてはいなかった。
「何してんだよ!!」
後方から、思い切りの良い声がかかる。
面倒に思って、しばらく無視していると肩を思い切りぐいと捕まれた。
「お前は最近のあれこれが俺だと思ってるかもしれないが、俺は何もしちゃいねえよ!」
何のことだ。無理やり振り返らされると、何時か何処かで頭に思い切りボールをぶつけた青年が立っている。部活か何かのユニフォームを着て表情は険しく、なんだか、僕の、身に覚えのない腹を僕に立てているようだった。
彼の憎しみの籠った生ぬるい瞳の奥に目を向けると、いつも睡眠のために肘と頭を支える机の上には彼のスパイクが到底自然についたのにはあり得ないくらいに泥でまみれている。
成程、そういうことか。
その靴を見たとき、何もかも、全て僕の中では合点がいった。
「おい愚図!聞いてんのか?お前のしてることはてんで見当違いなんだよ!」
はぁ。
何かにほとほと呆れかえるっていうのは、こんなに煮えくり返るような気持になるのか。あまりに早計で滑稽で、反吐の混じったため息が出る。
「五月蠅いな。」
二人しかいない教室の空気が、しんと凍り付いたのが解る。その頬をかすめるヒンヤリと冷たい空気は堪らなく心地よくて、酔狂な腕は胸のあたりを強く掴んだ腕に触れた。
彼の腕は震えている。傷が開いていく。今、少しばかり強く掴んだだけの胸のところから服が真っ赤に染まっていくんだ。無理もない。
「見当違いはどっちだよ、愚図。」
彼の、皮を直接抉るような横暴も、服を赤に濡らすくらいの横着にもやはり痛みは感じることはなく、その場にへたり込む彼を置いて僕はあの場所に足を向けた。
まだ誰か生徒を見るには一足も二足も早い時間、元来た廊下を馬鹿のように思い切り駆ける。
ずっとずっと、疑問に思っていたのだ。下駄箱の真ん中の方、僕が学校に来る頃にそこには、いつも真白のスニーカーが入っていてもう誰か教室にいるものかといつも思っては、その持ち主はいつもどこにもいないのを。だから、いつもどこにいるのだろうと思ってもさして興味はないからと、いつも放たらかしにしていた。
それに、その靴の持ち主の意味のわからない好意と、てんで反対に作り出した悪意にも意図が分からないからと見て見ぬふりを続けていた。
だけれど、今日は違う。今日はほったらかしにするつもりも、見逃してやるつもりもない。階段を上がってから汗ばむ額の汗も、だいぶ胸のあたりで見えるくらいに滲んだ血の赤黒いのも、気になど留めずに思い切り扉を開ける。あるはずの南京錠はついてはいなかった。
「やぁ、おはよう。今日は嫌になるくらいにいい天気だね。」
蒼を基調として白なんかも所々に塗りたくられた空を背景に、手すりにもたれ掛かっていた青年はこちらを向いて変哲のない挨拶を僕に向けた。
「君も、昨日謂われて空が見たくなったのかい。全く殊勝な」
「どうして、」
言葉だけでは満足できなくて自然と前のめりになった体は彼に向かって行く。
「どうしてこんなことをしたんだよ。」
心底訝し気に眉をしかめ、彼は惚けて見せた。
「何のことだい。其れよりも、その服についた血の方が僕は心配なのだがね。」
「惚けるなよ。」
腕を伸ばせば届きそうなくらいのところまで来た。
「惚けるって、一体全体何のことだい。良ければ、教えてほしいのだが。」
「僕の机の上に、傘が置いてあった。」
「ほう。」
「それも、跡形もないくらいにグシャグシャになって」
手に持った、形のない傘を前に掲げる。
「それは、モノクロームのモノじゃないか。なんと惨い。いよいよ件の青年には目に見えた仕返しをしてやらなければいけない!」
「黙れよ。」
反吐が出る。こんな芝居に付き合っていられるほど、自分はバカじゃない。それに、気分も最悪だった。
「あのボールの子の持ち物も、分かりやすく机の上に泥だらけで置いてあった。まるで、僕等をかち合わせるために計算したみたいに」
「それは、酷く悪質なやり口だ。益々君が不憫で仕方がないよ、錦君。その犯人とやらは、本当に惨い。」
まるで教科書にでも書いてある模範的な表情で、彼は残念がって見せた。
「そんなことしでかしたのは君の癖に」
二の腕ほど、付き飛ばせば簡単に地面へ落としてしまえそうなくらいの距離で立ち止ると彼を全てで睨みつけた。それでも、然として青年は態度を崩しはしない。
「はあ、君の友人であるこの僕がそんなことをする筈は無いだろう。そもそも一体全体何のために僕が」
「もう茶番なんていいだろ。君の目的は、達成されたんだから。」
どれだけ逃げようとしても、感情の支配からは逃げられない。
「ほう。」
喉の奥から出かかったのを誤魔化す様に微笑を滲ませて、青年は尋ねた。
「どうしてそれが僕の目的だと、そう思うんだい。」
「鏡を見てきなよ。」
言葉のまま、もう彼は我慢できなくなって全身で溢れ出る愉悦の感情を堪能しているようだった。
「それでも聞こう。どうして僕だと思ったのか。」
「うるさいな。」
傘をもう一度彼に突きつける。
「これが誰のか知ってるかなんて、君くらいだろ。」
持ち帰らないでいた教科書やノートの群には目もくれず、わざわざ地味で質素な藍色の携帯傘を犯行に選んだ理由は、最早彼ぐらいにしか解りえないものだった。
「ははは!確かにその通りだね、錦君。君が怒るのにはその傘だからこそだね!」
すっかり満足し漏れ出た心地の良さそうな彼の笑い声で、戻りかけの理性がまた鳴りを潜めた。
「全く、僕の犯行に気づくとは君は心底素晴らしい頭脳の持ち主だ。」
「皮肉だ」
褒められても、神経が逆なでされるような心地になるだけ。彼の犯行は、動機付けも、捲し立てるような態度も、何もかもが全て甘かった。そう、本当に甘かったのだ。まるで、逆に気づいてほしかったとさえ思えるほどに。今も、まるで気づいてくれたのを嬉しそうに簡単に罪を認めて。
けれど、そんなことは本当に、僕にとってはどうでも良かった。仮に目の前で彼が僕をどれだけの罵声で謗ろうとも、画鋲を直接肌にはっつけようとも、それでもきっと僕だけにそうするのであればこの先は何もしなかったろう。
理由はほかにある。
今日、彼の僕にしたことは僕だけのものではなくなってしまった。僕が、今彼を殺してやりたいと思うほどになったのはそれが原因だった。
「君は、彼女のことになるとまるで、普遍的な、如何にもな人間かのように怒るのだね。」
少し残念そうに、けれどまたさっきのとは程度の違う顔で悲しそうにして見せた。
「そんなこと話しちゃいない。僕の質問に答えろよ。」
満足げなのと不満げなのが入り混じった表情で僕を尚もなじる青年の口をふさぐ。
「いいや、黙らないよ。君は、大層狂おしい人間じゃないか。あるときは精一杯普通の人間になろうと偽装して、それである時は急にそれをやめ君という人間に戻ったかと思えば、彼女のことになるとまた、君は普通の感性であろうと努めるんだ。僕にはそれが、大層可笑しくてたまらないよ!!」
「黙れよ。」
さっき誰かにされたのと同じように、彼の胸倉を掴む。力に任せて端の方まで押し込めば、ガシャンという音とともにいとも容易く彼は手すりに背を預けた。
「今もそうやって、彼女のモノを壊されたからと”普通”に怒って。自分が何をされても何も感じないくせにだ!あぁ、全く君は、彼女のことになると狂っているよ。其れとも、もともとかい?」
その、狂おしさは愛しいほどに。
言葉が出てこなかった。その理由は別に、彼の感性が度を越えているからとか今僕のしていることが急に怖くなったとかそんなことじゃなく唯、彼の言葉が糾弾するでも嘆くわけでもなく本当に的を得ていて自分の今の行動はまさに言葉の通りだと、得心したからだった。
そう言われてしまえば、僕がどうして怒っているのか。その理由さえも、何時もの通り考えればどうでもいいような気がしてならなかった。
「なぁ錦君。逆に、僕がどうしてこんなことをしでかしたと思う?」
真後ろは空だというのに、決して余裕を崩さずに彼は笑って見せる。
「知らないよ、そんなこと。」
目の前の青年以外の、何者ですら分からない僕に、彼の動機というものがこれっぽっちも予想できるわけはなかった。
「まぁ、そう言わずに付き合ってくれたまえ。これで最後じゃないか。これを機に、もうきっぱりやめるから。」
どうせなら、彼がここまでしでかした理由というものを完璧に分かりたかった。分かったうえでそれが納得できるものかどうかを判断したいのもあって、少しだけ収まった怒りを無理やり押し込め考えた。
「…、僕を対立させるため。」
フッと、彼は小さく息を吐き出した。
「違う、違うよ錦君、あぁまったく」
「でも、」
「…、ふむ。」
「でも、其れだと可笑しい。君のわざとらしい演技も目に見えて対立させようとした態度も、きっとそんなに簡単なものであるはずがないんだ。それに、まだ言い訳できるくらいだったのに、さっきはいとも簡単に自分が犯人だっていった。」
そうきっと、そんなに簡単なものではない。
確かに初めて靴に画鋲を入れられた時、犯人はきっと彼で、明確に僕と彼らとを突き放すのが目的だろうと思った。でも、其の後心底心配そうな彼の態度といかにもわざとらしく僕と彼らとを対立させようとする言葉で、余計に分からなくなっていった。まるでその目的すらもブラフと言わしめんばかりに、彼の行動すべてが恣意的に見えたのだ。
「では、何だというのだね。」
その眼。彼が今僕を見ているその満足げな眼は、決して本物じゃあない。僕が仕返しをすると言った彼の意見に頷いた時の彼も同じ目をしていたし何よりずっと僕といるときはその、まだ何もなしえていないとでも言いたげなのを悟られないよう奥に潜めて僕を覗いていた。
だとしたら、その目的はなんだ。わざわざ僕に気づかれるような真似をしてその先にあるものはなんだ。答えがないかと彼の酷く近くで瞬く目をもう一度、確かめるようにして覗く。
拳には最早力は入っておらず、項垂れた腕は彼のみぞおち近くで止まっている。其の所作を見て一瞬彼の眉がピクリと動いたのを、見逃しはしなかった。
鼻の先の青年。陽川憂という人間が何を考えているのかは、到底僕の知りえるものではない。だから彼の目的に、彼のどういった感情が入り混じっているのかは分からない。だけれど、そう、丸がどうして丸いかの定義など解らなくとも流線形の始点と終点とが繋がれば丸はまるだと分かるように彼のしたことの目的というものが、僕には見えた気がした。
「君は、」
「…、」
「君は、僕を怒らせたかったんだ。」
青空に照らされた慧眼は、瞬く間に色を変えた。やっとのことで出したその、瞳の奥の目的こそ分からないにしろ幾ばくかの自信を伴った言葉はどうやら彼の道理にかなったようだった。
「…、素晴らしい。」
ぽつぽつと、拍手が聞こえてくる。
「素晴らしいよ!!!錦君!」
指数関数的に重なっていく音は、耳障りでしょうがなかった。
「そうだよ錦君、まさにその通りだ。僕は、君が僕の犯行だと分からせたうえで僕に怒りの矛先を向けたかったのだよ!」
「そんなの一体何のために」
「決まっているじゃないか。」
「誰ですらない、僕のためにだよ。」
眼を鈍く光らせ笑顔を浮かべる彼は、言葉に嘘をこれぽちも混じらせることなく毅然としていた。目的を隠すことをやめ何かに陶酔しているかのような態度は、彼そのものの獰悪で貪欲な性質を体現しているようで、彼の突然の代わりばえにおもわずたじろいでしまう。
「決まっているじゃあないか!それは勿論僕のためにだ!君に憎しみの籠った目で一心に僕が見られることを、ずっと夢に見ていたからだよ!」
真摯ぶるのをすっかりやめた目の前は、思うまま凶暴に歯を見せた。
「狂ってる。」
抑えかけの理性のタガも何処かに行ってしまったみたいで、憎悪だけを込めた殺意を彼に向ける。
「君がそれを言っちゃあ、おしまいだねぇ。」
嗤った。
「そう、その瞳だよ!僕がずっとずっと見たかったのは、嫌悪と憎悪とが入り混じったそのつり上がった眦だ。大体、君は人に狂っているなどと言える立場なのかい?それは、君の主観からくる判断じゃあないか!それなら僕の主観からして見れば、君だけじゃなく僕以外の全員も狂っているように見えるがね!」
「そんなことのために」
「そんなこととは何だね。今こうしてこの場を作り出すのに、僕は大変苦労したというのに。大体、僕は言葉というのが嫌いなんだ。どれだけ僕の気持ちを何かで代弁しようとしてみても、なんだかそれが張りぼてのように思えてしまうからね。錦君、それに君だけにはそうやってありきたりな感情にありきたりな言葉で僕をまとめて欲しくはなかったのだが。」
のべつ幕なしに彼は畳かけた。
「なんだよ、其れ。」
理解できないことは、たまらなく恐ろしい。チロチロと、舌なめずりさえ聞こえてきそうな炯眼で僕を一心にとらえ続ける行為は、思わずこの場から離れたくなるような悪寒を背に作った。
今目の先に映る彼は、父さまよりも全く未知の思考をしていた。
何を考えているか、何を思っているか、そして何をしようとしているのか、その全てがなんにも分からない、そんな化け物を体に買っている彼に恐怖を抱いた。
「まぁいいさ。」
「折角だから、少し話をしようじゃないか。」
「いやだよ。」
本当に体の中は、彼への嫌悪で満たされていた。
怒りと底知れない恐怖とでぐちゃぐちゃになった心中を誤魔化すのに精いっぱいで彼がどうこうどころではない。だから、はやばやに何かしらの彼への罰をもってこの場を終わらせたかった。
「いいじゃないか、然るべき罰は受けるつもりだ。だからその前に少しだけ、僕がなぜこうするのかを、君は知りたくはないかい。」
「それは、」
甘い誘惑だった。克つべき二つを材料に釣り降ろして、一瞬戸惑ったそんな僕を彼は見逃さない。
「ほんの少しだ。」
もしも、言葉というもので彼の考えの一端がつかめるのなら聞いておくべきと少し収まった怒りに半ば促されるようこくんと頷いた。怒り以上に、分からないことに対する恐怖をまず一入に取り払うことを僕自身望んでいるようだった。
「自分というのはどこにいるのか、考えたことはないかい。」
「…、ない」
「いいや、きっと知らないうちに誰しも一度は考えるものさ。人に囲まれながらこれは僕ではないだとか、本当はもっとこうだとか。誰も何もわかっちゃいないだとか。きっと誰もが、僕でさえも一度は考えたものなのだと思うよ。」
「現に錦君、その怒りは君のものかい?陰鬱にしていたのも、皆に馬鹿のように明るく振舞っていたのも、全て君なのかい。それに、その怒りの原因のものも君の主観によるものかい。」
「…ない。」
「ん?」
「分からない」
「ふむ。何とも君らしい。そんな無知も、蒙昧もたまらなく君という人間を輝かしいものにしているよ。」
「…、」
「僕もこうなる前、自分になる前には良く何度も悩んでいたものさ。”本当”はどこだろうとね。だけれど、ある日ある時を境にしてそんなことは考えなくなったのだよ。」
そんな一度にすべてを知れるものがあるというのなら、たとえそれが何だとしても知りたい、そう思ってしまった。
「例えば、僕が今余りにも幸福だったとしよう。それで明日死ぬことが分かっているから、今日遺書を認める。けれど、明日になればどうだろうか。僕は、今日と同様に幸せに思っていられるのだろうか。いいや、分からない。其れは僕すらも分からないのだよ。明日がどう思っているのか、少し先には僕がなんであるのか、そんなことは誰も分かりやしない。だからね錦君。僕という生き物は、最後のお楽しみなんて絶対にしない。為したいことを先送りにはしない。そういう人間なのだよ。そう、そういうように生きているのが僕さ。」
やっと、彼の本当の姿が分かったようだった。
唖然としたのは、彼に恐れをなしたからではない。彼の言った、彼を彼だというものを教えてくれたそれを、僕も知りたくてたまらなくなってしまったからだった。そのある時というものを知れたら、僕のしたことも彼女のされたことも、何もかもが形を持ってくれる気がしたのだ。
「それは、なに」
如何にも知りたくなさげに、素っ気なく尋ねる。
「焦らずともじきに分かる。それよりも、そう、君という人間についてだ。君はきっと、今抱いている気持ちすら良くは分からないんだろう。怒りもほとほと冷めてしまっているようだよ。」
「…、」
その通りだった。あの時に感じた焦燥は、冷めかけになってしまった借り物の怒りが消えてしまわないうちにと焦っていたから来るものだった。今は、もう、彼のいうものに惹かれて、さっきまでなど忘れてしまっていた。
「僕は、こんな人間だろう。だからね、生きているうちにふっと不思議と周りの人間が今本物でいるのかどうかわかってしまうようになったんだよ。」
一つ、息を吸う。
「僕と初めて話した時のことを覚えているかい。始めて僕を拒絶した日のことだ。今の君が、少し前の君が、そんなことどうでもよくなるほどにあの時の君は、君自身の本物の恐ろしい顔をしていたよ。」
「…、」
「勿体ない、心の底からそう思ったよ。それに君という人間の底知れなさに惚れもしたんだ、本当だよ。そんなにも飾らない君は素晴らしいのに、何かにとらわれたように必死で悍ましいものだと言いたげに押し殺そうとして、初めは君なりの彼女への恋の形かとも思った。けれど、違った。そんなに簡単なものじゃあなかった。だって恋というものは、もっと湾曲的なものだからね。」
「だから、僕は考えた。どうしたら君を引き出せるだろうと。如何したら僕を君の中にずっと覚えていてもらえるだろうかと。そうしたら、ほら、簡単に答えがそこに転がっていたのだよ。」
青年は、僕の手をすり抜けるとまるで割れ物を嬲るよう、丁寧に丁寧に手すりへと手をかけた。
「君を君でいさせるためにはあの人が僕を僕たらしめてくれたように、僕自身同じよう君にすればいいのだとね。」
それから一切の躊躇いもなく腰を手すりまで上げると、両手でバランスを取って見せた。
「なに、してるんだよ」
聞いたら、彼のことを少しでも分かると思っていた。動機も、彼が何を一番に思っていて生きているのかも。
「決まっているさ、僕の”今”したい事をするのだよ。」
けれど間違いだった。”其れ”を知ったところで、納得や何かわかるわけでもなくただあるのは彼への言いようのない嫌悪と、憂いだけだ。
「何、君に君らしさを取り戻してもらうのさ。」
言って青年は、まるで赤子を見るよう優しく微笑んだ。
「僕は君に、きっと酷いことをした。僕はそうは思わないが簡単には許されないほどのね。それに対して君は、僕に並々ならない感情を抱いている、いや別にそうでなくとも問題はないさ。君の頭の中に、少しでも僕がいれば。これは、僕からのプレゼントさ。」
浅い藍に彩られた髪の七三を、片手で細やかに嬲りながら青年は黒の髪で彩られた少年を水晶体に移した。
「最初は、大したことはないと強がるかもしれない。でも、段々と着々と君は今これからの光景が忘れられなくなる。忘れられなくなって、何かあるたびに何時も、僕を思い出すんだ。それで、忘れられないくらいに君のことも思い出す。そうするともう、今の君ではいられなくなる。あぁ、なんて素敵な事だろう。君が、君でいられるだけでなく僕をずっと忘れないでいてくれるだなんて、ああ!これ以上に幸せなことはない。」
もう片方の手も、軽く挙げてからひらひらと漂わせて口を開いた。
「じゃあ、サヨナラだ錦君。」
やっと見る事の出来た彼の完全に満足げな顔は、死んでしまうほどに物憂げでその顔が映ったのが不快に感じたまま彼は放物線を描き地上まで真っ逆さまに落ちていった。
ざまぁみろ。意味の分からない答弁でだらだら長々と自分を語る彼という人間には言う通りほとほと呆れかえっていたところで、彼が彼の訳の分からない大義のために飛び降りるのも、僕のためにと何かするのも、僕にとっては本当に何も関係など無いただの彼の世迷事だ。
でも、どうにも可笑しかった。僕の彼より二歩ほど立っていたところから地面など見えるはずはなく彼が落ちていくさまも、見える事はない筈だった。
だのに、手の先には重力になぞられて落ちて行く筈の彼が落ちることなく僕の手を握っていた。正確には僕が、彼が落ちないようにと彼の手を放さないでいたんだ。
「何のつもりだい、今更になって君は、普通の人間のような言葉を吐いて、死ぬなとでもいうのかい!そこには、何もないというのに。」
宙ぶらりんになった彼は酷く不満げに、目いっぱい手を握り潰す様にして僕の手を拒んでいる。
「ちがうよ」
別に、彼の訳の分からない死因が不満だからだとか彼自身の行動にまだ納得がいっていないとかそんなことが理由でこの手が伸びたわけじゃなかった。ただ、純粋に、そう純粋に
「やだった」
君が、人が、彼女が、目の前で死ぬということ自体が。
「いやだ」
ポタポタと、彼に雫が垂れる。一瞬、不釣り合いでいかにもお涙ちょうだいの汚らしい雫かとも思ったが、其の色は消して綺麗なものなどではなく、寧ろ胸から出水したままの淀んだ血による生々しいただの液体で安心したのを覚えている。
「…やだよ」
この言葉は、別に彼を思いとどまらせるための説得の言葉でも何でもない。唯の僕から出た、我儘で汚くて混じりけのない言葉だった。別に彼だから死んでほしいというものでもない。何処からか湧いてくる気持ちが、意味を持つ唯の駄々と何も変わらないものだ。もしも、彼が本当を分かるというのなら、今の僕は彼にどんな風に映っているのだろうか。人が死ぬという事を、不思議と恐ろしく思っている僕が。それまで彼の掌に込められていた力は行き場を失って、代わりに地面の方へ俯いた。
「ほら、やっぱり君は僕の見込んだ人間だったというわけだ。」
彼の出端をくじくような何かを察したようだった。落ち行く姿に彼女を重ねる僕を見て、血滴で頬を染めた彼はそうぼやく。
「賭けは僕の勝ちだ錦君。君は、堕ち行く僕をかばってその手を伸ばした。そして尚も、飛び降りようとする僕に君の本心をぶつけた。」
そして君の勝ちだ、錦君。達観していた景色が今、一つに合わさったような感動が彼を突き抜けていく。
彼はずっと、下手をすれば僕と会ったあの時からこの光景を予測していたのだろうか。完全に、一本を取られた、というわけだ。脱力感に抵抗をやめたはずの左手の重みがどしりと一気に重たくなる。痛覚はなくても、重力は感じられるらしい、といまはそれどころじゃない。
あとは彼を引き上げるだけ。もう一息に力を渾身に込めると彼の頭が、一つ分下に映った。
「けれど、」
やっと頭を合わせる事の出来た瞬間、何を思ってか彼は思い切り僕の手を振りほどき地面に堕ちて行った。
「けれどこの景色を見たら、一度死んでみたくなってしまった。」
彼の肢体は空を切ったまま、しかし悲しそうな顔はどこにもない。ワハハハハと、奇怪な笑い声が響いたと思えば、グシャリ、と骨がひしゃげる鈍い音とともにその声は霧散していった。
あぁ、死んだんだ。彼は、僕の目前で。大の字になって一見何の問題もなさそうに地面に転がっている彼からは、今に血だまりが出来るだろう。
感情の整理は、まだできない。できないからせめて、自分のそして彼のしたことから目は逸らさぬように彼の死を見届けようと目を反さずいると一向に彼からは血も何も出ては来なかった。
「いたぁあああああああああい!」
あんな言葉を残して、覚悟を聞いて、てっきり死んだとばかり思っていた彼は、思い切りその場に飛び起きてよたのよう片足を抑えた。
「痛い、痛い、痛い、痛い!死んでも、痛みなんて感覚は残っているんだね!面白い!」
ハハハと笑いながら、痛がって、又ハハハと笑っている彼の馬鹿を傍観していると、自然と殺意が湧いてくる。今すぐ、彼に悪い意味で何かしてやらないと気が済まない気持ちが胸の内からむくんでいく、けれどどうやら血の気がなくなりすぎてしまったみたいで段々と地面が揺れて酩酊していくのが解る。
「…、あ!」
殺意が伝わったのか、彼は元居た場所にふりかえって僕を見つけるとそんな間抜けな声を漏らした。
「なんだ…、僕は死ねていないのか、残念だよ。」
さっきまで全く反対のことを願っていたというのに今は無性に彼をぐちゃぐちゃに、それこそ殺すくらいにしてやりたかった。
「ころして、や…」
僕を、何とも言えないような顔で眺める彼の顔が脳裏に焼きついたのを最後に、意識は闇の中へと落っこちて行った。