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桑の花の咲く頃に  作者: 島田遼太
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一章 part4

「サイアク。」

 湯船に体操座りでつかると、口をお湯の中に突っ込んであぶくをぶくぶくと出した。

 この口癖は、どっかの誰かさんのが移ったものだ。良く口にする場面を横で見ていたら自然と私の口癖になってしまっていた。

 彼女の、電車で最後に放った言葉を思い出す。

「その昔の一色みたいな子に、毎日必ず一言声を掛けること。」

 本当にサイアクだ、例え好きな歌がおんなじだろうとそんなの今更募り募った嫌悪にはなんら影響しない。焼け石に水だ。やっと、あいつとの色々をぬぐい去れたと思っていたのにあんまりだ。

 彼女との幸せな時間の反動が、今になってやってきて余計嫌になる。別に気まぐれで一回や二回声を掛けるならいい。それを毎日だなんて、気が滅入る。やりたくない。

「はぁ。」

 大きく溜息をつく。やりたくないならやらなければいいのに、と言っているのは少数派で大多数は、彼女の約束を破ってはいけないと言っている。万機公論に決すべし。そうして私が生み出した結論にもう一度大きな溜息をついた。

 床に伏せって思い切り布団をかぶると、布ごしに私の鼓動が聞こえてくる。こうやって目を瞑って耳を澄ましているとさっきの私の耳に響いた鼓動が現実に呼び起こされる。

 私は、子供だ。下らないことに意地を張り通して、これからもそうしていく。呪いのように私の底に沈む歪んだ確執は、私の中で節義に変わってしまった。あの日から、変わらない。変えることは出来ない。

彼女のあの時言った、私が子供だというセリフにその通りだなと呆れる。梨名に抱きしめられたとき、彼女の心音を聞いたとき、私はあの人を思い出してしまった。だから、彼女にいるはずの無い人を重ねて勝手に安心した。

誰かに抱きしめられるのは、彼女で二人目だった。

「か、あさん。」

 名前を呼ぶと、昔々の温もりが私を抱きしめる。抱きしめて、もう何処にも行かせないと離さない。暖かさは、もう何処にも無い。

『大丈夫だよ、もう私は何処にも行かないから。』

 居るはずの無い誰かに、そっと囁く。

 彼女に殻を破られたせいで強い私に身を隠した弱い私が、いつもより大きく見えた。悲しそうに涙を流し、その行く当ての無い涙は何処に生きようも無く私の中に貯まっていって、段々重たくなっていく。そうして貯まった無色透明は次期に腐敗してやがて、呪いがかった禍々しい色に変わる。

それで出来たのが、私。

そう、結局そうだ。どれだけ私を強い物で覆たって根っこの私は変わらない

 私の時間は、あの時からずっと止まったまま。前に進む事は出来ない。だから、せめて私は変わらない毎日の中で変わらないことを後ろ盾にして請うている。

 ねぇ、お母さん。

『私は貴方に誇れる、すてきな人間になれているのでしょうか。』と。


  その日は、久しぶりに夢を見た。忘れた温もりと、ずっと消えない罪を認識させてくれるそんな夢。夢の中では私に制約は無いから沢山自分に嘘をついてやるんだと、いつも息巻くけど、夢の中の私はどうやら私の思い通りでは無いみたいで、私の思ったとおりには動いてくれない。それに、初まる前にどれだけそう思ったっていざ夢に墜ちると、そんな物はすっかり意識の外側にいってしまう。


『ねぇ一色。更迭って言葉を知ってる?』

『ううん、知らない。こーてつって、鉄のこと?それなら知ってるけど。』

『ぶぶー残念、そんな簡単だったらわざわざ聞かないわ。正解はね、役割を交代するっていう意味よ。』

『なによそれ!わたしにわかるわけないじゃない。』

『ははは。ごめんなさいね、それでも貴方にとっては大事なお話だからついついお母さん張り切っちゃったの。』

『私にとって、大事な話?』

『そうよ、一色にとって大事な話。貴方が素敵な人になった、その後の話よ。』

『まだまだ先ね。』

『そうね、まだ早い。でも貴方が私くらいの背になったら、きっと関係してくるわ。』

『それって今聞かなきゃダメ?私、これからクッキーを食べるんだけど。』

『今じゃ無くてもいいけど、いつかは言わないといけないわよ。』

『なら、今!』

『ふふっ、一色ったらホントに物わかりの良い子ね。』

『まーね。』

『ありがとう、じゃあお言葉に甘えて言わせてもらうわ。一色、素敵になった貴方に私は“呪い”をかけないといけないの。』

『ぇえええ、嫌だ。白雪姫みたいな怖いもの?』

『話は最後までちゃんと聞くの!確かに、白雪姫みたいな呪いよ。でも、素敵な貴方ならきっとこの呪いを、…。』


 肝心な所は段々、段々と聞こえなくなっていって今日も、私はここで目が覚める。


「おい、錦!ここを開けろ。」

 ドアノブをガチャガチャと何度も回転させては、扉の向こう側で誰かが唸っている。そんな信じられなくなったものに聞こえないふりをするために、イヤホンで耳を塞ぎ音楽を流した。

 それでも聞こえてくる父様の声に、手をかぶせてより一層耳を覆う。そうして手で耳を塞いでいると、聞こえていた音楽も父様の声もどんどんと遠くに離れていく。耳が真っ暗になっていき目までふさげば、自分がどこにいるのかもわからなくなってしまいそうだ。離れていくのは父さまでは無く自分だということに気づくのはずっとずっと、もう誰の声も聞こえないくらいの下に潜った後だった。

 声や音は、こんな深くにまで届いては来ない。でも、どれだけ潜っていても底は見えない。

この感覚は知っている。水中に居るときと同じだ。

昔々の記憶がまるで今、現実のことのように起きているみたいだった。小さい頃はよく、水泳の時間に一人ずっとプールの底に沈んで居るのが好きでどうしてか、そうすることが僕の一番の楽しみだった。

 でも解らない。どうしてそれが好きだったのかも、どうして今僕がこうして父様から逃げているのかも。

父様の声はもうずっと遠く、光の差し込むような遙かに上の方から聞こえてくる。その声が水面に波紋を造れば、途端に鉢の金魚のように飛びついたものだけれど、今となってはそれが酷く不快で自分を脅かす何か歪なシルエットにさえ見えてくる。

一つの疑問が、見えない底の方からまるで小石でも落っこちたように生まれた。

なれば、そんな”歪なもの”に餌を与えられてぬくぬくと育ってきた生き物は何だろうと。そうして落とされた疑問は拾うことはしない。それに、答えなぞ知りたくもない。もし、その概形を少しでも知ってしまったのなら、僕はもう自分のことを何もわからなくなってしまうだろうから。


父様は、誰よりも規則正しい人で毎日寸分違うこと無く決まった時間に起床して、母様のご飯を食べて仕事のために家を出ていく。

それは今日も変わらない。いつもより遅い時間に起きて恐る恐る扉を開けると、父様は家の何処にもいなくなっていた。

下駄箱を見る。僕以外の靴は何処にもない。

母様は父様に比べると少しばかり習慣に事欠く人だから、大方どこかに出かけてしまったのだろう。嬉しい誤算だ。

冷めた朝食を食べ終えると、重たい腰を上げて靴を履く。罪悪で腰からストンと落ちた重りは足のところで止まったまま、二度と離れることは無い。あの日から、ずっと僕にまとわりついたままで、多分一生、とれることも無い。


この時間帯に学校に来るのは初めてのことで時計を見れば朝のHRまで後数分、下駄箱に靴をしまい込んでいると忙しなくあちこちで生徒達が走り回っている。気にとめること無く、上履きに履き替えて前に直ると、僕の殺した人が居た。

「げっ。おは、よう。」

 彼女は、僕の顔を見るなりずっとそんな調子だ。嫌いなら無視すれば良いのにこうやって律儀に僕に挨拶をしてくれるのは、彼女にも何かそうしなければいけない並々ならない事情があるのだろうか。

「お、はよう。」

彼女は僕が心の底から笑っていないことを知っている。それに僕のことがいけ好かないのも知っている。だから、僕は彼女の前でどんな顔をして良いのかわからない。わからないままいつも言葉だけが先に出てきて、ぎこちなくなってしまう。けれど今日も、昨日と変わらないまま変な顔で挨拶すると、彼女は少しだけ満足そうにふん、と踵を返して走って行ってしまった。その”背”を目で追いかけていると、始業のチャイムが鳴った。


教室に入ると、皆がちらりと僕を見て、それから何事もなかったようにまたいつも通りに戻る。いつもの通り、僕も椅子に座る。ちらりと彼女を見るような目は、今や僕にも同様に向けられていた。おはようもまたねもなくなって、クラスの人たちとはめっきり話さなくなった。以前はよく、前日に仕入れてきた話を皆のために面白おかしく披露したり、皆に頼まれた事を率先してやっていたというのに、僕が変になってしまってから誰も僕に話しかけようとはしなくなった。例外と言えば、物好きな死人くらいだ。

以前とは違う一人きりの机に座っていると、気づけば机の褪せた木目が見えるくらいに俯いてしまっている。周りに誰も居なくなってしまったのが寂しい、と普通なら思うのだろうか。今の僕を見て、惨めだと、普通ならそう思うのだろうか。その気持ちになれないことが、苦しい。少しでも普通の気持ちの分からないことが、悲しい。僕が今までそうやって皆に気に入られようとしていたのは、別に自分のためでも、周りに誰かが常にいる優越感に浸っていたいわけでもない。全て、父様に褒めてもらうためだ。

いつもそうだった。父様は僕が皆と何かをしたり皆のために何かしたという話がとびきり好きで、家に帰ったいつもの時間に話せばとびきり喜んでもらえるのだ。

それで、言ってもらえる。

『お前は、きっと父さんのように立派な人間になれる。』と。

 僕は信じていた、ずっと。例え父様に、どれだけ頬を叩かれようと殴られようとも、父様は必ず正しく間違いなど無いのだと。だから、父様に従っていれば僕はきっと立派な人間になれるのだと、父様の喜ぶことに意味を感じることも無くそれだけをしていた。

 だから、だからきっと誰かを殺めることも父様の信じる物の妨げになるなら間違いの無いことだと、

                そう、思っていた。

 どうしてかは、解らない。解らないけど、人生においてはじめて彼女のあの言葉を聞いた瞬間、僕はそれを否定したくてたまらなくなった。何かに固執したんだ。本で読んだことがある、人がその全てを否定したくなった時というのはそれが自分にとってとてつもなく大切なことを馬鹿にされたときと、それが図星だった時らしい。

僕は心の底から否定したかったのだろう、彼女の否定したかったものを。それが馬鹿にされてしまえば、僕が消えてしまう気がして。

でも、それで正しくあろうとして人を殺めるというのは、僕は、今は、正しいとは思えない。かといって、間違っていたのかも解らない。だって、幽霊がいないことは証明できないから。

ただ、知っているのはあの時起こしたことに答えをつけられなくなって僕が逃げたこと。そして殺したはずの彼女が、何故か生きていることだけ。それ以外はてんでだめだ。そんな摩訶不思議な皆に見えるお化けになってしまった彼女に、普通抱くはずの恐怖はなかった。生きている彼女に、寧ろ、僕は安堵してしまった。

きっと、僕は普通じゃ無い。考え方も、生き方も、信じている物も、皆と違う。周りを見ていれば嫌でも気づく。でも今までは、これは父様がくれたものだと、僕はなんにも考えずに優越感に浸っていることが出来た。

今は、違う。信じていた物にヒビが入ったせいで僕は盲目するものがなくなって、どうすれば良いのかも解らない。けれど皆と何もかもが違いすぎて、今更皆に擬態することも出来ない。

そうしてひとり道理から外れてしまえばもう自分がどこにいるのか分からなくなる、僕が、なんなのかも。望まれた人間になるよう父さまに望まれて、それで今それを拒絶した僕はなんという意味を顔に書いてあるのか。唯の人殺しとでもいうのか。

きっと、違いない。分かることが少ないから、そんなことくらい僕が一番に了解している。

俯いているのは、とても楽だ。誰もわざわざしゃがみ込んで、僕をのぞき込んだりはしないから、表情が誰かに見られることも無い。それに話しかけられることも無い。そうして楽に甘えているうち、折角父様に教えてもらった笑顔もどこかに行ってしまった。

そう、どこかに行ってしまったのだ。僕の頬を思い切り殴り母様に手を上げた父様を見たとき、僕の父様も。それに、何も考えられずに縋って居られる人間も。

「おい。」

 だから昨日、初めて僕は父様とのいつもの約束を破った。あとでどれだけ恐ろしい結果になるのか、想像しないよう耳を塞いで、鍵を掛けた。

「おい、一条!」

 僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。聞き覚えのある声に顔を上げると、机の前方で前屈みになって僕をのぞき込んでいるあの人の顔があった。よくよく考えてみれば、今僕に声を掛けるのは彼女くらいの物好きしか居ないはずだからもっと早くに感づいても良かった。

「もう今日の授業終わったのに、なにぼーっとしてんのよ。」

 考え事をしているうちに気づけば、学校終了のチャイムが鳴っている。呆けているうち、あっという間に時間が過ぎてしまっていたらしい。周りを見渡せば、僕と彼女以外この教室にはいない。

「ほら、寝て、起きたらあんたがずーっと座ってたから。」

 周りを一瞥していると、頬を掻きながら彼女から都合の良い言葉をもらった。人の都合の良い言葉も仕草も、形だけは何も考えること無く解る。それは、それだけはきっと僕が唯一他と優れているところだろう。

 だから、僕はずっと気になっていた。

「ねぇ。」

「ん。」

「どうして、僕に声を掛けるのか、教えて。」

 決して目の会うことの無い彼女に、募り募った疑問をぶつけてみることにした。彼女は、僕のことが多分嫌いだ。嫌いなものにこうまでして接触する理由が、僕には見当たらなかった。

 彼女は、とびきりばつの悪そうな顔をしてから口をへの字に曲げた。

「ま、いろいろあってね。あんたには関係ないし、間違ってもアンタに好意なんてないから安心して。」

「そう。」

 適当な言葉ではぐらかされてしまった。きっと、僕には話したくない何かがそうさせているのだろうと解ったので、それきり口を開くのを辞めた。

 途端に教室は静かになった。建物全体に静寂は広がってもしかしたら、今世界には僕と彼女しかいないのではないかというくらいの錯覚に陥る。そうかんがえると言葉で表せない、変な気持ちになった。

「おい!」

 顔を上げる。まだ、僕に何か用があるのだろうか。

「いつまでそうしてるのよ。」

 彼女の言葉で、現実に戻る。一体僕は、いつまでこうしているつもりなのだろうと気づいたときには彼女は後ろの席で身支度を始めていた。

 時計を見れば、父様の帰って来る時間まであと一時間ほど。まだ、歩いて帰れば十分間に合う事が解って、心がすっとなった。

 僕は、今日も父様との約束を破るのだろうか。一日の出来事を、何も言わずに部屋に閉じこもるのだろうか。このまま、今まで僕の信じてきたものを投げ出して僕は、どうしたいのだろう。

 答えは出ないまま、支度を済ませると教室を出る。彼女はもうとっくに教室から出て行ったみたいで、廊下も階段にも人は一人も居なかった。

「おっそ。」

 のそのそと下駄箱にたどり着くと彼女が、まるで僕を待っていたみたいな言葉を吐く。特に掛ける言葉も見つからないし、都合の良い言葉も次言えば殺されてしまうので無表情で黙ったまま靴に履き替えて玄関をくぐると、隣には彼女が立っていた。

「自転車置き場のとこまでよ。」

 表情を変えず、こちらを見ることもせずに僕の歩幅に合わせて一歩を踏み出すその人を見るともなしに見ていると、また変な気持ちになる。それでも、しばらく気にしないよう歩いていると、炎天下の中蝉の鳴き声に耐えかねた彼女が口を開いた。

「ねぇ、あんた“こうてつ”の意味って知ってる。」

 突拍子の無い質問に少したじろぎしていると、彼女にいいから、と捲し立てられた。

「…。鉄の中で、特に炭素を2%以下含む物の、こと。」

 言い終わった直後、彼女は勝ち誇った顔になってそれで、フッと鼻で息をした。

「残念、更迭ってのは代替わりするって意味よ。」

 彼女は、授業中寝てばかりだから成績も下から数えた方が早い。その彼女に馬鹿にされると、何度目かの良く分からない気持ちになった。

 それをなんとか言葉にして彼女に伝えようと、あくせくしているうち彼女は自転車にまたがっていた。

「じゃ、ぽんこつ君。」

 罵倒の言葉を浴びせて彼女は駐輪場から、台風のように去って行った。

そんな彼女が、僕には解らない。でもきっとそれは、これからずっとそうだろうから考えるのを辞めて僕は一人家に帰ることにした。


 時計を見ると、時間には間に合っている。それに日も暮れていない。斜陽が眩しい位に照りつける中扉を開けると、居るはずの無い父様の靴があった。恐る恐る玄関をくぐると、父様は僕を笑って出迎えた。

「おかえり、錦。今日は早いな。」

 それは、父様のセリフではない気がする。咄嗟に笑顔を作ろうと頑張ってはみても結局満足するほどには出来なかった。

「そう怖がるな錦、父さんはねお前を許すことにしたんだ。それに流石にこの間は、僕もやり過ぎたと思っている、父さんも反省しているんだよ。だから、また頑張っていこうじゃ無いか錦。」

 父様は、表情を崩さず僕の頭を撫でた。僕の目指していた未来の完成形。その嘘で身を覆った完璧な姿は、もはや本当か嘘かも解らない。

そうしてひとしきり、僕の頭を触って本当に何も思っていないようにずっと、笑っていた。


『やっほー、りなでーす。一日目になるけどあの時の約束、破ったりしてないよね?マ、大丈夫だと思うけど。とにかく今度会うときの、一色の話楽しみにしてまーす。 PS挨拶はノーカンね(ピース)』

 今日の昼間に届いた梨名からのメールの最後を、もう一度強く睨め付ける。

 何時も大切な事やらなにやらはメールで送ってくるんだ、この子は。

「ほんと、サイアクよ。」

 さらっと最後に書かれた追伸は、私の心身を疲弊させるには十分だった。だれていると彼女のほくそ笑む顔が優に想像できてまた苛立ちがぶり返し始める。もしかしたら、振り回されているのは私の方なのかもしれない、と考えまで改め始める前に布団に飛び込んで目を瞑った。

 目を瞑ると、今度は諸悪の根源の後ろ姿が目に浮かぶ。学校でいつも見ているその姿は、目につくだけで腹が立つ。

「ぷっ。」

 だから、今日の帰り私の質問を間違えた時のあいつのなんとも言えない顔はより一層傑作だった。カタルシスって、こういうときに感じる物なのかもしれない。でも、それに面白みを感じる私にも腹が立って、それもこれ以上考えるのは辞めた。

 枕に顔を押し込めたまま、携帯であの曲を流す。

 軽快なポップ調の歌詞は、きっとあいつを馬鹿にするために生まれてきたんだ、とこのときばかりは思った。


『もし、私が居なかったら一色はどうなってたんだろうね。』

 曲の間奏でふと昨日の梨名の言葉がポツポツと頭の中でシャボン玉のように漂う。もし、彼女がいなかったら、そんなの考えたくも無い。それは、あり得なかった未来だから。でも仮にもしもを考えるなら、絶対に今の私は存在しないだろう。もっと最悪を考えるのならもしかすると、守るべき道も殺めて死んでしまっていたかもしれない。

でも、それは、もしもの話だ。

彼女が居なかったら。

 その言葉にハッとする。彼女は、自分のことを快楽主義者だのと言っておきながら、自分にとって意味の無いと思ったことは(あんまり)しない。だから、あの言葉の裏に隠されたもしもを私は勘ぐってしまう。これが、もし、彼女の言葉の正鵠を射るようなら、私は脱帽する。

脱帽してあの時のにへら、と笑った顔を一発殴りとばしてやりたくなる。

 だって今、私はそのもしもに付き合わされているのかもしれないのだから。

「全くあの子は!」

 本当にサイアクな気分だ。枕を頭に押しつけ、思いの丈を言葉にする代わりに言葉にならない唸り声を上げた。

 

「お、はよう。」

 父様に教えられたように、今日は僕から初めに声を掛けた。人に挨拶すること、それは会話において日の出のようなモノでまず人とのコミュニケーションここから始まるといっても過言では無い。そう力説する父様に倣ったかけ声は、ぎこちなくて頼りない。

「お、はようってあんたも相当に物好きね。」

 物好き、それは君にふさわしい言葉だとも思ったけれど僕からは何も言わなかった。

 早々に会話を切り上げるとすれ違いざまに、また、彼女に訊かれる。

「一条、あんたさ。あの曲の歌詞の意味解る?」

 その物好きな死者に訊かれた質問を、ゆっくりゆっくりと頭の中でかみ砕く。

「…。解らない。」

「そ。」

 知ってましたと言わんばかりの手際の良さで、満足げに僕を一瞥すると一言だけ告げ彼女は足早に廊下の角に消えていった。

「今日は、終わり!」

 嬉しそうな彼女を目で追った後に、僕も教室に向かった。

 余りにも嬉し気に僕との会話を切り上げた彼女を見ていたら、あれだけ誓った父さまとの約束も霞んでいった。


 物好きな彼女、高松一色は皆から女王様と嘯かれている。端正な顔立ちに、少しばかり存在感の強い吊り上がった目、長い黒髪、優しさを微塵も感じられない横柄な態度。その全てが、彼女を女王と呼ぶのに十分な理由だった。

 女子は勿論、男子すらもあの瞳に睨まれればたちまち蛙のように動けなくなってしまう。それだけの覇気を伴った女王の名に似合う慈悲も容赦もない鬼のような人間だと、名前を忘れた誰かが声高に吹聴していた記憶がある。

 そんな風にクラスの皆にとって悪名高い彼女を、僕は良く分からない。ヒトラーとか、スターリンみたいに特別独裁欲が強いとか、リーダーシップに優れているわけでもないしそれに恐ろしいと言われている彼女の目つきも、何一つ人間離れしていない様に思えるから。

 でも、皆は口々に彼女の悪評を広め彼女を都合の良い共通の敵にして、毎日の肴にした。

 教室には、五月の蠅が沢山たかっている。皆で話題を餌に群がっているこの光景は、彼女の上に成り立っている偽りの関係だろうか、それとも本当に存在する物だろうか。

 解らない、でもなんとなく気づいていた。父様の教えたとおりにして僕の作り出した関係は、まるっきり全て偽物なのかもしれないと。

 事実、いい顔をしない僕は皆にとって必要のないもので今は彼女以外のだれも、僕には寄りつかない。それに存在自体を面白みの対象にしていた人達も、彼女の蛇にらみで僕に近寄ることは無くなった。

 父様は周りに人の居ない人間を天涯孤独とそしっていた。それで僕も、おんなじことを思ってどこかで馬鹿にしていた。

 けれど今こうして天涯孤独の身になってみると、なんだかこっちの方がずっと楽なように感じる。加えて蠅の中に群がっているより彼女に姦しく罵倒されていた方が、幾分かマシにすら思えた。

 彼女の背からはらわたを切り裂いて開かれた世界には、解らないことが現実のそこらの小石と変わらないくらい転がっていて、死んでしまったみたいに何もかもが昏く蠢いている。今まで、何も考えなかった事のツケを、今こうして払わされているんだろう。

 皮肉だ。あれだけ正しいと信じてやまなかった父様の教えは、これだけ広い暗闇の中では、とてもちっぽけな灯火のように感じる。

 僕は、その火の届く所で灯の絶えないようにずっとそこにいられるようにと他の誰もが手探りで真っ暗の中を進んでいる中でただ一人そこから動かないで居た。

 少なくとも蛆虫が、蠅に成長するまでの間はずっとそうだ。

 動かないで居るのは、きっと正しいことでは無いとなんとなくは分かる。でも、その間に暗闇の中で蠢き成長した人間が蠅になっていったのも、正しいこととは思えない。

 ならば、一体全体僕は何を信じれば良いのだろう。何を信じた僕が正しいのだろう。

 振り返ると、光はもうほんの米粒ほどの大きさしか無い。ほんの小さな光に照らされた手は艶やかな血がてらてらと輝いている。どれだけ拭っても、こびりついた血は僕の手から離れはしない。

 この鉄くさい液体は、ただの結果だ。彼女を殺して、僕が手に入れた物だ。その鈍やかに光る戦利品は、きっと灯火に集る蠅をつぶしたところで手に入る物では無い。

「いつまでそうしてるのよ。」

 今日もあという間に、時は過ぎ去っていた。教室にはびこっていた蠅は四散して彼女以外は教室のどこにも見当たらない。

「…。うん、ごめん。」

 俯いていた顔を上げると、端正な人間の顔をした彼女は、つっけんどんに机を揺らす。

「…、変な奴。」

「…、ごめん。」

 促されるまま机に並べられた教科書を鞄にしまい込んで、ふと教室の端に消えゆく彼女の背を瞥する。

 その華奢な背に刃を突き立てたことに、後悔はない。彼女の言葉と血で今、僕は灯火とはずっと遠い真暗にいる。そうして足下すら碌に見えない中で、人を殺した罪を罪と思わしてくれる鉄臭さに、醜悪な自己を刺し込んだのがせめて人の姿をした彼女で良かったと、胸の内にしまった。


 駐輪場に着くまでの時間は約三分。私は、もう今日の梨名の課題は済ませたので斜め後ろをのろのろ歩く一条とその間喋るつもりは無い。死にかけの蝉みたいになったこいつがわざわざ私に話しかけることは絶対に無いだろうからそれまでは、この異質な空気をどうすることも出来ない。

 折角惰眠のあと気持ちの良い寝覚めが私を出迎えてくれると一つあくびをしたっていうのに、目尻に溢れた涙を拭き取ったところでいきなりこいつが視界に入ってきた時の不快感といったら無い。そのまま忍者みたいに抜き足で教室を出れば、今この不快感がずっと停滞していることも無かっただろうに、あいつの曲がりくねった後ろ姿を見て気づけば声が出てしまった私自身にもなんだか腹が立ってくる。

 今、私に出来る唯一の抵抗はなるべくこいつを視界に入れない事だけ。足が自然と速くなったり遅くなったり煩わしいのに、気づかないふりをしながらアスファルトを蹴る。

 人って言う生き物は、何か体の機能が制限されていると、それを補おうとしてその他の機能が飛躍的に向上すると昔、何かの本で読んだことがある。

 だから今まさに言葉を出すことが制限されてしまった空気の中自然と耳が、鼻が外から情報を引っ張ってこようと息巻き始めるのは人間として止めようが無いんだろう。

 すんすんと鼻を鳴らせば、ペトリコールの臭いが鼻をつきぴくぴくと耳を澄ませば、それぞれ感覚の違う二つの足音が聞こえてくる。

 ぶんぶんと頭を振って歩を早めると、それでも減衰しない私の耳が八月蝉いくらいに背後のグラウンドで部活にいそしむ生徒達の喚声を掴ましてくる。

 全く、気楽なもんだ。そうやって体を動かしている間に、誰かが全力で頭を回転させているって言うのに。バットに硬球が当たる音と、私に対する悪意など微塵も無い野球部の間抜けな叫声にすらイライラと憤りを感じてしまう。

「危ない。」

 一瞬、イライラも憤りも何もかもが止まった。時計の秒針までも緩やかに何十秒かに一度進んでいくようだった。

 足を止めた覚えは無いのに、私の歩は突然、何者かに止められた。振り返ると一番近づいて欲しくない奴が寸前にいる。突然、服を掴まれたせいで乙女みたいな情けない声が漏れて、其れを誤魔化そうと語気が強くなってしまうのは仕方のない事だった。

「っ、何するのよ!」

 二秒前を無かったことにしようとして一条に叱責するのと、私の二秒後に居るはずのアスファルトでコーンと野球のボールが跳ねた音がしたのはほぼ同時だった。

 段々と、制止した時が始まっていく。すっと血の気が引いたのが、元に戻って血流が全身を流れていく。もし、もしもこいつが私を制止しなかったらあのコロコロと校門に転がっていく硬球は私の何処に当たっていたのだろう、どれだけの衝撃が私を襲っていたのだろう。

今日の物理の時間、寝耳に挟んだ落下運動の方程式を頭の中で転がす。グラウンドから校舎を飛び越えてきたんだ、そこまで飛び上がったボールが落ちてくるときの速度なんて、もう、それは…

一通り考え終わると、さっきこいつが私にしでかしたことへの怒りなど綺麗霧散に弾けていた。

「…、手、どけてよ。」

 深く掴まれていた背中の部分が思いの外痛む。見れば、私の服越しで一条はげんこつを作っているのだからそりゃ痛いはずだ。

「…、ごめん。」

 痛みと一言だけを残して、一条は掌を開く。

 これだけのことをしてなおも変わることのない彼にどこか置いてきたはずの怒りが、思い出したよう沸々と滲んでくる。

「っ、なんであんたが謝るのよ!」

 人の命を救っておきながら、すぐに俯いて行方の分からない謝罪をしでかす大馬鹿野郎の肩を思い切り掴む。これじゃあ、私が抱いたはずの小っ恥ずかしい感謝の気持ちも行き場を無くしてあまりに可哀想だ。後味が悪い。

 だから代わりにこの苛立ちから生まれた情動を思い切りにぶつけてやろうと肩を揺すって無理矢理に顔を上げさせようとした。

「そんなんだから、あんたは」

 けれど私の見たかった顔と、その顔とはあまりにも違っていて、また時間が止まったようになった。

 これ以上を言ったら絶対にダメだと頭の中が全力で私に待ったを掛けたから、それ以上が私の口をつくことは無かった。

 いつもの通り無表情にこちらを瞥して来るんだろうと高をくくっていた一条の顔は、これ見よがしにいろんな物が混ざって歪んでいた。とても、人を助けた後には思えない苦悶の表情で私から目を逸らして目尻には涙が浮かび始めている。

 きっと、私があと一言でも何か言えば崩れ去ってしまいそうな不安定なそいつに私が何を言ってやれるわけも無く、そっと肩に置いた手を離す。

 興覚めだった。

 支点を無くした体はふらりと一歩後退した後で、なんとかその場に留まってまだ、覚束ない重心の中でポツポツと何かがアスファルトを濡らしていった。

 アスファルトだけじゃ無い。足下を濡らしている何かは、私の髪や衣服にも一様に降ってくる。その滴の冷たいのと暖かいのの中間くらいのぬくい温度に、私は一瞬それが目の前の人間の涙だと錯覚した。

 勿論、そんなに簡単はずはなくそれは夏場の熱気を孕んだ雨だった。

 俄に降り出した都合の良い滴の固まりは、あという間にアスファルトを濃い藍色に変え私と一条をずぶ濡れにしていく。

 念のためかばんに入れておいた携帯傘を取り出す。組み立てた傘を差すと、私を濡らしていた雨はぴたりと止んだ。

 俯いたままのあいつは多分、今日雨が降ることを知らなかったんだろう。屋内にも入らないし、傘も差さない。一向に雨をしのぐそぶりを見せないけれどそんなの私の知ったことじゃない。こいつの問題だ。

ずぶ濡れのこいつを無視して振り返り、駐輪場に向かう。元々、帰りのこの時間は私のなんとなくの気まぐれで出来た変な状況だったから丁度良い。それに、人を助けておいてあんなにも苦しそうにしているこいつのことが私は分からない。だから、とりあえず一刻も早くこいつから離れたいというのも本音だった。

一歩を踏み出して、二歩を踏み出す。こいつの少しでも遠くへ行こうと足を前に出す。けれど、私の足は重しがかかってなかなか思うようには動いてくれなかった。

ついさっきのあいつの顔が、頭から離れなくなっている。あの顔、あの表情は、一体どこから来た物だろうと考えると自然と足が止まってしまう。

 自分でも思っていないくらいに、私は動揺していた。冷静でいようとは思っていても今起きた一連の出来事に都合の良い言葉が見つからない。

 立ち止まったまま傘の端から、見るともなしに後ろを見る。きっともうずっと離れているという予想に反して、私とあいつとの間はまだ数歩分しか出来ていない。

 一条が歩いたそぶりは見えない、それどころか生きているのかすら。つまり私が歩いている間に距離が縮んだ訳じゃ無いから、そのたった三歩くらいの距離は、私だけが作ったものだった。

 心底腹が立っているのが解る。当然視界の隅に見える白シャツのうつむき加減にはらわたが煮えくりかえったのも言うに及ばない、でもそれ以上に私は私に腹が立っている。

 この場から今すぐ立ち去りたい気持ちは、今、こいつをほったらかしにしたくない気持ちと戦っているからだ。戦っているっていうのはつまり、両者が拮抗しているって事だ。だから私は、そうして私を立ち止まらせる一方の感情に心底憤りを感じている。

 大きく溜息をつく。勿論、少し離れたでくの坊に聞こえるくらいの大きさで。

 全く嘘がつけないっていうのも考え物だ。本当の私は、一条を気に掛けてやる優しさまで持っているお人よしのような人間なのだろう。でも、それを認めたくない強くありたい私も居る。

 私以外の普通の人間は、こんな葛藤をきっともっと簡単にいなしていくことが出来るだろう。今ばかりは、自分に簡単に嘘をつける人が羨ましい。

 まぁ、ごたごた言っているけれどつまりは、やりたくもどうしようもないことをやらされる窮状に立たされているというわけだ。

 頭の中で考え出されるすべての悪態をつきながら、振り返る。振り返って地面をまじまじと見つめているあいつのところに歩む。皮肉にも、ほんの少しの三歩を歩くとすぐにあいつの真ん前にたどり着いた。

「ん。」

 早く立ち去りたい気持ちは持ったままで、私は一本しか無い傘をぶっきらぼうに前に出した。

「ん!」

 微動だにしないで俯いたままのそいつの手を取って傘の柄に無理矢理絡ませる。

「それ、お礼。」

 顔を上げた一条の顔は、見えなかった。そうしたのは紛れもなく私で、見たらなんだか後味が悪くなってしまうと思って傘を傾けたんだ。其れは私がしたかったことだ。それ以外は黙秘を貫きたいところだけれど。

 私は、相反する感情に納得できる都合が良い塩梅を見つけると、いそいで駐輪場に向かった。その間に雨脚は、狙っていたようにその勢いを増していく。

 全く、とんでもない事をしでかしてしまった。これじゃ家に着く頃にはすっかりびしょ濡れだ。自転車にまたがって少しでも濡れないため家までの全速力を決め込む。あいつを横切ったとき、一瞬滴は当たらないはずなのに傘の中に雨が降っているのを見て、それが私には、不思議でたまらなかった。


 びしょびしょになった夏服の水気を払って、自転車から降りる。体が重たいのは、水分をこれみよがしに詰め込んだ衣服のせいだろう。

 これだけ衣服が濡れていると、嫌でもあの日を思い出す。私の衣服を真っ赤に塗らした思い出したくも無いあの日のことだ。

 いつもの私なら、こんなネガティヴな考えすぐに突っぱねてしまうのに、打ちひしがれてしまう今日は調子が悪い。それもこれもあいつのあの顔を見てしまったからだ。

 大きな溜息が溢れる。不幸中の幸いなのは、せめてあの場をすぐ離れたこと。あれ以上あそこにいて、あいつの顔を見ていたら私の情緒がどうなっていたかは、あんまり考えたくない。

 雨の勢いが少し弱まった。それでも空は一辺倒に暗いままだから不思議に思って曇り空を見上げると、雨が弱まったわけではなく入り組んだビルの外付けの階段が代わりに雨を少しばかり凌いでいることを覚えた。

 息が詰まる。ここは、あの日私が誰かに刺された場所だった。あの日から、この道を通らないようにして気を付けていたというのに今日はあいつが頭を埋め尽くしたせいで通らないよう意識できなかった。そうしてまだ抜けきっていない“いつも”の帰り道に向かって勝手に足が動いてしまったんだ。

背筋が凍り付いたみたいになって動けなくなる。先人達が口を酸っぱくして言う嫌なことは必ず連続して起きるっていうのは、どうやら現代に語り継がれるほどには供給があるらしい。嫌なことを考えて、嫌な気分に浸っていたら、芋ずる式に私はここにたどり着いていた。

 強がってはいるけど、怖いものは怖い。いつもの強い私も、この薄暗い路地を前にして息を潜めている。私の居る場所は丁度、出口と入り口の真ん中くらい。他事を考えているうちに、一番嫌なところでこの道をとおっていることに気づいてしまったらしい。

進むにしても戻るにしても距離は同じくらい。

 それならどうせ後ろよりも前に進んだ方が良いじゃ無いかと頭の中では満場一致で事が運んでいく。

 全く、実行するのは私だからって頭の中では気楽なもんだ。

 雨の日にイヤホンを掛けると故障の原因になるから普段はしないんだけど、今ばかりはどうしても耳に挟みたくなって曲をかける。

 勿論訊くのは、一条が多分死ぬまで理解できないような皮肉を歌ったあの歌で一度あの曲の軽快なステップを訊いたときにはもう虎の威を借る狐になった気分にみたいだった。

「歌詞以外も良いじゃないの」

 後ろをつけているかもしれない誰かにも、聞こえるように嘯いた。

 歌っていうのは、何度も聞くうちに好きがどんどん増えていくものでこの曲のリズムが良いなと思ったのは他の私の好きになった曲の良いなとおんなじだ。

 なのに、そう思ったのがどうしてか癪に触ったのはあいつとおんなじことをおもったかもしれない事に対する、嫌悪感からくるところなのかとも思う。

 その苛立ちは亜空を切り裂く刃に変わって、なんとか形作っていた私の世界は一気に壊れ途端に現実に引き戻された。

 現実の世界は薄暗くて、不気味だ。音楽の力でなんとかあと十数歩でたどり着くくらいまで来たけど、何も無いままで進むにはその残りの距離が限りなく遠く無限に感じる。

 一歩を踏み出すごとに、嫌な考えが一つ二つと脳漿を犯していく。後ろが気になって何度も振り返る。

死なないことは、怖くないことと何ら関係はなかった。今もこうして前を向いていると後ろから誰かがにじり寄ってくるような錯覚に陥って後ろを顧みずにはいられない。死への、本能的な恐怖はまだ私の中に色濃く残っている。

こんな化け物みたいな体になっても、その恐怖が残っている事が心のどこかで嬉しかった。人間味があって”普通”だからだ。でも、弱弱しい嬉しみだけで恐怖に打ち勝つのは無理がある。

距離は残り半分ほど、出口に近づけば近づくほど雨の滴よりも幾分か生暖かいものが額に滲んでいく。“トラウマ”なんて、二つも持つべきものでは無いと思っていたのに、知らずの内に二つとも引っ提げているのだから、強がっていたのがなんだか滑稽だ。

この短い距離の中、現実にひき戻してくれた原因である、諸悪の根源に皮肉を込める。もしあの時、私があのまま進んでいたとしたら間違いなくただではすまなかったろうにそれを知っていながら助けておいてあのやるせない顔は、あの絶望したような顔は一体何を思えばそうなるのだろう。結果的に、私がおおいに助かったのは否定しようもない。もし私が救急車でもよばれるくらいの大けがをして、そのあとにケロッと起き上がったりでもしたら大問題だ。だから、怪我をしないことは私が二番目に気をつけていることで今回あいつはその二番目を守ってくれた。

出口まで後数歩の所まで来て、強張っていた肩は段々と弛緩していく。雨が降っているとはいっても空の見える場所の方が路地裏なんかよりはかなり明るい。だから雲から透過した薄光が肌に透過されるのをみた瞬間に、すっかりさっきまでの場所を終えたと高を括ってしまっていた。

 安心しきった片足は動きを鈍らせて、身動きが取りやすいようにと降りたはずの自転車から思い切りずっこけてしまった。身動きがとれなくなったことに、途端に自分がまだ路地を越えていないことを認識して、呼吸もずっと荒くなる。

 今、後ろに誰かいるなら?

 倒れている人間の背に刃を突き立てることの難しさといったらないだろう。私はきっといとも簡単に殺されてしまう。そう意識するだけで、鳥肌が姿を見せて震えも止まらなくなった。

 恐る恐る、目尻に涙を滲ませながら後ろを睨め付ける。そこには、


 誰も居ない。

 

 人間がオの口で吐き出せる限界の量の息が口から漏れる。けれどつかの間に、掌の鈍痛に顔が歪んだ。

 なんとか起き上がって両の掌を覗けば、下半分が擦れて血だらけになっている。

「つっ。」

 いつもなら、もう治っているはずのその傷は刺々しくなかなか私の手から離れてくれない。

 全く治らない怪我に、心当たりがないとは思わない。思い当たる節なら痛いくらい鮮明に頭に浮かんでくるのだ。

 あそこから逃げ出すための都合の良い塩梅なんて本当は何処にも、私の中にすら無い。それでもそうして、逃げてきてしまったのは、いつかの親友の言葉に反抗心が芽生えて足を引っ張ったからだ。

「分かってるわよ、それくらい。」

 過半数は、反対していた。

 だからこれは、私が甘んじて受けいれるべき痛みだ。

 こんな小さな嘘が積み重なっていくだけで、私は簡単に死ぬことが出来る。それでこけたのも必然のように思えてくる。

 この罪にはまだ情状酌量の余地があるのだろう。実際に私が死んでいないのが、その証拠だった。

 まじまじと血にまみれた両手を睨め付ける。傷口は開いたままで、鮮血は絶えず流れ出て地面にぽたぽたと落ちていく。

分かってる。

化け物になってまでも、私には誓い続けなければいけない守則がある。そうまでしても生き続けなければいけない理由がある。

そんなの血を見るより明らかなのは言うに及ばない。

今日の私を、きっと母さんは許してくれないだろう。

この両の痛みを忘れないよう拭う事もかばうこともせず自転車を起こす。

痛い、けれどこれは私が生きている証だ。正しくあるための痛みだ。正しくなければ、あの時得た生に理由がなくなってしまう。私が今、生きていることに意味がなくなってしまう。

あれだけ遠くに感じた出口は、もう目の前にあった。

 この世界の100%は生きている人間の数だけ違う主観によって解釈され、ルービックキューブのように誰かの持つ一つの面からは他人の面はたとえ地で繋がっていたとしても決して見えない。そのなかで、独り誰にも敷かれないレールを敷き続けるのはただ事じゃない。皆と違うように生きるっていうのは、余りに辛いことだ。けれどその辛さこそ、私が生きていて切に願うものでもある。

足を速めてなんとか路地を抜けると、そこは私の思っていた理想などはどこにも無くただの晴天と、雲もないのに何処までも降りしきる狐の嫁入りが転がっているだけ。信念と本当とがぐちゃぐちゃになったこの空に晒されて、ただ一つだけ断言できるのはきっと今見えている虹を、嫌いな人なんていないという事だけだった。


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