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桑の花の咲く頃に  作者: 島田遼太
3/7

一章 part3

落ちかけの夕陽が恨めしそうに、僕を照らしている。

 今日は特に酷い。今まで、あれだけ簡単に考えずして生み出された言葉は日を増すごとに姿をくらましていく。代わりに喉元から這い上がってくるのは吐くのもやっとで吸うのはもっと窮屈な焦燥と言葉にできなくなった言葉のひりついた重みだけだった。

 可笑しい。

 僕は人を殺めたはずだ。彼女の脈拍も肉の感触も忘れることなく腕の神経に残っている。

 でも、当の本人はぴんぴんしていて、ついさっきまでは声も聞いていた。

 もしかして僕の罪はもともと夢物語の中の物で実際には何も起きていないんじゃ無いかとも思った。けれど帰りがけ、半分願うように靴とカッパとを埋めた場所へ向かって土を掘り起こしてみると、確かに帰り血に塗れた僕の罪はしっかりと現実に描かれていた。

 可笑しい。ひょっとしたら、僕は違う人間を殺したもかもしれない。そう思ってもみたが今まで彼女は冬服を着て、更に今日夏服を買っていた。それはきっと、誰かに夏服を駄目にされたからじゃなかろうか。見当違いならばかげた話だが偶然にしてはあまりにも出来すぎている。

 日に日に重たくなっていく、玄関の戸を開ける。

「それで、今日は。」

 日に日に、父様の声が低く重たくなっていく。笑顔を作るのも今までは簡単なことだったのに最近は、何故か難しくなってきてどうしてもぎこちなくなってしまう。

「今日も、学校でほとんど誰とも話さず生活しました。」

 頬を叩かれる。日に日に父様が僕を律する拳はその激しさを増している。

「錦。お前の、何がダメだと思う。」

「…。」

 解らない。上手く笑えないのも、日を増すごとに殺したはずの違和感が膨らんでいくのも何もかも。

「わかりません。」

 又、強く頬を叩かれ勢い余って椅子から転げる。

「俺を失望させないでくれ、錦。簡単な話だろう。お前がニコニコ笑うことすら出来ないからだ。それさえ出来れば、多少は粗が出てもなんとかなる物だ。」

 父様は笑っている。

「さぁ、笑ってみろ錦。」

「…はい。」

 なんとか笑顔を作る。

昔、父様が笑顔の作り方を教えてくれた。目が笑っていないとすぐに取り繕っている物とばれてしまうからまずは目から少し細めるのだと。そうして、次は頬を上げて口元に移る。口元は、あまり伸ばしすぎるとばれてしまうからと頬に引っ張られるのに少しだけ力を上乗せするくらいにしておく。記憶が正しければこれで、完成の筈だ。

「…。」

 深いため息をついて父様は、椅子から落ちたままの僕の所に来てしゃがみ込むと僕の頬を思い切り掴んだ。

「教えたろう!こう笑うんだ!こんな簡単なことすら!どうしてお前は出来なくなっている!」 

 頬がちぎれそうなくらいあちこちに引っ張られ、掴まれているはずなのにまるで切り傷みたいにズキリと痛む。

 痛みも、笑顔から透かされた父様の怒りも原因ではない。ただ、何かが変わってしまったという漠然としたものに対して出た涙が頬をつたって父様の手にのっかる。感情が形になってしまうのは、何よりもいけないことだ。だって、気持ちは見えないからいくらでもごまかしはきくけど、それが明確な形になったら父様にばれてしまう。それに言い訳もできないから。

「なんだこれは。」

 父様は、笑っている。目は笑ったままで、口をまんべんなく広げて。

「なんだこれはぁああ!」

 頬が自由になったと思った直後手のひらでは無く、握った手の甲で思い切り右頬を殴り飛ばされる。慣性でそのまま後ろの壁に叩き付けられて、視界が揺れる。

「もう、そこまでにしておきませんか…。」

 グラグラと頭が揺れる中、母様が父様を制止しようと駆けよると、父様は僕にさっきしたように母様の頬を叩いた。

「お前が甘やかすからだ。」

 それでも表情を崩さず倒れ伏した母様に一瞥すると、僕の方に向かってくる。

「なぁ、頼むよ。父さんを、これ以上がっかりさせないでくれ。」

 しゃがみ込んで、髪を掴み僕の瞳をのぞき込む。

「俺の錦なら出来るだろ?」

 その瞳の奥に写った人間の姿は、怯えている。目の前の人間にではない。縋り付いていた物が無くなってしまったことに怯えている。それで、もう目に映る何もかもが正しいのかどうか解らなくなっている。

 その姿が、余りに愚鈍で惨めなものだから、可笑しくて思わず笑ってしまった。

「はは、は。」

 父さまは興味を亡くし、上に上がっていってしまった。母様は、まだ頬を抑えている。

 その中で僕だけが、まるで壊れた人形みたいに笑っていた。誰の期待にもこたえられないゴミはだれにも見向けられることなくそのうちにごみ箱に捨てられる。そのことにすら危機感を覚えられずにいる僕には大層お似合いなことに思えた。



 ジリリとさんざめくアラームの音でパッと、目が覚める。

八月蝉い。毎夜、来たる朝の私に期待してセットするそれは朝の私からしてみればうざったくて仕方ないもので、おばあちゃんのする余計なおせっかいと何ら変わることはない。人ってこんな物だ。今の自分が出来ていないくせに、未来の自分は出来るとか思っている。それって、あまりに傲慢だ。

慣れた手つきで、見ることもせずに触覚だけでその音を止めるともう一度目をつむる。

眠い。もういっそこのまま寝てしまおうか、そうしたらどれだけ幸せだろう。そう考えたところで私の体の様々な地域から続々と政治家たちが集まって、頭の中で国会が開かれる。

議題は勿論、「このまま惰眠を貪るか」について。かれこれ1年ほどに突入するこの題目は飽くことなく今日も私の中の有識者たちに言い交わされている。

「今日は、寝違えたから私たち首はしばしの休息を求める。そうあるべきだ。」

 そうだそうだと、腰や肩やらがそれに続いていく。これで終わればどれだけ楽だろうかと、議席の私も目を瞑ってうんうんと頷く。けれど、それで終わらないのが議論という物で、その考えがいいと思えるのは悪いものがあるからだという事を忘れてはいけない。

「いいや、私たち胃は早く食物を供給したい。最近、体重がどうだのと私が夜ご飯を細くしているせいでもう我慢ならないのだ。よって、朝食の供給のため一刻も早い起床をここに申し立てる。」

 胃の反対意見に脳と腸が、立ち上がって同調した。

両意見互角。決着はつかないままどんどんと議論は白熱していき、やがて両者の間では取っ組みあいの喧嘩が始まった。

「静粛に、静粛に!」

 理性という名前の議長が立ちあがり皆を席に着かす。ここまでは何百回とみてきたいつも通りの光景だ。

「今日は、何曜日かね。」

 ここからは日によって変わる。何もなければ少しは寝るし、何かあるなら飛び起きる。今日は、確か、何もなかったような気がするが、

特等席に座って事態を傍観している私に、議長は質問する。

「金曜よ。」

「ならば、今日は学校がある。もたもたしている暇は無いのではないかね。」

 至極まっとうな言葉に、私も周りもすっかり興が冷めてしまった。

「まぁ、そうね。」

 けれど、学校なんてほとんど毎日ある。其れだけで飛び起きることが出来るのなら、毎日苦労していない。

「それに、今日は放課後に”大切な約束”があるのでは無いかね。」

「あ。」

 すっかり忘れていた。口をあんぐりと広げたままの私に、各地からお越しくださった人々は大きくため息をついたりやれやれといった感じで続々と、元いた場所に帰っていく。こうやってかれこれ数百回目の茶番が幕を閉じる。

「起きなきゃぁあ」

 空になった会場に、私の声だけが響き渡る。

「毎朝だ、一体この議論に意味はあるのかね。」

 最後に席を立った議長が、私の肩を小突いてくる。

「ないわ。」

 でもその方が楽しいじゃないの、と私も扉を開いて明日の朝までしばしのお別れを言った。議長が呆れながらも何処か笑っていたのは、彼も私の一人だからだろう。

「強がりを、そうしなければ君なぞ直ぐにいなくなってしまう癖に」

 そうかもしれない。


 開けた扉から徐々に光が差し込んで、やがて、目が覚めた。


 …。トントンと、タマネギを千切りし終えてから鍋に入れる。にんじんは頑固者で煮え切らない奴なので、タマネギより先に入れている。だから、ふたを開けるときにほんのちょっぴりお湯ににんじんの色がついている。とりあえず沸騰するまではふたを閉じてこのままにしておこう。

 さて、と。

額に滲んだ汗を拭き取って、かかっているフライパンをもう片っぽのコンロに下ろす。サッと底にホイルを敷いてから火をつけて、冷蔵庫に置いておいた鮭の切り身をサッと乗せる。本当は少し常温で置いてから焼き始めるのが良いんだけど、起きる時間が遅くなってしまったのでどうこうこだわっている暇はない。残念。

コンロのスイッチを入れる。最初は中火にしておいて、それで赤身がピンクになり初めた後にサッと強火にすると外がカリっと仕上がって美味しくなるんだ。とりあえずこっちもふたをしておこう。

ピョーと、もう片っぽの蓋が泡を吹き始める。

直ぐさま弱火にして、あらかじめさいの目に切っておいた豆腐をはねないよう慎重に刀身から落としていく。入れ終わってから具を少しかき混ぜてわかめを入れ、再度沸騰するまで待つ。

隣に移る。ピンクがつき始めた鮭を型崩れしないよう慎重に返してから強火にして水気を飛ばす。このときに料理酒を少し入れてあげると風味が出て良い感じになる。料理っていうのはインスピレーションが大事だと、おばあちゃんも言っていた。

こっちは後待つだけ。一息ついたところでもう一度隣に戻る。

タイミングがちょうどだったらしく蓋は又かんかんと鳴って沸騰し初めている。黒の取っ手を握って鍋の蓋を開けてから、冷蔵庫の味噌を取り出してお玉で掬った。大体、お玉の半分くらい味噌を取り出して、菜箸でサッサッと溶かす。味噌は赤味噌がとびぬけて美味しい。合わせも白も、薄味でこれといった決め手に欠ける。

私の気持ちを反映したように食欲をそそる焦げ茶がみるみるうちに鍋全体に広がっていく。

 お玉の味噌が、完全に溶けきったのを確認してから少しだけ掬って味見をする。

「よし。」

 今日も美味い、じゃなかった美味しい。水と味噌とが良い塩梅で濃すぎず薄すぎないまさに最高のバランスだ。流石は私。

 再度蓋をし、火を止める。

鮭も美味しそうに焼けているのでこっちの火も消す。一応念のため、二つのうちの一つを菜箸で開くと何処も遜色ない綺麗なピンク色が顔を出した。

よし、おかずは完成。残りの眠気を全て吹き飛ばすように大きくのびをしているとピーー、と炊飯器の音が鳴る。タイミングジャスト、完璧だ。もしかしたら、私は時間の神様に愛されているのかもしれない。そう思うぐらい気持ちが良い。

階段をとたとたと登り二階に上がる。

「ご飯できたよ!」

 こうやって、いつも私の声でおばあちゃんの朝も始まる。のそのそと、階段を下る音を聞きながらジャーからお椀にご飯をつけて箸を準備して、

「いただきます。」

 おばあちゃんが腰掛けたところで、朝食の音頭をとった。

 ご飯もおかずも美味い、じゃなくて美味しい。朝ご飯だというのに、食べ過ぎないか心配になるくらいだ。できたてで、どの料理も湯気を発していてそんなところも食欲をそそられる。

食べ過ぎないように気をつけながら朝日が優しく差し込む部屋で、小鳥たちのさえずりを聞きながらおばあちゃんと他愛ない話をする。時折、おばあちゃんの話に笑ったり、関心したりして座布団が膨らんだりしぼんだりする。それで夢中になっているうちにすっかり目が覚めていって、

 私の一日はいつも、こうやって始まる。



 体が軽い。新品の真っ白のブレザーは、太陽が生み出した熱気を嘘のように体外に流し、まるで昨日までが別の地域の暮らしだったんじゃ無いかという錯覚にまで陥らせてくれる。天気は昨日と変わらない快晴なのに、服一つでここまで気分を変えられるとは。もしかすると私はものすごく単純な人間なのかもしれない。いや、ここまで気分が高揚しているのは夏服のおかげだけじゃない。

 放課後、久しぶりにあの子に会うんだ。意識しないようにはしていてもその事実は私の中で子供みたいに走り回って自然と地に足がつかなくなってしまう。会うのは、今年の春からだから三か月ぶりだろうか。ちょくちょくLINEでやり取りはしていたけれど、やっぱり直接会うのとはまた別の話だ。私は高校に入っても何も変わっていないけれど彼女は、どうだろう。人間として変わっただろうか、確か都会のほうの高校に行ったとか言っていたからすっかりあか抜けていたら少し寂しい気もするがきっと根っこは変わっていないだろうから、その変化も真摯に受け止められると思う。

楽しみがあるって素晴らしい。

 おかげさまで今日は私を見るクラスメイトの目もさほど気にならないし、それに強くあろうなんて信条もすっと滑やかに私の中に溶け込んで爽やかな気持ちがずっと続いていた。

 廊下であいつに会うまでは。

「ゲッ。」

 いきなりゲッなんていうのは、自分でも酷いことだと思うけど出会ってしまった最初の言葉はどれだけ頑張っても飾る事なんて出来ない。だから、これは紛れもなく私の気持ちを代弁してくれたものだからどうしようもなかった。

「お、はよう。」

 一条は、笑うことも怒ることもせずただ無表情に私を見て挨拶をした。ほっぺたには昨日は無かったガーゼが当てられていて表情とのミスマッチがなんとも歪だ。

 確かに私は思った。気持ちの悪い見え透いた笑みでこいつが私と話すより、こっちの方が数倍ましだって。でも、マシなだけであって良いとは思わない、だからこいつを見たときに苦手だと悪寒がするのは仕方のない事だ。それでも、二番目よりはよっぽどましだが。

「おはよう。」

 軽やかで空も飛べそうなさっきまでの思いは、一気に地の底まで墜ちていく。それでも、こいつからこびりついた笑顔がとれたのも事実なので、無視するのもどうかと思って適当に返した。

 大体前までのこいつなら、この後誰かしらが喜ぶような世間話を二、三してからひらひらと手でもはためかせているものだったが、今日あいつはそれだけでとぼとぼと教室に向かっていった。

 私も今までなら、そいつの、一条の背中を蔑視して冷ややかな目で見ることが出来たろう。でもあいつはほんの少しだけ変わったし、私の言いつけも守っている。だから、そんな今までをこれまで通り続けるっていうのもどうかと思ってその背に何も思うことはしなかった。

「一条。」

 少し離れたところで振り返って、名前を呼ぶ。

「○○○○。」

 これは昨日、あいつも好きだと言っていた歌の歌詞の一部。これに続く言葉は、××××で、もし昨日嘘をついていないならそれくらい言えて当然の筈だ。鎌を掛けるわけじゃないけど、あいつのこの態度すら演技では無いという保証はどこにもない。

「×、×××。」

 また正解か何度も確かめた後のように不安げな口調でそれだけ告げて一条は、廊下の隅に消えていった。

「変なの。」

 あいつがこの歌を好きなのは本当だと良く分かったが、それにしてはあまりにも取り乱しすぎだ。取り繕った言葉を使わないとまともにもしゃべれないのか。この年まで普通に生きていれば、普通に喋るってそれくらい出来るだろうに。

 と、いうか今のは少し恥ずかしい事だったかもしれない。

 そんなこんなを含めた色々に思わず、何十度目かのため息が漏れる。

 あいつのほっぺたは、面積の半分ほどがガーゼで覆われていた。理由は聞かなかったが、大方俯きすぎでこけたとかなんかだろう。

生まれた時から今まで自分でああやって生きていたのなら、今更になって右も左も分からずにああなってしまうのも不思議じゃない。でも、もし、もしもそ例外の理由があるのだとしたらそれは、最早私の想像できるようなものではないからそれ以上を考えるのはやめておいた。

多分私は、あれより酷くはなかった。彼女も、きっとそう言ってくれるだろう。


「あははは!それであんた、その子にゾッコンなんだ。」

 適当なカフェの隅っこで目の前の親友?気の置けない友人?唯一無二の友?の梨名は口を大にして笑っている。

「ちーがーうって!そもそも、今の話の何処からそんな感想が出てくるのよ!」

 誤解されたまま話が進んでも仕方ないので、きちんと訂正しようと声を荒げた。

「声、大きいって。」

「ああ、」

 シーっと梨名に、耳打ちされる。ハッとして周りを見渡せば、他のお客さん達がジロリとこっちを睨んでいる。

「すみませーん。」

 どうしようとあくせくしている私をよそに、梨名は周りの客に軽く謝ってから話を再開した。

「それで、その、錦君だっけか。今、ぼっちなんだ。」

「そ。今まで人によく見られようなんて、良い子ぶりっこなんてしてたから、当たり前よ。」

 つっけんどんにふん、と鼻を鳴らすと梨名は必死に笑いをこらえている。その表情にムカッとして何よ、と頬を膨らませればとうとう彼女は吹き出してしまった。

「い、いや、あんたのその言葉。一年前のあんたに聞かせてあげたいよ。」

「そ、それは、その、違うでしょ。」

 頬が赤くなる。伴って語尾に近づけば近づくほどまごついてしまうのは、私を見つめる二つの目に全部見透かされているような気がしたからだ。

「違わないよ~、ひ、い、ろちゃーん!良い子ぶりっこしてるのがばれて、あっという間に周りから人がいなくなったのは何処の誰でしたっけー?」

「うっ」

 痛いところを突かれた。

「いや、でも、あれは、私から皆にばらしたようなものだし、それに」

梨名はさっきまで周りに気を遣うよう促していたくせに、今は周りの目を気にすること無く大笑いしている。

「一人じゃ無かったし。」

「私が居てあげたからね!」

「そ、れは、そうだけど。」

 目を逸らす。今この子のした話の全ては紛れもない事実で、私が一人では無かったのも、私に声を掛けてくれたのも全部目の目の少女だ。だから、こう言われてしまうとどうにも分が悪い。

 少しの静寂を切り裂いて

「ほんとっ、一色は面白いなぁ。退屈しないよ。」

「私は疲れるわ。」

 やれやれと呆れてみせる、けれど実際に思っていることは全く違っていて私にもししっぽがついていたらふりふりとその尾っぽを勝手気ままに左右へと振り回しているところだ。

「おしとやかをきっぱり辞めたところで、今度は同族嫌悪か。うーん、何て人間らしい。そんなところも可愛い!」

「馬鹿にしないでよ。それに、」

 ピッと、人差し指を突き立てられその続きを制止される。一瞬呆然として、直ぐさまその真意を聞こうとすると

「言い訳は、私に勝ってから!」

 指の差す方向を少しだけ斜めにずらし視線は遙か後方を見据えている。

「なにやって。」

 るのよ、までは言わない。つられて後ろに目を向けると、言わないという行為に起因したボーリングの看板が立っている。

 成る程、流石は梨名。今この時間も、全力で楽しもうとしているわけだ。心配していたけど、彼女の本性は何にも変わってない。自分のことをヘドニズムというくらいの彼女をおとなしくさせるには、どうやら一筋縄ではいかないらしい。

 あまりにも彼女らしい行為に、どこかで安堵する。

「望む所よ。」

 骨を鳴らす、ジェスチャーをする。鳴らせたらかっこいいんだけど、鳴らないものは仕方ないから形だけ。すると彼女も同じように両手を合わせた。

「負ける未来が想像できないわ。」

「こっちのセリフよ。」

 ふふん、と来たるべき勝利に鼻を鳴らし早々に会計を済ませ、カフェを後にした。


「そうそう、それであんたが木から落ちてさ。ゴキィって、いやぁあの音は死んだかと思ったね。その癖心配して、駆け寄ったら眠たい、だなんて可笑しいにもほどがあるって。」

「えー、覚えてない。」

 昔話に花を咲かせながら、ふと彼女の最近についての興味が湧いた。

「最近、梨名はどうなの。」

「何がー?」

 日が暮れるまで、まだまだ時間がある。無色の光に照らされながら数歩先で、境界ブロックにのって綱渡りしている背に声を送る。

「がっこう!」

「あー!」

 うーんと、悩んだそぶりを見せてくるんと振り返る。

「あんたがいないとつまんなーい!」

「…。そ。」

 しししと、目を細めながら笑いかけてくる声の主にぷいとそっぽを向く。この子は、梨名は、私には勿体ないくらいの友達だ。一緒にいて、特別だと感じる。俗に言う親友って奴かもしれない。でも、絶対にこの子にそれを言わないのは、

「ねぇ、照れた照れた?ひーろーちゃん?」

 こんな風に私の顔色をすぐ、からかってくるからだ。

「照れてない!」

 けしかけを力強く返すと、髪についた水玉模様のアクセサリーをはためかせながら彼女はまたしししと笑った。

そのままそこに立ったままの彼女に合流して、横並びになって歩く。

「ひーろーはどうなのさ。」

 半歩前に頭を出して、顔を覗かれる。

「ひーろーって何?」

「ひいろひいろひーろ、ひーろーだよ。」

「や、だから何よそれ、変じゃん。」

「なんだよノリわるいなー、一色のあだなじゃん。そんなんじゃ友達出来ないぞー。」

「悪かったわね。いなくて、」

 あ、と半歩先の彼女は地雷でも踏み抜いてしまった後のような顔をする。それから少しの間を置いてそっか、と言う声に今度はこっちまでやりきれない気持ちになる。

「もしかして、痛いとこついちゃった。」

「…、正解。私、とっても心が痛いわ。」

 両手を胸に持って行き、傷心者のふりをした。彼女もそれに倣う。

こんな小っ恥ずかしい冗談も仕草も、彼女になら出来た。彼女だけになら。彼女の高校に合わせて遠出しているからこんな私を、高校や中学で知っている人に見られることもない。だから、より一層窮屈せず自然に彼女との時間を楽しむことができた。

 私には、高校で友達と呼べるような人間はいない。今横で半端に笑っている梨名以外、友達と呼べる人間も居ない。でも、私はこれで十分満足だった。

 彼女一人だけが友達ならなんだか今が、耐え抜いた後のご褒美みたいに感じられる。それに、きっと他の誰でもいけない彼女だからだと思うことが出来るのも彼女が唯一無二の友人だからこそだ。

 他愛ない雑談で、移動時間はあっと言う間に過ぎていった。


「そう、それで言ってやったのよ。文句があるなら私に直接言え、ってさ。」

「そりゃケッサクだね!いくら男でも、あんたにゃ叶わないわけだ」

「そう、私、強いもの。」

 私もそこに居たかったー!と伸びをしたところで、二人はボーリング用の靴に履き替える。サイズが合うことを確認してから歩いてみると、私の一歩に呼応して靴はキュッキュッと鳴った。音の違和感に加え、いつも履いているローファーと比べ幾分か重たいのも相まって慣れるまでまだまだ時間がかかりそうだった。

 彼女の方に目を遣れば、キュッと音が出るのが楽しいらしく足を地面にくっつけたままでこの間テレビで見たペンギンみたいな歩き方をしている。子供でもそんな楽しそうに歩かないでしょと呆れてみせるけど、あまりにも梨名がたのしそうにしているからもしかしてその楽しみを私が知らないだけなんじゃ無いかとも思えてきた。

 だから彼女に倣ってやってみたけど、やっぱり楽しくなかったしちょっと恥ずかしかったからすぐやめた。

「二本先取りでいい?」

 準備運動をしながら、不敵に笑う。

「了解。」

「私が勝ったら、まだ全然話したりない愚痴を聞いてもらうつもりだけど梨名が勝ったら?」

 勝負事は、ハンデがあったら楽しくない。だから勝ったときの報酬も対等で無いと面白みに欠けると踏んだ私は梨名に提案した。

「んー。」

 いかにも悩んでいるといった風に、顎に手を置いて唸っている。あまりに続く言葉が出てこないものだからここまできっちりすることも無いと頭の片隅に反対されてしまったけれど、多数派がそうしたいと思ってしまったのだからどうしようも無い。

 彼女の返答をしばし待っていると、考える人は閃いた。

「決めた決めた!」

「待ちくたびれたよ、それで。」

「ひーろが勝ったら私がひーろの愚痴を聞いて、私が勝ったら。」

「勝ったら?」

 一瞬目の先を天井に向けたと思うやいなや、次の瞬間には力強い眼差しでこちらを見つめてくる。

「一色が、一年前どうして急にそんな風に変わったのか、それを教えてもらうことにする。」

「え。」

 例え梨名であってもそれは、それだけはダメだ。

「よっしゃぁ!いきまーす!」

 制止しようかしまいか、議決をとっている間にもう彼女は投げ始めてしまった。一言、梨名のたった一言に頭の中がごちゃごちゃになった私は、もういつもみたいにまともな考えは出来なかった。

 勝てば良い、勝ちさえすれば何も問題はない。それだけを念頭に置いた私は、いろいろをすっかり忘れてしまっている。深呼吸する。

 彼女に続いて第一投目を投げた瞬間に、その忘れていたいろいろの一つが脳裏に呼び起こされる。動揺を顕著に表した球は、当初の目的から大きく逸れてそのままガーターになる。

 ダーツもビリヤードも、ポーカーもオセロも何もかもただの一度だってこの子に勝てたためしがなかったことを私は思い出した。


「やったー!私の勝ち。」

 両手を大きく掲げて飛び跳ねているのは、私じゃない。喜びを体で表現している少女の奥で、画面に映し出されたスコアボードをまじまじと見つめた。

結果は惨敗、勿論私はいつもの遊びのようにストレートで負けた。運動神経は悪くない、寧ろ良い方で、だから善戦はした方だけど対戦相手が悪かった。

目の前の華奢な少女が二回ともフルスコアをとるのはどうかしてる。しかもそれを、よそ見したって変な投げ方をしたって彼女は平然とやってのけていた。プロボウラーも目じゃない彼女は、満足げな表情を隠すこともせずに私を見ると大きくピースをした。

 いつもなら私も、簡単に彼女の一挙一動につきあうことが出来る。でも、敗北の意味するところを意識するといつものようにはならず自然と表情は曇ってしまう。

「帰ろっか。」

 私の顔を、見たのだろうか。彼女はその顔をさっきまでとは反対方向にして、出口に向かっていった。表情は見えなかった。


 電車に乗るため、駅のホームにある座席に腰掛ける。彼女も隣に座った。

 帰り道、ここまでの会話はゼロ。一人、楽しげに綱渡りしている背にも鞄をくるくると回している背にも声を掛けることは無かった。

 隣を、見るともなしに見るとふわぁ、と眠そうな顔にあくびを重ねながらレールの上を眺めている。夕日に晒される程になった今の今まであんな調子だから、そりゃあくびの一つ位もするだろうと呆れる。

 彼女は、梨名は、とっても疲れる生き方をしていると思う。何にも、本気で楽しむのが私の信条だと初めて会話をしたときに彼女は言っていた。実際その言葉の通りに行動する彼女を、最初は鬱陶しく思っていたのは今でも簡単に思い起こすことが出来る。

『鬱陶しい。』

 心ない言葉で、突き放したこともある。誰も寄りつかない私に、面白半分で話しかけてきているんだと決めつけて、何度もかんども酷い言葉を掛けたこともある。

それでもしつこく話しかけてくる彼女に遂に折れてしまったことは、今になればかけがえのない決断だった。

 ずっと、聞いてみたかった事がある。一体全体どうして、私が変わったあの日から彼女はしつこく話しかけてきたのかということを。私は、今の人間になる前はきっと誰からも愛されるような人間だったはずだ。誰か彼かの誘いは必ず断ることをしなかったし、誰かの一挙一動にも反応を示していた。だから、私に話しかけるなら絶対その時の方が都合良かったはずででも、覚えている限りで彼女は輪の中には居なかった。

 誰も彼もが居なくなった後に彼女だけが私に興味を示してくれた理由はどれだけ考えても、見つからなかった。

「さ、私が勝ったことだし教えてもらいますかねぇ。ひーろが変わったきっかけってやつを。」

 背伸びを終えた彼女は、軽快にまくし立てた。その声で頭の中の過去に立っていた意識が、一瞬のうちに今のここに引き戻される。そうだった。私は、この子の質問を聞かなければいけなかったんだった。現実に戻った私は、さっきまでの不安を無理矢理もみ消して豁然とした態度になる。

「その前に、一つ聞いてもいい。」

 彼女は一瞬、色々を顔に出した後すぐに引っ込めて私に笑顔を向けた。

「いいよ。ひーろはわがままだからなぁ。」

「ありがと。」

 昔を思い出して、私は本当にわがままだなぁ、と言われたとおりに思う。友達になるときは勿論友達になったあとも、一見彼女が私を振り回しているように見えて私が彼女を振り回してばかりだ。今日のこの日だって、私がどうしても会いたかったから連絡を取った。最近立て続けに色々がありすぎて、自然と辛くなっていた私が一番初めに思い浮かんだのは、梨名だったから。

 私の我侭に嫌な顔せずいつもこうやって応じてくれることに、心の底から感謝している。

だから、私は思うんだ。この恩の何処かしらは、還元できているんだろうかって。頑固以外の取り柄の無い私は彼女がどうしてそんな私についてきてくれたのか、その理由とそうまでした根気が知りたい。それさえ知ることができたなら私は梨名に、誰にも話せなかった本当を、話すことが出来る。笑えるほど馬鹿げていて、でも本当の話を。

あの日に、何があったのかを。

「どうして、梨名はさ。こんな私に根気強く話しかけてそれで、私の特別になってくれたの。」

 きっと正常なら、赤面してしまうくらいのセリフを、正常では無い私は恥ずかしげも無く言葉にした。ははっと、最初は笑い飛ばした彼女はしかし私の顔を見て、段々と私と同じような表情になっていく。

「今更何でまた、」

「いいから、教えて。」

 知りたいという思いが爆発すると、もう止まれなかった。少しだけ語尾に力のこもった言葉は、彼女のピースにははまらない。

 こんな町外れの駅には、電車の音は勿論、虫の音すら聞こえてこなかった。あるのはそよ風と、少しじめっとした夏のにおいだけ。だから世界には今、きっと彼女と私しかいない。それくらいの静寂が、互いの全身を包み込んでいる。

 ただ聞こえてくるのは、彼女の艶めかしい息づかいと私の不整の息づかい二つ。

 片方が、息を止める。言葉を生み出す前の予備動作で、もう片方も息を止めた。

「んー、何で私が嫌がるあんたを差し置いてまでずっとしつこくしてたかってこと?」

 息を張り詰めたまま、こくんと頷く。すると一層神妙な面持ちになって、彼女はホームから見えるレールに目を移した。

「私の生き様、覚えてる?」

「覚えてる。」

「そう、楽しければ何でも良いってやつ。」

 はぁ、と少し寒くなってきた夜空に息を漏らして彼女は続けた。

「一色さ、良い子だったじゃん。ほんと、絵に描いたようなさ。そんな子が突然、自分を押し通すような我の強い王女様に変わったのよ。面白いじゃん。」

「それが、理由?」

「それが一つ。」

 彼女が待ったを掛ける。

「それで、単純な興味が湧いたの。恐らく私の生き様的に絶対関わることの無いもんだと高をくくってた子が、いきなりそんな風になったもんだから。」

 物事には必ず理由が伴う、そこに人が居るならね。彼女が昔に云った言葉を思い出した。

「だから、私は一色がどうしてそうなったのか知りたくなったの。いきなり人格が180°変わったんだもん、私の人生至上とびきりの好奇心が湧いたわ。絶対に聞き出してやるって。そのためには、あんたに拒絶される詰まらない時間だって我慢できるくらいの好奇心よ。」

 美食の最大のスパイスは空腹だとはよく言ったものね。彼女が、やれやれといった感じで首を振った。

「じゃあ、梨名が私に近づいたのは」

「そ。私はその理由が知りたくてたまらなかったの。今の一色みたいにすっかり知的好奇心の虜になってた。」

「じゃあもしかして今した質問が、私に近づいた全て?」

「そーね。」

 唇を鼻の先につけて彼女は天を仰ぐ。雲一つ無い空から差し込む斜陽は、二人の影をありありと映し出している。

「だから、これさえ聞ければあんたとの関係も終わり。さ、教えてよ。一色が私に教えてくれたように本当に嘘をつけないなら、遅かれ早かれ勝負が決まった時点で聞けるのは確定してるから」

 人は、他人には簡単に値札を貼って生きられるのに自分に価値を見いだすのはどうにも苦手なものらしい。これは、本当に簡単な話だった。まるで毎日人の行動の一つ一つにラベルを貼るくらい単純で、わかりきった話。

 私は、嘘をつけない。それに他人にも、平気で0点を突きつけるような人間だ。そんな人間に誰かが値札をつけるとしたら、それはきっと限りなく0に近い。なんだ簡単な話じゃあないか。自分をようやく客観視できたところで、一つの絶望が身を包み始める。

 きっと私は、彼女からしてみても0点に近いような無価値な人間だったのだろう。それで、かねてからの願いに応えることで私と彼女とはここでお終い。

 ついこの間誰かの涙にヤジを飛ばしたばかりなのに、私自身も段々とそっち側に回っている。

 こんな時にきっと皆なら、簡単に死んでしまいたいって思える。私がそれを思うことは本当に死んでしまうことを意味するけど、この絶望の下限と言ったら触って解るような、あるいはぶつかって音が出るような底は見えない。

 考えてはいけない、考えたくない。でも、心を許してしまった唯一の友人の言葉は思っていたよりも強く、私の体に突き刺さって、どこまでも堕ちて行く気持ちが思ってしまった。

 死んでしまいたい、と。

 

「なんて、」

 あの時鞄にしまったままのナイフの位置を、不自由になった片手がまさぐっていると彼女がぽつりと小言を漏らす。

「なんて、昔の私なら思ってたんだろうな。」

 天を見上げたままで、彼女は優しく笑っていた。

「そりゃ、最初はつまらなくて仕方なかったよ。暴言は吐かれるし、カルトみたいなこと言われるし、無駄に片意地張ってるし、なんだこいつは!って。私の好奇心を満たしたら、絶対吐き捨ててやるってそう思ってたわ。」

 彼女の言葉は混じりけの無い本当を吐露していた。けれど、自然とさっきのような絶望を感じないのはどうしてだろうか。

「でも、でもね。そのうち、どうでも良くなっちゃった。」

「どう、して。」

 こちらを向いていない少女に悟られないよう、精一杯声を絞って聞く。

「なんでって、そりゃ。」

 少しうむ、と考えた後でこちらに振り返った。その顔は、屈託の一つも無い清涼な笑顔だった。

「秘密。」

 私には、秘密に隠された答えは分からなかった。

解らなかったけれど、それが解らないなりになんだかとても暖かい物の様な気がして気づけば頬から、温かな涙がこぼれていた。そうして生み出された暖かな何かは、あと言う間に手を止めて、もとの私の手に戻っていた。

「ちょ、ちょっとなんで泣いてるのよ。」

 さっきまで余裕ぶっていたくせに、目の前の女の子は滅茶苦茶に動揺している。

「だ、って、貴方が、意地悪言うから。」

「それは、悪かったって。でも、そんな、泣くこたないでしょ。」

「泣くわよ、だってもし、ほんとだったら」

「ほんとなわけないでしょ!そんなに信用ない!?」

「で、も、」

「あー、はいはい。」

 投げやりにそっとぎゅっと、抱きしめられる。着崩された彼女の制服からは、彼女の心臓の音が聞こえてきて、その優しい鼓動で私は自然に泣き止むことができた。

「あんたのためなら、私は退屈な時間も味わってやれるって話!あんたがそうなったきっかけも、今となっちゃいらない!」

「え」

 ブレザー越しに間抜けな声が漏れる。けれど、声は掻き消えることなく彼女の耳に届いたらしい。真上では恥ずかしそうに頬を掻いて、夕日の橙に照らされている梨名が居る。

 目前で私と目を合わさないようそっぽを向いている彼女は、あの時自分で自分のことを“ヘドニズム”なんて揶揄していた。恥ずかしげも無く堂々と自分を言い放つ様に、私は彼女の中に私を見いだした。自分を殺すことのない彼女となら、上手くなどやっていけずとも離れることは無いだろうと。

 そんな彼女は今言った。自分の信条を押し曲げてでも、私と一緒に居てくれるって。

それは、信念を揺るがすことが出来ない私には到底理解できる物では無い。だからその言葉を聞いて、曲げないと誓った自分を投げ出した彼女にてっきり幻滅するかと思ったけれど、違った。

良く分からなかった。悲しくは無いのだけれど、心の底から嬉しさが湧いてくるわけでも、やるせない脱力感が体を蝕むわけでも無い。

ただ、言葉に出来ないからと言う理由だけで胸がこそばゆい訳ではないことは私が一番知っている。だからこの胸のなんとも言えない違和感を言葉に出来ないのは、私がそうしたくないんだ、と勝手に決めつけておくことにした。

きっと彼女も知らないだろうと、鷹揚に構えることにしてこの気持ちはひとまず終わりにしておいた。

「なら、私と、居る時間が皆、楽しくないって事じゃん。」

 唇に、梨名の服が触れるとこそばゆくなった。

「一色、いっちょ前に真っ直ぐな信念掲げといて本性は捻くれてるって、それ相当やばいよ。」

 肩をがしっと掴まれる。そのまま胸にすがっている弱い私は彼女の服から引きはがされた。

 視界に真っ先に映るのは、彼女。にひっ、と声がつきそうな顔で梨名は歯を見せてくる。

彼女に促されるように私もぎこちなく笑って見せた。作り笑いとは違う。それでも意図して笑ったそれは、私がそうしたかったからだ。

陽はすっかり落ちきって、代わりに昇ってきた月が梨名を照らしている。照らされているのは、きっと私もおんなじで彼女の瞳の奥には青白く光る私が映っている。

今なら、解る気がする。きっと彼女と出会ったのは奇跡でも何でも無く、きっと必然だったのだと、心なしか私から出た糸が彼女の胸のあたりにくっついてるように見えて、そう思えた。

それにしてもこの糸はやけにリアルで、まるで現実に存在しているみたいだ。二人の間の線は月明かりを綺麗にその中に閉じ込めてている。さっきまで泣いていたせいで鼻水が止まらない、不思議そうに糸を見ながら出てきた鼻をすすると、その糸は少し私の中に入っていった。

「ん。」

 もしかして、と最悪の事態を想像する。この運命の赤い糸みたいな線は、いやきっと違うと大悟する。でも、そう思えば思うほど線を引いていたそれは重力の作用で段々と地面に引き寄せられていった。

「サイアク。」

 彼女は、ポケットからティッシュを取り出し自分の胸についている鼻水を拭っている。

「あ、ごめん。」

 どこかで気づいていたが、やっぱりあれは私の鼻水だった。

謝罪しながら鼻をすすっていると、彼女にティッシュを突き出される。

「あんたガキか!」

「ごめん…。」

 あまりの失態に俯きがちになっていると、あはは、と大声で笑われる。

「やっぱり、一色といると退屈しないわ。私。」

 さっきから笑いすぎで、涙まで出ている彼女は自然と上がった口角をそのままに涙を手で拭った。

 一瞬、物悲しそうな表情が見えた気がしたけれど、すぐに元の顔に戻って私の方に直った。

 今度は、子供がいたずらするときの企んだ顔をしている。

「ま、だからって罰ゲームが無くなった訳じゃ無いけどね。」

「え。」

「ほら、あの話はいつかあんたが話したいときで良いからさ。だから、今代わりになるものをってやつよ。」

「そんな、」

 すっかり元気になった私は、おどけてみせる。

「乙女の涙で、なんとかならない?」

「乙女のお願いだから、なんともならない。」

「ちぇっ。」

「あっ、今舌打ちしたでしょ。はしたない!乙女にあるまじき行為ね。」

「あらあら、梨名さんこそその着崩した制服、はしたなくありませんこと。」

 我慢比べが始まる。お互いにらめっこしたまま双眸を相手に向ける。お互いがあまりに、変な顔をしていたから二人顔を見合わせて、とうとう噴き出した。

「はい、私の勝ち。約束通り私の言うこと聞いてもらう。」

「いや、私の方がちょっと遅かったでしょ。だから、チャラだって。」

 こんな永遠が、永遠に続けば良いのに。下らない会話に下らない冗談で積み重なった時間が、私は私らしくとか、そんなこと考えなくても良くさせてくれる。

 ずっと、ずっとこうしていたい。

でも、私は思う。

 きっとこれがずっと続いてしまったら、これが当たり前になる。それでいつかふと現実に引き戻されたときに、底のない失意で私は私で居られなくなる。

 だから、これでいい。会えない時間には、会える時間を思って私は精一杯私で居ようと思える。

 一時間に一本の電車が月に負けないくらいのヘッドライトをつけて近づいてくる。

 気づかないふりをしてもよかったが、ちょっと無理があった。彼女もほんの少しだけ、寂しそうにしているのをみるとやっぱり気づかないふりをした方が良かったかもしれない。

「またね、梨名。」

 まだ別れていないのに、心の中は寂しい気持ちでいっぱいだ。電車に一歩踏み出した途端、さっきまでの二人の世界はあっという間になくなってしまった。

「そんなもう二度と会えないみたいな顔しないでよ。私まで悲しくなっちゃうじゃん。」

 彼女は、少し寂しそうな顔を押し殺して笑う。

「そうだ、決めた。あんたの罰ゲーム。」

 ドアは段々と閉まっていく。その閉音に負けないくらいの声で彼女は叫んだ。

「○○○○。」

 それを聞いた瞬間、私の中の血の気が引いたのが解る。それで私の意識は、完全に日常に戻った。

「今度会ったとき、又いろいろと聞くからね。」

 にやつく彼女をおいて放心状態のまま、彼女の見送りに応えた。それならば、彼女にあのことを言った方がましだったのに、と心底後悔した。後出しの決断は、私を殺すことはなく私をそのままあるべき所に送られていった。



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