一章 part2
目が覚める。
濡れたアスファルトに全身を預けたまま覚醒すると、味わったことのない激痛が背中で暴れ回っている。どうやら私は、真に遺憾ながら後ろから誰かに刺されてしまったらしい。
覚悟を決めて思い切り、背中の異物を引っ張り上げるとおびただしい量の鮮血が背面全体に飛び散って、ブレザーを真っ赤に塗り替えていく。
痛い、それも死ぬほど。けれど成仏してカーが空へと羽ばたいていかずにまだハーと一緒にあるのは、この体が呪われているからだ。まだジンジンと悲鳴を上げている背中をさするともう、傷は一つも感じられない。身体に異常が無くなったことを確かめてから、異物の正体を片手に握りしめたままむくりと起き上がる。一度目は流れ始めの血流のせいで足が全くおぼつかなくて思いっきりこけてしまった。死んだ後、初めはいっつもこうなるんだった。死んだのはこれで二回目だから、覚えている方がよっぽど可笑しいのだけど。
そのうち感覚が戻り、じんわりと血液が循環しているのを感じられると今度はなんとかこけることなく起き上がることが出来た。
時計を見る。時刻は六時を少し超えた頃、つまり私は大体20分ほどここで地べたに這いつくばっていたことになる。最悪なのは、死んだはずの人間が誰かに見られている中でむくりと起き上がることだけど、幸か不幸か犯人は私の帰宅経路をしっかりと調べていたらしい。私の帰宅路の中で人通りなんて皆無なこの裏路地なら、死体があっても最悪日が変わるまで気づかれることはなかっただろう。
もう、何もかもに厭世的になった。
この町じゃ、人の死んだ死なれたはあんまり珍しくはない。といっても別に裏路地を見ればいつも誰か何かの死体が転がっている、という世紀末ほどではなく朝の教室で耳をすませば、大抵物騒な話と他愛のない話が聞こえてくるとか、そんなくらいだ。
いつもはそんな他人事に興味すら湧かない癖して、いざその話の引き合いに出される身になってみると、得も言われぬ不快感が胸の内ではまだ溜まっているのが解る。その違和感にもしかしたら、まだ完全に体が”元”に戻っちゃいなくて血の固まったのがまだ何処かに残っているんじゃないか、下手をしたら一生違和感はこのままで消えることはないんじゃないだろうかと”一人”不安になったところで、ふと、私の中にぽっかり空いた穴を思い出した。
こんな何かに胸を押しつぶされそうなときに、決まって鼻で笑い飛ばしてくれるくらいの存在。楽観的な声で、バカねぇ、なんて笑って私の頬を小突いてくれるような人間がもしいたのなら、私は、どれだけ…。図らずも親友のことを思い出し、血色の涙を流す。キリストも生き返った後はまず初めに親友のことを思い出したのだろうか。
寂寥の感にふぅ、と嘆声を漏らしたところで前方にはスーパーのビニール袋と、雨に晒されてグジョグジョになった野菜たちが転がっている。シチューの箱はいくら濡れても大丈夫だけど野菜はどうだろう、20数分も水たまりに浸っていたらちょっと怪しい所だ。
はぁ、とため息をつくと下目になった視界には赤に染まったブレザーが入ってくる。いくら雨の日とはいっても白を赤黒い色に染め上げるくらいに血はすっかり酸化して、その色からは錆びた鉄の匂いまでする。おまけに背中をさすれば、ブレザーに深々と刻まれたナイフの線が二本、穴になっている。
その光景を前に一人で何時までつったっていても、生まれてくるのは顰蹙だけで前向きなのは一個も生まれない。
「サイアク。」
本当に思う。これより最悪な日なんて数えるほども無いんじゃないかって。ひとまず力が思い切りこもった片手から、ぼろぼろのナイフを取り出してピッと血の気を払ってから鞄の中に入れた。
おばあちゃんに何て言い訳しようか。とりあえず、目先の言いわけを考えながらボロボロになった傘を引きずって路地を出た。生憎視界の悪くなる雨の日のおかげで、人の間を縫って気づかれること無くとりあえずは家に帰ることが出来た。
ただいま、とは言わない。ボロボロの傘をドア横に立てかけてドアノブに手をかける。こんな風に決まって何か内緒にしたいことがある時はいつも、裏口の横に隠してある鍵からドアを空けてから入る。
気づかれないようそっと家の中に入るとまず血まみれの衣服を脱ぐ。自分から生み出された血の、べたべたの肌触りがなんとも気持ち悪かったので脱いだ後に空気が直接肌に触れている感覚は、すごく気持ちが良かった。
裸になり、洗面台に立って背を向ける。すると、自分でも透き通っていることを自負するほどの真っ白の柔肌と仄かに散りばめられた赤の液体が見える。映し出された光景のどこにも、深く突き刺されたような傷は無かった。ほっ、と空気が口から漏れる。
さて、と懸念が一つ無くなったところでもう一つの材料に目を遣る。このブレザーを一体全体どうやって処理しよう。洗濯は、しても無駄だと思う。これだけ血だらけなら、洗濯のりを使ったところで全部消し去るって言うのも無理な話だし。それに、出来たとしても白から若干変色したブレザーを皆にああだこうだと変な目でからかわれるのはめんどくさい。
運が悪いことに、夏服はこの一着を除けば換えが無いからこんなに暑い中このままだと冬服で学校に行かないといけなくなる。
完全に手詰まりの状況に、冷ましていた怒りが今更になって沸々と滲んでくる。それは自分でも思ってもみないほどに現実離れした行為をやっと飲み込むことのできたのとほとんど同じ瞬間だった。
被害者は私なのに、なんでこんなに色々と殺された後の処理を私が考えないといけないんだ。殺されるほどの心当たりは無いから、誰がどんな理由で私を殺したのかは分からないけど、そんなの関係ない。正体が明らかになったならそのときは、私の苦労の分だけ絶対に殺してやる。
大体、正しいと思って私を殺したというなら、こういった理由で殺しましたと胸を張って世間に訴えてみろというんだ。
だって自分のしたことが、世間では許せない事と、悪いことだと知っているから逃げたんだろうに。そのへなちょこの殺意に、余計腹が立ってくる。
とりあえずはその気持ちをなんとか押し込めて、頭の中で採択することなく殺人者への処遇は保留にしておくことにした。
それにしたって酷い話だ。こんないたいけな女の子を殺すだなんて、しかも無差別じゃ無くてしっかりと意図して、もし私じゃなかったらどうするつもりだったんだ。いや、私だとしてもダメな物はダメだ。死んではいないけれど、私は一度死んでいるのだし、しっかり償わせなくてはいけない。
それでも、全く心当たりが無いというのも事実で、冷静になった今だからこそ私は困惑していた。
誰が私を殺したのかということに。
クラスメイトは皆、私のことが苦手か嫌いかだけど、気にくわないというだけで殺すというのも動機としては小さすぎる。大体、寄ってたかって人をいじめる事すらできない連中だ、そんなことは考えづらい。としても、相手の名前を気軽に呼べるくらいの中の人間なんてこの学校には居ない。嫌いな奴は居るが、殺したいほどじゃないし殺されるほどじゃない。
謂れのない犯意はどれだけ考えても答えは出なさそうだった。
「ま、考えても仕方ないか。」
ふと、裏路地から頭にちらついている彼女の、短絡的なのが憑依したような言葉が出る。自分の口からついた他人のように感じられるそれを頭の中で反芻させていると、まぁそうかもしれないなんて納得して、まるで頭の中に一人、彼女が出来たみたいだった。
確かに、犯人が身近に居よう物なら、私が何食わぬ顔で生きていたら鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔になるだろう、だからそのときまで平然と生きていさえすればいい。死にさえしなければ、そのうち、自然と分かるだろう。
とりあえずこの手洗いしても何もましにならない鉄くさい服は、何処かに捨てるまでビニールで包んで部屋の押し入れに隠しておくことにしてシャワーを浴びた。
シャワーから出るとこんなに遅くなったことにおばあちゃんはまた、男の子がどうだこうだと言っていたが適当に流しておいた。
ぐちゃぐちゃになった野菜のせいで作ろうと思っていたシチューはその日も、結局作ることはできなかった。
今日は、蝉まで音を上げるほどの蒸し暑い夏にぴったりの冬服で学校に繰り出した。臙脂色をした厚めの素材に肌にまで密着してくる通気性を備えたこの制服は、着ていて不快極まりない。学校の前までは、なんとかほかの服でごまかしていたけど校門を入る頃にはこの服を着ないといけなかったからそのときから今の今までが、蒸し風呂に入っているようで死ぬほど辛いのは言うに及ばない。
それで冬服の私が教室に入った途端、空気が一瞬固まって、そのあとにクラスメイトのひそひそ声が聞こえてくる。
何か言いたいことがあるなら直接云えばいいのに。いつもより多少苛立っている私が軽く睨め付けると、ざわざわとした声はまたすぐに聞こえなくなった。
静かになったところでこのままいつものように伏せって眠るのも良いけど、今日だけはそういうわけにもいかない。自分の机に向かう前にまず、私の少し前方にある机に突っ伏している奴の所に向かう。
「お、はよう。」
声の受取手はびくんと、肩を勢いよく上げた。
今日は、珍しく一人だから声をかけたって言うのにその鳩が豆鉄砲を食らったような顔は一体何だ。私から声をかけることがそんなにおかしいか!
そいつは、動揺を必死に隠すようにすぐいつもの顔に戻ると、どうしたの、と聞いてきた。やっぱり、私が誰かに声をかけるって言うのはかなり珍妙なことらしい。いつもよりも、天高く浮いているこの状況に話しかけなければ良かったと思う私も居るが、話さなければいけないこともある。
「昨日貸してもらった傘なんだけど、壊しちゃって。ご、だから、そのうち返す。」
出かけたごめんをんっとひっこめる。言ってしまえば楽なのに、言わなかったのは私の中で過半数が否定派だったからだ。
「、それじゃ。」
昨日の放課後のことに触れもせず、まだびっくりしているあいつにかまうことも無く自分の席に向かう。席に掛けるとがやがやひそひそとうるさい周りの目を無視するために、耳にイヤホンをかけてからうつぶせになった。適当に再生したプレイリストの、適当な歌。いつもは何てこと無いこの曲も、今は何物にも代えがたい最高の一曲のように思えた。
たった一言、ごめんとあのとき言うべきだったろうか。傘を壊したことだけでは無くって、昨日の問答の色々も含めて謝るべきだったろうか。
いくら自分に問いただしてはみても、出されるのは行為への赤信号ばかりで、それなら仕方ないと眠りにつくことにした。
私は、意に沿わないことは行うことが出来ない。でも、どこかがやきもきしている気持ちはくすぶったまま、この話はもう終わりと結論づけたところで私の何処かは満足しては居なかった。
こんがらがった頭になかなか寝付けない中で昨日の殺人はもしかして、とも思ったけどすぐにフッとその考えは霧散した。理由は、良くは分からない。でもこいつには、きっと無理だろうと大悟していた。
分かったのは、耳に弦を張ってかき鳴らしてくるこの曲が実は思っていたよりもずっと素晴らしい物だったことに気づいたことぐらいだった。
結局、何もせず放課後になると少し寄り道をしてからいつものスーパーで買い物をした。不思議とあれだけ作りたかったシチューは、作りたいとは思えなくなって、代わりに適当な総菜を買った。
どうしてかと聞かれても、ただなんとなく乗気にならなかっただけで、作る気が湧かないことと今日一日中、放課後になっても一人がちになっているあいつが視界に入っていたのはきっと何にも関係無いものだと思う。
「おはよう、…。」
結局今日も併せて十日ほど声を掛けても、肝心な次に言うはずの言葉が言葉になることは無かった。挨拶するたびに、傘を壊したことを謝ろうと思っている私の数が増えていっているのは確かなんだけどまだ、その数が反対派を上回ることはなさそうだった。だから、心ない応答に合わせいつものように席に戻るといつものように音楽を聴くことにした。
あいつは、私が声を掛けるときは決まって笑顔で応対する。本心に、全くそぐわないような何かを感じさせながらも、にへらと人の良さそうな顔で笑っている。あの昇降口での時は、泣くくらい悲しそうにしていたくせに。
私は、自分のことを押し殺してまで徹底的に偽物の表情を作り出すようなことをする奴は嫌いだ。だから私は、あいつに話しかけるたび言いようのない不快感を得る。
でも、最近はそれだけじゃ無かった。
あいつの笑顔は、あいつ自身も気づかないうちにもうきっと癖になっていることを感じる。
私に魔可不思議な質問をしたときも、朝毎日声を掛けてきたときも、笑いたくないはずなのにあいつはいつも本当のように笑っていた。本当は、憎悪や私とおんなじような不快感を顔に出したい筈なのに。
それを溜め込んだまま、力の無い笑顔で、元気の無い声で、それでもいつも通りを演じようとしている歪なあいつの姿に、さすがに皆感づき始めている。それを心配する声にも何食わぬふりで大丈夫などと返していれば、今まで当然のようにあいつの周りに出来ていた人だかりが、綺麗さっぱり無くなっているのは当たり前のことだった。
人は面倒を嫌うくせに、たった一つでも理解できないことがあればすぐ、居心地の悪さを感じる。独善的に手をさしのべた癖に、見合った報酬を得られないと不快に思う。
それは、「親しい」間柄であれば多かれ少なかれは我慢できるはずのことだ。それに、本当にその人のことを思っているのなら手を突っぱねられても、根気強く何度も手をさしのべるはずだ。
それを踏まえて目に映るあいつの孤独な姿にいつかの自分を重ねると、私は思いたくも無いことを思ってしまった。こんな姿を見て、あの時あの子は私をどう思ったんだろうか。
「それでさ、一条。お前最近女王様によくちょっかい掛けられてるだろ。だからさ、今度はお前からあいつに仕返ししてやったらどうよ。」
放課後、駐輪場に向かうといつもの場所でいつものように男子たちが群がっている。少し耳を澄ますと、不穏な会話が聞こえてきた。
「いいね、それは面白い。」
「なあ、頼むよ。一条だって毎日声かけられるのも嫌だろ。あの吊り目にキッと睨まれただけで、俺なら毎日が億劫になっちまうよ。」
声の主に反して、当の本人は何も言わない。いつもなら、うんそうするよ、なんて皆を喜ばせる言葉を使って笑顔で言われたとおりにするくせに、今日あいつは、向けられた笑顔に笑顔を返すでも無く、ずっと俯いて沈黙を貫いていた。
そのうち欲望をさらけ出したような笑顔でされた大衆の提案は、不満の声に変わっていく。
「何とか言えよ一条。お前だって俺らと一緒に楽しんでたじゃん。だからさぁ、いつもみたいに又やってくれよ。いっつもそうだったろ。」
そんな詰問にも、何の反応を見せることも無く俯いたままのあいつに、とうとう愛想を尽かした男子の一人が服の胸ぐらをつかんだ。
「今更一人だけ良い子ぶるなよ!大体、俺たちは提案しただけで実際にやってたのは全部お前なんだからな。」
そういって、握り拳を掲げる。間違いなく彼は、すぐにでもその頬を真っ赤に染められるはず、だった。
「やめなよ、あほくさい。」
会話、というにはあまりにも一方通行の魔女裁判でも始めようかという雰囲気の中で声を上げたのは、私だった。
「っ、高松。」
まるで、他の意思を持ったみたいな思いも寄らない自分の行動に、男子たちの動揺と同じくらい動揺している私は、それを悟られないように毅然と振る舞った。
「文句があるなら直接言いなよ、ほら、ん?」
そうして、彼らの大好物の吊り上がった目でキッと軽く睨め付けると男子たちはもう何も言えず、ジリジリと後退してバツが悪そうに駐輪場から一歩また一歩と離れていった。
彼らが見えなくなったところでふぅ、と嘆声を吐く。少しだけ見せかけの冷徹さが静まってきたところで当の被害者に目を向けると、そいつは俯いたまま、状況が変わっても何も変えることなく、その場に俯いていた。
「ありがとう、とかないわけ?」
こんなに後味の悪い人助けは初めてのことで、一段落したというのに煮え切らない気持ちを思いがけず黙りこくったままのあいつにぶつけてしまう。
すると、グイッと無理やりに顔を上げて
「ありがとう。」
精一杯の偽善で、あいつは笑うと私に感謝の言葉だけを伝えてきた。
本物の怒気が頬を染めていくのが解る。
これっぽっちも気持ちが裏付けられることのない偽物の言葉に、あいつへの今までの煮え切らなかった気持ちはとうとう完全に煮だつことになった。
怒りを口にすることは無い。けれど代わりに一つの『決断』を持って、私はこいつに言葉を放った。
「傘、壊したの今から買いにいくからついてきて。」
こくりと頷いた。横に曲げられるだけの関節は、とうの昔に退化してしまって7分の一も存在し無いんだろう。
だから、私の決めたのはこうだ。
今日を区切りにこいつとは、金輪際話すようなことはしない。
こいつの都合だから、仮面がどういった理由ではがれ掛けているのかも知らないし興味もない。けれど、少しだけこいつはもしかしたら私の思うのとは別の人間なんじゃないかとそう変に思ったのも今、この場で捨てることにする。
うざったいあいつらにも向けることの出来なかった笑顔を私にはすぐに見せられることに、ぷっつりと堪忍袋の緒が切れた。目前の人間に謝ることも、一抹の申し訳なさを感じるのももうやめる、こいつに何かを思うこと自体はきっと全てが無駄だから。
「行こ。」
ぴったりと仮面のはっついた顔を見ることはやめて、捨て台詞みたいに二文字をはき出してから私は、自転車に乗った。
あいつも自転車通学の筈だから、ものの10分ほどで店につくだろう。そうしたら、もううこいつとはお別れだ。そのためならあと10分くらい、我慢してやる。
太陽の光っていうのは平等で私もあいつも、日に照らされて出来た影法師の大きさは特別変わらない。そうして私にまでまっすぐ伸びてくるあいつの影を、見るともなしに見ているとその影はいっこうに動く気配も無く留まっている。
「何してるの?早くあんたも自転車乗んなよ。」
いつまでたっても自転車に乗っからない事を急かすと、そいつには耳がついていないようで私の言葉に微塵も興味を移さず俯いたまま突っ立っている。我慢比べなら負ける気は無い。こうなったらあいつから喋るまで永遠にでも待っていてやる。そう決意したところで、やっと動き出した。
けれどのそりのそりと向かってくるのは、校門にいる私の方で本来向かうべき駐輪場には目もくれていない。
「あんた、自転車は?」
また、根比べを始めようかというぐらいの時間がたってからポツリと。
「父様に、今預かってもらってるから、ない。」
は?意味不明な奴の奇怪な言葉たちを前にして思わず面食らった私は、それ以上が出てこなかった。まあ要するにこいつは今、自転車を持ってない。これが意味するのはつまり、こいつと居る時間が長引くということだ。
はぁああ、と地面につくくらいの長いため息をつく。
まあよくよく考えてみればたかだか10分がほんの2、30分に変わるくらいのことで、傘を買って恩を返したらこれきりだ。
「そ。」
プラス思考に感化されて腹づもりをすっかりと決めた私は、自転車から降りると一緒に歩くのはさすがにごめんなので、そいつの少し前を歩き出した。そうしたら、とぼとぼと私の後ろをつかず離れずついてきた。
校門が見えないくらいになって、冬服を脱ぎ去る。着たままでは暑すぎて、この炎天下の中歩いていたら干からびて死んでしまうだろう。それくらいの危機感を感じさせるくらいには、この服は夏というものに不似合いだった。下にあらかじめ来ていた、汗でびしょびしょに濡れたカッターを少しはだけさせ、はたはたと空気を取り込む。取り込んだ空気さえ、むわっと湿気を孕んでいて心地よさはどこにも触れ当たらない。
ある程度冷めるまで繰り返していると、しまった、とあわてて後方に振り向く。すっかり一人の帰り道だと思って色々と油断していた。言葉には言い表せない何か良からぬことが、起きているのではないかと見やれば、そいつは何も見えないようにと私から顔を逸らしずっと俯いている。
なんだ、自分すら大事に出来ないくせに大したことのないことには気を遣えるのか。そんな心底どうでも良いことですら、苛立ちを募らせムカムカさせる。そこであることに気づく。多分、いやきっと今こいつが何をしても、私は腹を立てるんだろう。ならばとこの単細胞の反応を、最後の話草にもっと見てみたくなった。
「ねぇ、あんたさ、今まで上手くやれてたじゃない。自分を殺して、誰に対してもイエスマンに成り下がってまで皆に気に入られようとしてさ。そうまでして積み上げたものを、どうしてこんな簡単に手放したのよ。」
半ば投げやりになって告げた言葉に、言葉が返ってくることは勿論無い。そのままぽつぽつとこちらに向かってくるあいつに対してやっぱり苛立ちを覚える私に、私は安心する。
後一回でもこいつの反応を見れば、もうお腹いっぱいになってしまうくらいだ。
ポケットに入れたイヤホンを取り出して、耳の所まで持って行くと最後のダメ押しを計る。
「前の方があんたらしいと思うから、今すぐにでも元に戻ってニコニコ笑ってたら?その方が、気持ちの悪いあんたには”お似合い”よ。」
言葉に乗せられた最大級の皮肉に、募り募った鬱憤が完全に晴らされると私は、あいつに向いていた体を機敏に前ならえさせて耳にはめた。選曲は、勿論最近の朝礼の時間に眠りにつくためにといつも聞く奴だ。
大人になったら、子供たちは勿論大人にならないといけない。それでいざ大人になった時に、自分を自分たらしめてくれるような譲れない物もなくなってしまうっていうのは、何て馬鹿らしいんだとか。自分を他人に本当の自分よりもっと良く見られたくて、別の人間に装うことがなんてあほらしいんだとかを歌詞にして軽快に歌っているこいつを一度聞いてしまえば、どこに居たって気分はあっという間に天高く雲を駆ける鳥のようになる。雲から垣間見える家々を見下ろす心地に、次第に私は今自分の置かれている状況にも、実際にも目をつむって体でリズムをとるくらいに聞き及んでいると、衝撃が青天の霹靂のように私を襲った。
自転車が畦道からでてきた小石につまずいている。
普段なら何てことは無い衝撃も目をつむっていれば、大きく体勢を崩すほどの衝撃に変わって、そのまま私はがくんと現実に引き戻された。盲っていうのは、恐いもんだ。耳からイヤホンが引きはがされたことに驚いて目を開けば、前輪に絡め取られて雁字搦めになったコードの亡骸が裂け目からジジ、と蝉に負けない断末魔を炎天下に響かしている。
「サイアク。」
最近、特に口癖になり始めた四文字を呟く。なんで一時の休息までも邪魔されなきゃいけないんだ。そうポケットから携帯を取り出してイヤホンジャックを抜き取ると、さっきまで聞いていた曲が携帯越しに流れ始めた。そのまま流していても良かったけど、予想以上に後ろが私の後ろに近付いていたので、なんだか不快に思って音を消すことにする。
液晶画面に触れてから停止部分を押そうとする、けれどその曲が止む事は無かった。
「それ。」
後ろが何か言っている。気にせず二本線をタップすると肌の接触が悪くて曲が止まらない。こいつ、と今度は強くタップしようとして人差し指を立てると後ろがまだ何か言っている。
「それ、僕も、知ってる。」
この期に及んでまだ、こいつは人に忖度するようなクソ野郎だったらしい。だから、もう二人で買いに行くのも辞めにして私一人で傘を買って明日渡そう、今この残り数分ほどでもこいつと居るのがこの上なく不快に思えた私は言葉を生み出すために息を吸い込んで思いっきり振り向く。
「っ。」
けれど吸い込むために上がった肩は、何も生み出すこと無く下がっていく。
「…ぼ、くも、××。」
いつもはつらつらと言葉を並べられるくせに、そいつは取るに足らないたったの五文字をまるで推敲と添削とを何遍も繰り返したあとにやっと生み出したもののように大切そうに言葉にした。そして、言葉にした後もそいつは自分の作り出した言葉への自信なんてこれっぽっちもなさそうにすぐに俯いた。
その言葉は、きっとまごうことのない本物だった。
だからそういうときこそ笑って言うのが道理だろうにと、無表情で、いやどちらかといえば泣きそうにあとは押し黙っているあいつにはまだ少しだけ苛立ったが、でも生まれた残りの大半は自分でも意外に思えるほどの他の感情だった。
「そ。」
自転車に絡まったイヤホンを解いてから、また私は歩き出す。アスファルトの先に陽炎が見えるくらいのクソ暑い中少しだけ速度を緩めて、蝉にギリギリ負けないくらい携帯の音量を上げて。そうすると、多分店に着くまでの時間が長くなってしまうけど仕方ない。こいつと居る時間が長引いてしまうけどしようが無い。
だって私が、そうしたかったのだから。
「どの傘が良いの、選んで。」
店のすぐ脇に並んだドラム缶の中の黒に透明、グレーにピンクに水色と大量の傘の中から一つ選ぶことを促すと、やっぱり反応はなくあいつは俯いて置物みたいになったまま動かない。
「あんたが選ぶまで帰らないから。」
私もムキになってそれだけ伝えると、少し離れた店のカウンターに向かった。別にあいつから一刻も早く離れたいというわけじゃない。言ってしまえば、まぁそれもあるけど。でも、もしこの行為に理由をつけるならそんな具合がまだあいつにはお似合いだ。聞かれたら全部の理由がそうだと言ってやろう。
「すみません、電話した赤松です。」
カウンターには、折悪しく店員さんが居なかったので奥の方に向かって少し声を大にして尋ねた。すると案外すぐに店の人の足音と、はーいと快活そうな声が近づいてくる。
「あー、電話いただいた一色ちゃんね。いらっしゃい、ちょっと待ってて。」
「こんにちは。」
店のおばさんは、よいしょと後ろの積み荷から色々をどかしてその中の一つを台の上におく。置いた後、額に滲む汗を拭き取ってから箱を空けた。
「一色ちゃん、夏服の替えが無いって言われたから、大急ぎで仕上げたんだからね。もう!」
おばさんは、ぷんすかと可愛らしく頬を膨らませている。
「急がせてごめんなさい、でもこの炎天下の中で夏服じゃ無いっていうのは本当に辛いから、ありがたいです。」
担いでいる冬服を、ひらひらとおばさんの前で泳がせる。
「生地も結構厚いのに、一体どんな使い方したら破けちゃうのよ。」
「それは、」
殺されたから、その時に破けましたとは言えない。おばさんの言葉で、私はその殺人者のせいでここに居るんだったと思い出す。
人っていう生き物は、単純で、危機感のないものには全く意識が向かないらしい。殺されたっていうのに、それでは死なない私はもうすっかり殺されたことを忘れていていつもの暮らしに溶け込んでいた。
「ま、あんまり聞かないでおくわ。一色ちゃんは可愛いからね、おばちゃんも頑張っちゃったよ。」
「あ、りがとうございます。」
久方ぶりの皮肉の無い褒め言葉に、苛立ちもなりを潜め照れくさくなって頬を掻く。
「さらにさらに、特別料金でまけてあげるわ!」
「そ、そんな急いでもらったのにそこまでしてもらって、申し訳ないですよ。」
おばちゃんは、得意そうに鼻を鳴らして
「いいのいいの一色ちゃん。それに、大人の好意には甘えておく物よ。」
とどめのウィンクまでもらってしまったら断ることはもう出来ない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。」
喜びと感謝から自然と生まれる朗らかな笑顔をおばさんにむけると、彼女も満足してくれたようでちょっぴり心が満たされたような気持ちになる。さらに規格外の値引きを受けた勘定を済まし透き通った気持ちになって正面を向けば、目の合ったおばさんはニヤついた。彼女の、意図して外した目線の方を追いかけると、予測はしてはいたが案の定あいつが居た。
いい話っていうのには、必ず裏がある。だから次に彼女が言うセリフも大体見当がついていた。その瞬間と言ったら鏡があれば、私も私の顔を見たいくらいだった。
「代わりに聞かせてよ。あの子は、一色ちゃんの、これ?」
五本の中から小指だけを立てて、ひらひらとさせている。
「ちっ、がいます。あんなのに私が惹かれるわけ無いです。」
「そーおー?結構可愛らしい顔だから、てっきりそういう関係なのかと思ったわ。ざーんねん。」
心の底から残念そうに肩を落として、おばさんはがっかりしている。
「大体、顔だけですよあいつは。中身は空っぽです。」
おばさんをより私と同じに近づけるため助言をする。今もこうして傘一つも満足に選べない奴には、腐っても魅力なんて感じないでほしい。
「そう、残念ね。彼、磨けば輝きそうだけど。」
おばちゃんがもらっちゃおうかしら、冗談を言ってそう笑うと賛同できかねる私は変な顔をした。
「ないです。そもそもあいつは、」
言いかけたところで、中断される。
「これください。」
真後ろには、あいつが突っ立っていた。さっきまではなかった仮面をくっつけて、笑顔で傘を差しだしている。あいつの選んだのは、透明の奴だ。前私が借りたのは黒の奴なのに、変なのって思った。それに、大人にはそうやっていい顔を忘れないあいつに少しだけ忘れていたあいつの本性を思い出してまた無性に腹も立った。
「おばさん、これ私が払います。」
苛立ちを微塵も抑えること無く勘定を済ませると、どちらの顔を見ることもせずに私は店を出た。それから制服を置いていったことに気づいたのは、自転車にまたがった後だった。
無礼な態度をとったせいで、店に再度入ることをしようかしまいか悩んでいるとあいつが店から出てきてしまった。
「これ。」
さっきと変わらない笑顔で、夏服の包みを差し出してくる。それを不躾に受け取ってから、再度自転車に乗り直すと少しだけ進んだ後で二輪の速度を落として振り返る。
「次、私と話すとき無理にでも笑ったら、ぶっ殺してやるから。」
するとこびりついた笑顔はすぐに消え、行きと同じようにまたこいつは表情が読めないくらいに俯いた。
「あと、その方が、ずっと気持ち悪くないわ。」
云ってすぐに悪い風にとらわれていないかと心配になる。国語の成績は決して低い方では無いのだけど、今発せられた言葉があまりにも遠回りなことには自分でも幻滅してしまうほどだ。もっとうまい言い方もあったろうに、言い切ってしまった私はけれど今までの意地を張ったままで振り返ることもせず今度こそそのまま帰った。
あいつがどうしてあの曲が好きなのか、今度聞いてみても良いかもしれない。もうあいつとは絶対に関わることをしないと言っていたのに帰りがけそう思ったのは、自分でも意外なことだった。