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桑の花の咲く頃に  作者: 島田遼太
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一章 死が二人を分かつまで

目の先に映る世界は凄惨な光景で埋め尽くされている。

手からは生き物が動脈を小突く一定の鼓動が伝わり、そして目には、まだ手沢のついていない一抹のナイフを通して地面に流れていく体温が映る。出水した赤の液体は、絶えず流失し続け地に大きな水たまりを作っている。人間というのは、体内から半分以上の血液が出ると致死する可能性が極端に高くなると言われていることを思い出すに、目の前の血だまりがとうにその致死量と呼ばれるものを超えていることは火を見るより明らかだった。

 さっきまで雨を降らしていた霧がかっていた雲は一時顔をそらし、代わりに覗かせた月がより鮮明に景色をはっきりとさせていく。月明かりに照らされてらてらと輝く赤黒い水たまりは、かさを増しやがて足下にまで及ぶ位になった。この乱れた呼吸は誰のものだろうと口をつぐむとそれは紛れもなく自分から発せられたものだった。他人から発せられる腐った鉄のにおいに脳漿がくらくらと陶酔し一歩退く、するとどろどろでネチャネチャとした粘液が足に絡んで思うようには動けなくなる。手元に残ったままの確かな感触を引き抜けば、そこからは止めどなく血が流れていく。

鈍く光ったナイフを見る。半液体から、反射された己の顔は酷く歪んでいる。

そうしてその肖像画を眺めていると、ばたりと眼前の人間だったものが肉塊に変わって崩れ落ちていった。

今日僕(私)は、人を殺めた。

あらかじめ準備していた高尚な動機も今となればほんの一縷のあまりたいしたことではなかったように、僕は思う。

 あれだけ殺したくてたまらなかったはずなのに、殺したくはなくなってしまった私は、この事実を呪う。

神よ、願わくは変えられない物を受け入れる勇気を僕に。


願わくは、変えられない物を変える勇気を私に。



ふっと、目を覚ました。現実に起きた出来事に対しての焦燥を感じるよう、全身には汗が噴き出している。私、赤松一色ひいろという人間は本来なら今夏の暑さを糾弾する蝉の音やぺちゃくちゃとつまらないことを話しているクラスメイトの声、それから亀のような早さで喋る教師の弁で簡単に起きるほど柔な睡眠はしない。だから起きてしまった原因はほかにあるはずできっと、いや間違いなく今まで見ていた悪夢が元凶であるのは言うまでもないのだろうが、夢というのは意識したときにはすでに忘れているものだ、どれだけ思い出そうとは思っても私の頭の記憶機関は優秀ではないらしくもう一抹も思い出せなくなっていた。

 忘れるくらいの夢だ、どうせたいしたことはないだろう。そうして早々に記憶探しを引き上げると今度はこの正常な思考を雲がける眠気をとろうと体を動かすことにした。深呼吸をして瞼をこすったりする。けれどどれだけ瞼をしばたたかせても眠気はとれてくれない、なので私は何時もするように一度目をつむって頭の中に井戸端会議を提案した。議題はもちろん、昼寝の続行の是非で、ああでもないこうでもないと開幕直後から次々意見が交わされていく。

「現在の時刻は5時、授業の終了まではあと20分程しかない。以上のことから、私は寝るべきではないと判断する。」

 国会の議事堂を模した頭の中で、おぉ、と何人かが立ち上がり感嘆の声を漏らす。

「いや、あと20分でも眠いものは眠いのだ。だから、私はまだ寝ることを提案する。」

 そうだそうだ、と怠惰な私の何人かがその意見に賛同する。

 そうして皆がどちらの意見に賛成するかによってその色を変えていき次第にその色ごとに部屋の端に移動していく。

総勢100人の私で行われた今回の議決は、見事に50:50の五分だった。

見るのもおっくうな結果に、面倒くさくなった私は一つ大きくあくびをした。あれだけ議論を繰りかえしたというのに見事なまでに意見が二分してしまった。こういうときは最後の一人、つまり私の判断に100名の身を任されるのだけれど、正直荷が重い。勝手にやってくれれば私は多数派のやりたいことに従うだけなので、いつもは楽でたまらないけどこういうケースになってしまうと選択の全ては私によって決められるので面倒くさくて辛抱たまらなかった。

まぁ、いいや。このあくびの後に睡魔が襲いかかってきたら眠るとしよう。

大きなあくびを一つ、空にはなったところで口をつぐんだ。

「おい、聞いてるか。」

 頭の中の会議室が揺れる。教師の声に私がびくりと肩をふるわせたせいだ。

「おい錦、聞いてるのか。聞いてるのならこの問題、答えてみろ。」

 ほっと胸をなで下ろす。どうやら私が注意されたわけではないらしい。矛先が他人に向いていることに安心し、睡魔に流されようとしたところでまた会議の続行を促す別の感情が芽生えてきた。

「はい、○○です。おそらく間違いないかと。」

「正解だ。おまえが寝るなんて珍しい、次は聞いているそぶりをきちんと見せろ、いいな。」

「はい、大変申し訳ありません。次回からは気をつけさせていただきます。」

 その、錦という少年はこびりついた偽物の笑顔を先生に向け謝罪する。すると、そのにんまりと、仮面のような笑みを見るなり先生はうむ、と満足そうに授業を再開した。

 席に着席する彼を見ていたら、頭の中の私は次の会議の準備を進め始める。それは、始まってしまってからではもう手遅れで私の意識からは避けられない。なので開始のベルが鳴らないようにと逃げるように彼から目をそらし、急いで顔を腕の中にしまった。

 それから授業が終わるまでの残りの時間、私はまんじりともせず机に描かれた流線型の木目の数を数えた。


  

 -----いいかい、君はこれから自分に正直に生きなければいけない。だからこれからは、ただの一度も自分に嘘をついてはいけないのだ。もし次についてしまった時は…。」


なんだ、また私は眠ってしまっていたのか。そんなはずはないと思いながらも、目の前には私の睡眠の証拠にと少しの水たまりが出来ている。流線型に重なっていた女の子らしさのかけらもない液体は、わたしが顔を起こすと机の上に糸を引いた。

誇り高い大きなあくびを一つ、口から出すと学校での一日の生活の終わりを告げるチャイムがまだ眠りかけの頭を揺らした。どうやら私はかなり惰眠をむさぼっていたらしく、教壇の中央にかかっている時計を見れば短針は真下を向いている。

それが意味するところは夕日のちょうど暮れぐらい。とっさに体を電撃が駆け抜ける。まだ意識があった頃、木目を数えているときに開かれた会議ではこのあとスーパーにいってたまねぎとじゃがいも、それからシチューのパウダーを買うつもりだったのを思い出す。特売が終了するのは6時半なので今から全速力で自転車を漕げば間に合うくらいだろう。

「よし。」

 半ば眠っていた意識を完全に覚まし、私を抜けばもう誰もいなくなった教室を後にして、私は自転車置き場に向かった。


駐輪場に着くと、なにやら男子たちが群がってたむろし他愛ない話に花を咲かせている。それを尻目に巻きながら、一刻も早く特売に間に合うためにと自転車にまたがった。

 何事もなく男子たちの間を通りすがろうとすると、一人、あのいけ好かないクラスメイトがその道を阻んだ。

「待って、ひいろさん。この後皆でカラオケに行くんだけど良かったらひいろさんも一緒に行かない。」

 私はこれを案じていた。男っていうのは一人では何にも出来ないくせに群れるといたいけな少女にこうも強く出られるのだ、嘲るようなこいつらの目は気にくわない、結局どれだけ集まったところで群盲に変わりないくせに。

それに、今背筋をゾぞっとなでられている様な悪寒のする声で私を呼んだのは件の少年、一条錦だ。彼の声音は、まるで彼を体現したかのような無機質な声で、ひとたび耳に入ればさぶぼろが止まらなくなる。とりあえずは、その溜飲をグッと押し込める。

「いくわけないじゃん。大体、私急いでるの、見てわからない?」

「いや、ごめん。でも、みんな来たら喜ぶって言ってくれてるし、どうかな。」

 大きくため息をつく。そろそろいい加減、こいつにはがつんと言ってやらないといけない。思えばこうやって、心ない言葉で誘われるのも数えるのが億劫になるほどだし、それに彼の後ろでにやにやと笑っている男子たちを見るのも同じぐらいだ。自分が私同様、後方の男子たちのおもちゃにされていることにこいつはいつになったら気づくのだろう。

「じゃあ、あんたはどう思ってるの。私がいったら喜ぶの。」

「皆が喜んでくれるし、僕もうれしいよ。」

「そういうことを言ってるんじゃなくて、あんたの話よ。大体自分の意見も持たないで、人を誘うだなんて心底あきれかえるわ。」

 ごめんね、といって申し訳なさそうな空っぽの仮面で謝罪してくる少年を見ていると、無性に腹が立ってくる。本当はここで何も言わずに立ち去るのが賢いのだろうけど、生憎私は賢い人間ではない。なので一度振り返って彼に、今日たまった特大の嫌悪をぶつけてやることにする。

「あんた、その笑顔。最高に”気持ち悪い”よ。」

 私が初めて一番嫌いな人種にそう言い切ってから、あいつの顔を見ることもせずに自転車を漕いで、校門を後にした。


「気持ち、悪い。」

 彼女の言葉を咀嚼するように、過ぎ去る自転車に何度もこの言葉を反芻させる。

「女王様、今日は一段とまぁ怒ってたなぁ。錦、今日もお疲れ。」「面白かったぁ。」

「ありがとう、僕も嬉しいよ。」

 友人の二人が、彼女赤松一色さんの背に向かってそんな言葉を投げつける。それに僕も肯定の意を示す。そうして男一色になったところで僕らはそれぞれの自転車にまたがった。正直なところ、彼らはいったい何が楽しくてこんなことを何度も何度も僕に繰り返させているのかはわからないけれど、楽しそうにしているからもうそれ以上は考えるのをやめて、彼らとおんなじ様に笑っていることにした。

 気持ちが悪い。笑みを浮かべると、どこかでこの言葉がつっかえる。取り除こうとするとどこかに隠れてしまう。誰からも今まで一度も言われたことすらない彼女の言葉に僕は少しだけ、どこかが痛くなった。でも、気にするほどの痛みではないからもう、それ以上は気にしないことにした。


「ただいま帰りました、お父様、お母様。」

 靴を脱いで、居間に入るといつものようにそう、言った。

「おかえり錦、今日はずいぶんとまぁ遅かったじゃないか。」

「おかえりなさい、錦。」

 いつもする様な笑顔でニコリとはい、と返すと母様は笑ったままだったけどお父様はほんの一瞬だけ怪訝そうな顔をした。けれどすぐにまたさっきとおんなじ顔になって僕の帰宅を歓迎してくれた。僕の尊敬してやまない目の前の人はもしかしたら僕の少しの笑顔の違和感に気づいてしまったのかもしれない。

「錦、座りなさい。帰ってきて早々ですまないが今日はもう始めてしまおう。」

 お父様はそう言って、いすから立ち上がると僕のために椅子を引いてくれる。

「分かりました。今日もよろしくお願いします、お父様。」

 父さまが言うのは、何時もの恒例化した行事のことだ。

「よし、良い子だ。」

 にこやかな声で、それでいて本当に楽しそうな笑顔をお父様は作っている。そのあこがれの表情に、早く一歩でも近づけるようにと僕も精一杯ほほえんでから、席に腰掛けた。


「今日はまず、一限から七限まで特に何も、話すようなことはしていないと思います。話すことがあるとしたら、七限の時間にほんの少しだけ居眠りしてしまったことくらいです。」

 ぴしゃり。父様の平手が頬をはたく。

「それは本当に、大したことではないと思うかい。自分の感情を、コントロールできていないことの結果のように思うが。」

 やっぱり、父様はすごい。あれから笑顔を一つも崩していないというのにもう僕には父様の笑顔がどこを向いているのか分からない。こんなこと、まだ僕には出来ない。

「申し訳ありません父様、その通りです。次からは気をつけます。」

「よろしい。別に失敗するのは、悪いことではないからね。大事なのは、そこから何を学ぶかだ。続けて。」

「はい。」

 一度凝り固まった顔をほぐしてから、またにっこり笑顔を作る。

「その後の放課後は、友人たちにカラオケに誘われました。歌はあまり聴かないので本当は行きたくなかったのですが。」

「どうしたんだい。」

「行きました。想像していた通りあまり楽しい物ではありませんでしたが、上手くやれたかと思います。」

 父様は、僕の返事を聞くなり大きく立ち上がった。

「素晴らしいじゃないか、錦。お父さんは嬉しい。」

 なぁ、母さんと促すと母様も朗らかな笑みを浮かべてええ、と肯定してくれている。

「いいか、錦。今はまだ分からないかもしれないがやがて、その経験は必ず役に立つ。父さんを見てごらん。」

 父様は、腕を大きく掲げて家全体に目をやっている。

「この家は、お父さんが築いた。お父さんが今、錦のしていることを実践した結果だ。素晴らしいだろう。これほどまでに大きな家に、庭に、そして美しい伴侶。このどれもを見て、私が間違っているという者がいるだろうか。」

 なぁ錦、と促される。父様が決まって最後にする質問にはもう僕は決まった答えを持っている。

「いえ、父様が間違っているはずがありません。僕も一刻も早く、お父様のような強い人間になれるよう精進します。」

 父様は、満足げに笑った。

「よろしい。流石は、私の息子だ。私は、錦、君を産んだ時に大きな罪を抱いてしまった。この世界に、無垢で純粋な君を産み落としてしまった罪だ。だから錦、私は君を正しく清く立派な人間に育て上げなければならない義務がある。右も左も分からないまま、野垂れ死んでしまうことのないように、父さんの正しさをきっちり君へと教育する義務が、だ。」

「はい、父様。」

 うん。慈しむ様に何度も何度も優しくうなずいて席を立つ。そうしていつもこの時間は終わる。はずなのだけれど、父様はまた席に腰掛けると僕を無機質に眺めた。

「それで、今日錦の笑顔が曇っているのは何が原因なのかな。今の話だけでは理由が見当たらないから、何かを隠しているように思うが。」

 やはり、お父様は僕の最も尊敬する素晴らしい人だ。表情の機微や少しの違和感も見逃すことなくきちんと見つけてくれる。僕がこのことを言わなかったのは別に目の前の人を試したわけではなく、寧ろどちらかというと気づいてほしかったという願望があった。 

「実は、あるクラスメイトの女の子に僕の笑顔が“気持ち悪い”と言われました。生まれてこの方、一度もこんな罵倒は受けたことがなかったので少しよく分からない気持ちになってしまって。」

「ゴミだな、そいつは。」

 喰い気味に僕の言葉を遮って、立ち上がった。

「錦、気にすることはない。おまえは何も間違っていないからな。その女の子は、まだ分かれていないのだろう。人に合わせることの重要性に。放っておきなさい。そのうち、自分が間違っていたことに気づくだろうから。分からなければ、死ぬだけだ。」

 父様の横顔は、笑っていなかった。けれど、すぐに僕の方を向くと微笑んで言った。

「父さんを信じなさい。錦、私たちは正しい。」

「はい、もちろんです父様。」

 父様が間違っていないことは、言うに及ばない。目の前で僕を支えてくれる人が、ここまで言ってくれるのが嬉しくなって気づけば僕も椅子から立ち上がっていた。

それから父様とともに席に座った僕はすっかり大悟徹底して、三人で母様の作ってくれた夜ご飯を食べた。なんだかいつもよりも母様の料理が薄味に感じたのは、きっと気のせいなのだろう。魚も食べてはいない筈なのに、喉に骨の刺さったような違和感があるのも、そう思うことにした。

そうして一日の終わりになって僕は、床に伏せって肩の力を抜くとイヤホンを耳にはめた。趣味と呼ぶ物の大半は、父様に選んでもらっているけれどたった一つ、音楽だけは自由にしても良いと言われたあの日から耳にこうしてシリコンをはめるのが、僕のお気に入りの時間だった。

大抵適当に流しているけど、いつも最初に聞くのは僕の知らないコトを歌詞に綴った滑稽な曲で、何かを小馬鹿にしたような愉快な歌だ。歌詞も分からなくってリズムも陳腐なこんな曲をどうして好きになったのかは全然理解が追いつかないけれどでも、好きな物は好きでそこに理由などはない。こんなこと父様に言ったら、又怒られてしまうだろうからこれは、僕だけの秘密。

僕だけの秘密をあっという間に聞き終えてから、いつもなら満足するのにどうしてか今日はもう一度聞きたくなって無理やり電源を切った。

こんな執着心を抱いたことがばれてしまえば、とうとう僕は父様に見放されてしまう。途方に暮れ、正しさも分からないまま愚劣を極めたような人間へと成り下がってしまう。だから、執着するのは辞めて我慢することにした。


「もう、サイアク。」

 タイムセールにはあと一歩というところで間に合わなかった。それもこれも、あいつ、あの仮面みたいな顔をした野郎の対応を迫られていたせいだ。ほとほとあきれかえってため息をつく。

 ホントについてない、サドルから腰を下ろすと代わりに買った野菜類をかごからおろす。本当は買う物は決まっていて本当なら買い物にここまで手間取らなかったんだけど、それもこれもあいつのせいだ、今度会ったらぶん殴ってやる。

それくらいの気概も、ドアを開く頃にはもうすっかり忘れていた。

インターホンを押せば、少しして玄関が開く。

「ただいま。」

「あぁ、おかえり。」

 いつものようにおばあちゃんが出迎えてくれる。

 その言葉を聞くと、さっきまでの苛立ちやら胃のむかつきがさっぱり消えて自然と笑顔がこぼれる。

「うん、ただいま。」

 確かめるようにもう一度、帰宅の旨を伝えると私たちは家の中に入った。


 トントントン、と包丁でにんじんを切りながら鼻歌をくちずさむ。自然と頭のどこかで選曲された歌を歌ってしまうのは、心地の良い証だ。気分の良いまま隣をちらりと見れば、おばあちゃんは鶏肉を切っている。

「よそみしちゃダメじゃない。」

「へーきへーき、もう慣れたって。」

「ほんとかねぇ。」

 初めはぎこちのなかった包丁さばきも、今や慣れた物でよそ見をしていても簡単に操ることが出来る。こうしておばあちゃんを見ながら野菜を切れる様になったのはつい最近、だからこうして隣り合わせで料理ができるというのも自分の成長に気づける良い時間だ。

「今日は、シチューって言ってなかった?」

「いや、実は間に合わなくって。」

 遅刻の理由を探していたらとっさに浮かんできたあの顔を、頭を振ってうやむやにした。

「あら、学校が終わってから特売が終わるまで結構な余裕があると思うけど。」

 もしかして、とニヤリ笑うおばあちゃんの言おうとしていることがなんとなく分かった。

「男の子かい?」

「違うよ。」

 喰い気味に、そう答える。まあ理由の一端はその通りで間違いはないんだけれど、それでもおばあちゃんの含みの中にあいつを入れるのは、絶対にいやだった。

「おや、そうなのかい。一色はこんなに可愛らしいのに、もったいない。女王様って呼ばれてるのも納得だねぇ。」

「もう、やめてよ。」

 なんだか照れる。クラスメイトに付けられた女王様とか言う巫山戯たあだ名もおばあちゃんにいわれると素直に嬉しくなってしまう。少しだけ手が止まっていたことに気づくと、急いで野菜を切り始める。

「でも、もっとおしとやかになってみたらうんと可愛くなると思うんだけれどねぇ。」

 再会してすぐに、包丁の穂先はにんじんに挟まったまま止まる。私がおしとやかに生きられる。そんな皮肉めいた願いがかなうことは、決してない。

「無理だよ、私には。」

 言い切ると同時に包丁を強く振り下ろす。私、はあのときに約束したのだ。もう二度と、自分に嘘をつかないと。

いきなり私がまな板をならしたので、おばあちゃんは腹を立てているのではないかと気をもんでいた。心配をかけまいと一言、なんでもないよと謝って料理を再開する。

 トントンとまな板に耳心地のいい音を響かせていると、軽く肩をたたかれた。

「一色、血が出てるよ。」

 本当だ。どうやらさっきよそ見をしていたときに、少しだけ包丁で指先を切ってしまっていたらしい。

「気が抜けてたね。たいしたことなくてよかった。今、絆創膏を持ってくるから。」

「いやいいよ、これくらい。なめときゃ治るから。」

 舌先でぺろりと指先をなめとってから、おばあちゃんに見せる。そこにはさきほどまでの怪我など嘘のように、まっさらの肌色しかない。

 ね、と促すと若い子の再生力はすごいねぇ、なんて感心された。そういうわけでもないけれど、怪我が治りさえすればたいした問題ではないのでそのままおばあちゃんとご飯を作ってから、美味しくいただいた。


 学校は、退屈きわまりない。こんな性格だからよってくる友達もいないし、毎日繰り広げられる授業も面白さなんてなくて、唯々暇な時間が過ぎていくだけだ。

 そんな私が、まだいやだなんて思わず学校に来れているのはきっとおばあちゃんの言葉が大きい。高校だけは出ておいても損はないから、とそう言われてからはや数年。祖母に絆されたせいで、其れが決まりごとの一つになってしまった私はここまで無遅刻無欠席を保っている。はたして私がここにいるのかが幸か不幸か分かるのはまだしばらく先のことなので気長に待っているとしよう、生憎一人の時間は多いから考える時間はたくさんある。

 せめて、彼女がいれば大分マシになるのだけれど、無いものを思っても仕方がない。そうして、諦め混じりのため息を滲ませてこの朝の時間を頭の中で議会も開くことなく夢うつつになっていると

「お、はよう。」

 声をかけられる。誰だ、私を起こすのは。朝の挨拶をされるのは、おばあちゃんを抜けばかなり久しぶりのことになる。面を上げてあくびをしながら顔を伺うと、一番思いもよらないやつが目の前に立っていた。

「なん、であんたが私に挨拶するのよ。」

 正面には、嫌悪感の固まりみたいなやつがいつもより小さい仮面をまとわりつかせて突っ立っている。私がその真意を尋ねると、すぐに外れかけの仮面を元に戻してから

「いや、確かめたくて。」

 答えになっていない答えをはき出してから、またそいつはニコッと笑った。

 いったい全体何のことよ、それは。訳の分からない行為に意味不明の動機で目の前にいるこいつに向かって、頭にたくさんハテナを作る。

そんな私など気にもせずそれじゃあこれで、というと彼は先ほどまで属していたであろう輪の中に入っていった。

「なんだ、あいつ。」

 少しだけ動機が気になったけれど、あいつを目で追いかければきっとまた男子たちにいやな目で見られるだろうからと、そのまま突っ伏して寝ることにした。

 それに、胸くそ悪いことには変わりはない。あいつは上手くやれていると思っているのだろうけど、こびりついた笑顔や変につり上がったあの口角、その偽物の全部が私を不快にさせる。きっと、私以外にも一人二人はあいつの偽物に気づいているだろう。多分言わないだけで、きっと分かっている人はいる。

こんなにあいつのことが嫌いなのは昔の自分に対する同族嫌悪、ではないと思う。だってもしそうなら、今私にあいつがしたことが何か、分かるはずだから。


 それから、ただの気まぐれだろうと高をくくっていたその行為は、今日から毎日続くことになる。


「おはよう、一色さん。」

「はいはい、おはよう。あんたも飽きないわね。今日も又、確かめるために?」

 最初は滲み出た嫌悪を眸子に込めて特大の敵意を持って投げかけられていた高松一色さんの言葉も、最近は呆れ混じりの言葉に変わってきている。彼女に話しかけるのは、これで11回目。もう五回目くらいから、ずっとこんな調子だ。

「うん、そうだよ。」

「それで、毎度毎度ご丁寧に申し訳ないけど、さすがにそろそろ確かめられたでしょ?」

「ううん、まだ、分からない。ごめんね。」

「そ。変なの。」

 それじゃあ、と告げるといつものように僕はいつも仲良くしているグループに戻った。

 輪に入った途端に、肩を軽く小突かれる。

「もしかして、俺らが茶化してたら、ホントに好きになっちゃったのか?」

 独りがにやにやしながらそんなことを言う。

「いや、そんなんじゃないよ。本当に。」

 そう、そんなに簡単な話じゃない。この気持ちがもし、一度も経験したことのない恋という甘い密なのなら僕は、今すぐ首をかっきって死ぬ位の気概はある。それくらいに、この気持ちは胸の内をじわじわと食い破って僕を苦しませていた。

「なんだつまんないの。」

「ごめんね。」

 こうやって学友に見せる些細な言葉も笑顔ももう、崩れかけている。

 最初は、ほんの小さな亀裂だった筈だ。父様も僕が正しいと言ってくれたし、実際に僕もそう思っている。だから、ほんのちょっとの、なんともない心配を完全にかき消すために彼女に声をかけたつもりだった。自分は、きっと大丈夫だからと。悪口を言って、嫌悪の表情を浮かべてくるその子にも、父様のように上手にわらって挨拶が出来るだろうと。

 けれど“気持ち悪い”、彼女と言葉を交わすたびにこの言葉が僕の、父様の信条に徐々に徐々にひびを入れていき、消えてくれるはずの不安は段々と膨らんでいった。

 確かめれば確かめるほど僕は、僕のことがだんだんと分からなくなっていった。どうしてこんなに不安なのかも、それにどうして僕が気持ち悪いと言われたのかも。胸の内につっかえていた言葉は、はがれることなく僕を乱暴に引き裂いて尚も胸の内にくっついている。

 限界だった。一体どこで何を間違えたのか、それすらも分からない。もしかしたら間違っていないのかもしれない。けれど正しさを信じる僕にはその違いが分かるはずもなかった。


 クラスメイトも教師も、近所の人も母も父も、誰もかれもが僕に、惜しみない称賛と祝福を送ってくれている。君のように完璧でありたい、将来が楽しみだ、お前は自慢の息子だと謂われ続け、そしてそれに応えるべくして父さまの宛がった理想の自分に向けて惜しみない努力をし続けてきた。だから、僕の世界には僕を褒め讃えてくれる人間しかいなかった、それは願うべくして願った事だ。間違いなどは一つもない筈で欠陥だってどこにも見当たらない。父さまは、きちんと僕をそうなるべく教育してくれている。だのに、『気持ち悪い』と恐らく初めて他人に言われた悪口が僕の世界を脅かし縦横無尽に駆け巡っては僕の価値観を無茶苦茶に壊していく。僕には、認めてくださる父様さえこの世にいれば良くて父様の祝福だけが僕の、そう僕の全てだったというのに。

 今は、もう、全く違ってしまっている。


「最近調子が優れないな、錦。」

「はい、お父様。申し訳ありません。」

「謝ることはない。おおかた以前話していた子との会話を、続けているんだろう。」

「…そうです。」

「ふむ。安心しなさい、父さんも通った道だ。苦手な者にも分け隔てなく接する。それを乗り越えてこそ、おまえはより成長できる。今は辛くとも、次期に慣れるさ。」

 父様にさえ、笑顔を保つのがやっとでそれ以上は出てこない。

「はい。」

「父さんを信じなさい。」

「勿論です。」

 あれだけ、信頼していた言葉も父様の慰めもどうしてか胸には響いてこない。これは正しいことなのに、分かっているのに、胸のわだかまりはとれない。

「父様、」

「なんだい、錦。」

「以前話されていた時、彼女のような人間はそのうち死ぬとおっしゃっていましたよね。」

「ああ、そうだね。」

 ならば。吸いかけの息を、喉に引っ込ませる。

「なら、死んでも問題はありませんよね。」

「あぁ、そうだが…」

 続けざまにはなったその後の言葉は、耳には入ってこない。死んでも問題はない、と父様は言った。ならば、いなくなってしまっても問題はないと言うことだ。

 しかし目の前の父様の言葉が、消え行っていくのに合わせて咄嗟に改める。一体僕はなんと愚かしい考えを抱いていたのだろう。それじゃあ、まるでケダモノじゃあないか。そんなこと、行動に起こせば最後、父さまが築き上げてくださった努力も何もかもが水泡に帰してしまう。

「なんでも、ありません」

「ん、そうか。考えることは大事だからね。一度しっかり考えてみると良い。」

 やはり僕が行き詰まった時にはいつも道を示してくれる父様は偉大な人で、ますますのうちに頭が上がらなくなってしまう。合わせて、さっきまでは恐ろしい考えだと自分でも気づけたその行為というものが、段々と美化されていく。

 許せない。父さまを馬鹿にする彼女は絶対に、許していいものではない。やはり彼女は極悪非道を地でいくような大罪人で、父様の言うよう生きていても何の利益もない悪人だ。正しくあるべき思想も捻くれながらに気色が悪いだなんて言い放って、其れは僕の、掛け替えのない生きるべき意義とも呼べるものだというのに。以前より違和感の増した喉のつっかえが、ここぞとばかりに痛み始めた。そう、きっとそうだ。彼女のせいで出来た溜飲は、彼女がいなくなればきっと下がる。そうしたら、僕はまた父様の願ったような人間に何の違和感もなく戻ることが出来る。なんだ簡単な話じゃないか、何を悩んでいたんだ僕は。

 はは、と全てが分かったのが可笑しくなって笑った。解決の糸口を見つけて自然とこぼれる笑みを見ても、父様は笑わなかった。

 

「おはよう。」

「あぁおはようって、あんた今日は嫌な顔してるわ。」

「そうかな、僕は答えが見つかったけれど。」

「あ、そ。ならもう話しかけてこないでね。」

「うん、今までありがとう。」

「ん。」

 そう、僕は答えを見つけた。だから、さようなら一色さん。

 そう言って鞄にめし抱えたナイフを、今は大事に大事に撫でるだけにした。


 まったく訳が分からない。

 動機も、答えも、何もかも、一条錦のことは結局何も分からずじまいに終わった。今までありがとう、言葉通りあいつから挨拶を交わされるのは今日で終わりだ。つまり私から挨拶すること何て絶対にないから、今日であいつと喋るのも終わり。まあいいや、元々楽しい時間って訳でもなかったし。それに今日私に挨拶するときに見せたあいつの顔はいつもの朝とは違ってあの皆に見せている常日頃の醜悪な表情だった。

「わかんないもんだな。」

 挨拶を交わすうちに心のどこかで、ホントはあいつが私の思うような人間じゃないのかもと思ったけど今日のあの表情を見る限りあいつは私の思うような人間で間違いなさそうだ。私にとりとめのないことをしていたのも、単なる気まぐれだろう。

 あいつの出した答えとやらは気になるが、その見つかった後の顔からして、知ってもあんまり気分の良いもんじゃないだろう。

 それから私は、あいつがいなくなってやっと訪れた静寂にまんじりとした。


 さてと、退屈な一日の授業も全部終わって昇降口に足を運ぶ。あれからなんだかんだで作る機会もなかったので、今日の夜こそはシチューにしようか。頭の中は満場一致で、思ったよりも早く晩ごはんが決まったことに嬉しくなっていると、なにやら不穏な音が聞こえてくる。

「もう、サイアク。」

 不気味な音の正体は、雨だ。それも、大雨。見上げると空は、雲一色に染っている。

「間に合うかな。」

 夜ご飯を作ることに決めてしまったからにはもう、私は行かなければならない。

 自転車は、この雨じゃ使えないだろう。だから、歩くことになるんだろうけど歩いて行ったら家まではおろかその向こうのスーパなんて一時間はかかる。

 腕時計を見ると、短針は5長針はちょうど0を指している。

 いける、かな。五分くらいの確立だけど、やってみる価値はある。雨でずぶ濡れになっちゃうけど、仕方ない。

 駆け抜けようと構えると、その瞬間に後ろから声をかけられる。

「やあ、一色さん。」

 この声は、一瞬で分かる。それに、こんなに間が悪く私の行動を遮られるのは目の前のこいつくらいしかいない。あいつだ。振り向くと案の定、気持ちの悪い笑顔を携えたままのあいつが立っていた。

「何、もう用は済んだんじゃないの?私急いでいるんだけど。」

 一言で突っぱねると、もう一度さっきの姿勢をとる。

「ちょっと、待って。最後に、本当に最後にさ、聞きたいことがあるんだ。」

「だから何よ。ほんとあんたは間が悪い!」

 うんざりして、一条の方を睨め付けると彼はいつもの笑顔に加えて少しだけ、隠しきれていない不安げな顔をこちらに向けている。

 笑顔の下に隠したその顔は、並々ならぬ事情がありそうな、そんな様子だ。私はこいつのこんな表情を今まで見たことがなくてだからついついなんにもいわずに、呆然と立ち止まってしまった。

 そんな私を見て、こいつは話が聞けるものだと思ってニコリと笑う。

「ありがとう。」

「早く済ませなさいよ。」

「うん、君が僕に気持ちが悪いって言ったこと。覚えてるかな。」

「ああ、言ったわね。覚えてるわよ。」

 忘れてはいない。今日私がシチューを作ろうと思ったのは、いつかに作れなくなった理由を作ったこいつのせいだからなんとなく、じんわりと覚えている。あれは確かこいつがいつものように気色の悪い笑顔を携えて、不本意な行動を私にしたから言った言葉だ。

「それで、一つ聞きたいのだけれど僕は、今も気持ち悪く見えるかな。」

 はぁ?思いがけず嘆声がもれる。こいつは私に、何を言いたいんだ。

「あんた、何が言いたいの」

「いいから答えてよ!」

 びくりと一瞬、肩が震える。咄嗟に肩をふるわせたのはこんなに大きくて、感情むき出しの声がこいつの口から放たれたことに驚いた所からくるもので、別に怖さからくる訳なんてない。だからキッとこいつをにらみ返して相対した。本当は一体どうしてここまで必死なっているのかに驚いているのもあった。このまま放っておこうものなら気迫だけで殺されてしまいそうなので、おとなしく返事を考えることにする。

 笑っているのに、今にも泣きそうなそんな顔で仮面を繕った彼は私のことを見ている。相反する気持ちの片一方を必死に抑えて笑顔を作っている、とかそんな感じだ。その姿があまりにも異様で、経験のない私は思わずたじろいでしまった。楽しいときは笑えば良いし、悲しいときは泣いてもいい、やりたくないことはいやだといえばいいのに、こいつはいったい何にここまで突き動かされているのだろう。そう思うと、その根幹を私は気持ち悪いというより怖いと思った。

「やっぱり気持ち悪いよ、あんた。」

 早いところ私は、この居心地の悪い状態から抜け出したかった。だから、きっともっといい方はあったはずで、でもこんな一言で済ましてしまったんだ。

「ああ、ありがとう。それだけ聞きたかったんだ。」

 私の言葉でこいつはもう何もかもを仮面の中にしまい込み、にこやかに笑ってそういった。その笑顔に私は、やっぱりこいつの何もかもが分からなくなってこいつに抱いていたロボットへと抱くような嫌悪ももっと別の、どろどろとした人間みたいなもので埋め尽くされていった。

「ああ、そういえばお礼に傘、貸すよ。僕はいらないから。」

「いらないって、どういうことよ。二つもってるとか?」

「うん、まぁそんな感じかな。」

「そ。」

 差し出された傘を、不躾にもぎ取った。こいつに物を借りるのは癪だけど、背に腹は代えられない。傘もない中で走り回って、一人びしょ濡れになるよりはましだ。

 少しぎこちなく、手を振る彼に振り返ることもせず私は学校を後にした。隠しきれず彼の頬にこぼれていたように見えた何かは、絶対にありえはしないだろうと雨と同じようなものだと思うことにした。


「ホントになんだったのよ、あいつは。」

 いつもは飄々として、クラスの男子の操り人形を演じているくせにさっきのあいつは明らかにおかしかった。正直言って狂っていた。水たまりを踏み抜いた雨空の下、あいつから早く離れて良かったと改めて思う。何があいつをそうさせたのかは分からない。でも、あいつが何かに葛藤していることはあの短い間でもなんとなく分かる。もしかして、やっと気づいたのかもしれない。自分が、変なやつってことに。あんな生き方、一番得しなきゃいけない本人が一番傷つく損な生き方だ、それに自分を信じてくれている大事な人まで傷つけるサイアクの生き方だ。そんなことを、この年になるまで微塵も考えずに、今更気づいたところで遅い。

 それに、どこにでも蔓延っている下らないいっぱしの言葉で過ちに気づいたなんて、愚劣にもほどがある。

でも。でも、あいつの必死な表情をただ気持ち悪いって言葉だけで済ましてあげるのは、あまりにかわいそうだったかもしれない。

「明日はなんか言ってやるか。」

 めまえのスーパーの明かりに照らされ自然と明るい気持ちになりながら、そんなことを思った。


「ありがとう。」

 よくは分からない物が頬を伝う。“これ”がでるのはずっと小さい頃に、父様に頬を叩かれたとき以来だ。それで、教えられた。これは醜いものだから決して人前に出してはいけないと。それをなんとはなしに拭き取ってから僕は、いつもの表情に戻った。

 すべきことをしよう。

 彼女は、いつもスーパーに寄ったあとに家路につくから先回りしてスーパーの近くで待っているのがいい。学校から少し離れたところで、真っ黒のカッパに着替えるとスーパーに向かう。

 別に走っているわけでもないのに、体が苦しい。昔に父様と、経験の内と言われて高い山に登った時みたいだ。

 けれど次期に、この苦しみから僕は解放される。彼女さえいなくなってしまえば。

高松一色は言った。僕は気持ちが悪い、と。気持ちの悪い人間だと。そう言われたとき、やっぱり胸が苦しくなった。父様に敬愛されることを目指してずっと沈黙を貫いていた胸が今日、彼女の言葉だけには同じように動いた。動いたと言っても、気持ちのいいものではない。寧ろ、気持ちが悪く最低で遠く理解の及ばない感情に支配されていく感覚があった。それは、多分父さまの一番に嫌っていた感情に動かされる、とかそういった類のものだろう。自分の中に、一縷でもそんな気持ちが生まれてしまったのが恥に思えて仕方がない。けれどそれも、今日で終わる。 

父様の言っていた、人に気を使えない人間は万死に値するという言葉、それにそのうち死晒すだろうという言葉。其れが、僕の中で混ざり合って一つの確信へと変わって行くのが分かる。そう、だから彼女の死期が多少早まったところで問題はないだろう。

雨が降っている。

雨は好きだ。だってこれだけ降る音が大きいなら、僕の足音も気配も消えてしまうだろう。それに、いつもは自転車で通学している彼女も歩かなければいけなくなる。だからずっと、こんな雨の日を待っていた。

カッパに忍ばせたナイフを見る。鈍く光るさびかけのナイフは、どこかの道すがら拾った物だ。どこかで買ってしまうと足がついてしまうからと手頃な物を探していた矢先に、ぼろぼろの刃こぼれしたこのナイフを見つけた。きっと神様も僕の味方をしてくれている、手に取って感触を確かめたときこれは啓示だと信じた。

「やっとだ、やっと。」

 たった二週間ほどのことなのに、随分長かった。それこそ、本当に一年くらいに感じた。

 でも我慢するのも今日で終わりだ。

 スーパーをみると、僕の真っ黒の傘が開かれた。

 その傘の向かう方角へと、ばれないよう、気づかれないよう距離を保ちつつ後ろを追った。


 カノジョの通る裏路地にたどり着くと、心臓が波打っているのがより顕著になる。

 ここで僕は、目前に迫ったカノジョの背にナイフを突き立てる。簡単なことの筈なのに、いざ肉薄してみるとその背はあまりにも小さく見えた。

 深呼吸する。大丈夫だ、僕は無能ではない。父様の嫌うような人間ではない。だから出来る、僕にはこの崇高な目的を果たすことが出来る。果たしてから、持ってきたイヤホンを耳に嵌めてそれでスキップしながら僕の功労を褒めたたえて家まで帰ろう。

 呼吸のかかる位置まで近づく。女性一人にしては大きすぎる黒傘に、もう片方の手にはぱんぱんになった買い物袋。両手は後ろからの障害に対応できないよう十分にふさがっている。

それにこれだけ近づいてもばれないのならもう、××は容易だろう。

 ナイフを突き立てる。

「謝った方が、いいかもな。」

 雨音に晒されても、この距離なら彼女の呼吸、嘆声、一人言、その全てが漏らすことなく耳に入ってくる。一瞬、腕が止まる。それに、そのたった一言だけでよく分からない物が胸の内で喚き始める。

悩んでいてももう、遅い。それに悩むのも馬鹿らしい。もとより彼女は僕を可笑しくする生き物なのだから。一瞬、腕を止めてしまったことを嘘にするためにそれ以上の渾身の力を込め、胸の内で喚くものに答えもつけずカノジョの背にナイフを突き刺した。

「あ、」

 ドサリと、ぱんぱんの買い物袋がアスファルトに流れ落ちる。傘はかろうじて、肩に重心を預けたままで宙ぶらりんになっている。

 ぼろぼろのナイフは体の中にすんなりと入って、カノジョをそのまま貫いた。どくどく、と心臓の鼓動に併せて口腔から血が垂れていく。金属越しにもカノジョの心臓の音が伝わってくる。

 脈拍に、血流、そして荒れた呼吸。その全てが、僕の全てと繋がっていく感覚はたまらなく気持ちが悪い。

一体誰が何がと振り返る彼女に、やけに冷静な体だけが姿を見られないよう傘を押し込めてもう一度ナイフを深く突き刺した。ぱきりと傘の折れる音とごぼっと吐血する音が聞こえ、そのまま前のめりになって彼女は倒れた。

 あれだけ高尚な動機を持って遂行されたはずの計画に僕の腕は、震えてカノジョに刺さりっぱなしのナイフを手からこぼしてしまった。

 動機と行為とを秤にかけた天秤が、思い切り傾いている。

 真っ白の筈の半袖のブレザーが、真っ赤に染まっていく。

 僕を馬鹿だなんだと愚弄し喚いていた何かは、いま息を引き取った。

 この世界から僕を脅かすものがいなくなったことへの心地の良い清涼感が全身を貫き僕の正しさが証明される、筈だった。正しい。僕のおこなったことは正しくあって然るべきなのに、満足感は愚か達成感すら感じない。胸の内に隠し通せない程に大きく詰まったわだかまりもとれない。寧ろ、胸の内の静寂は不快感を最大にまで膨れ上がらせて吐き気を催すほどになる。

 『僕は、正しかったのか。』

 そんな疑念が頭をかすめるほどになると僕は、もうこれ以上を考えまいと一目散にかけだした。

 最後に一瞬振り返って、カノジョを見ても、光を失った目が再び輝き出すことはなかった。


 前もって計画を立てていたことが功を奏して、返り血のついたカッパもこのためだけに買った靴も、難なくばれないよう処分することが出来た。けれども、解き放たれた気分はどこの土を掘って探してみても見当たらない。

「父様、僕は正しいですよね!」

 脈絡もなく、家についた瞬間にコーヒーをすすっている父様に縋り付く。途端に父様は、僕を引きはがし一瞬怒気を膨らませてから笑顔で僕の頬をはたいた。

「今のお前は、間違いそのものだ。決して感情的になるな。頭を冷やしなさい。」

 ジンジンと痛む頬に手をやると、ドクドクとカノジョの心臓の音が聞こえてくる。誰にも縋り付くことの出来ない気持ちと誰にも語ることなど出来ない事実を抱えながら、寝ることなど出来るわけはなかった。彼女の遺体が見つかった後のことを考えると震えが止まらない。僕は、心底悲しそうに言えるだろうか。『彼女が亡くなったことを誠に遺憾に思います』、と彼女の血にまみれた両の手のひらで顔を覆いながら。

 出来なかったら、僕は父様に無能の烙印を押されてしまう。でもきっと今の僕にそうすることは、出来ないだろう。逆らいようのない気持ち悪さが僕の中を駆け巡っていく。彼女は間違っていて、僕は正しい。そうやって正しくあるために行動を起こしたというのに、その結果が余計に自分の首を絞めているという矛盾に、明確な答えなんて出せるわけはなかった。ただ残ったのは、僕が人を殺したという避けようのない事実と、穴が開いた容器から殊更に流れ落ちていく信仰の感触だけだった。


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