先の道、傍らの人
「早くしないと遅れるぞ」
「待って待って! あと少しなんで、っと」
透明なソフトカバーと天板との間が殺風景な机の上で、配布されたばかりのパソコンを慌ただしく眠らせる。黙した機械の傍に積み重ねられている紙束のうち、ボールペンを挿した安物のバインダーで簡単に括った書類を抱えれば、ひとまず準備は完了だ。がらんとした長い部屋には、午前の陽光に照らされた埃がちらちらと舞っている。政府の推奨と制限によりペーパーレス化が進んだ今日、見る機会もぐんと減ってきた紙の塔も、この職場においてはまだまだ現役である。
「ん、オッケーっスよ、センセ」
「呼び方。変えるんじゃなかったのか?」
眼鏡の位置を直しながら眉を潜めて言う兄は、少しばかりくたびれた白衣を纏っている。生真面目そうな顔つきと、整えられた黒髪は、自分にとってはいつでもどこか懐かしい。
「あー、習慣で……つい出ちまうんスよ」
「ここは噂が回るのが特に早いぞ。妙な疑いを持たれるとやりにくくなる」
「気をつけるっスけどぉ」
巡との騒動が鎮まってから、二年後の春。
桜が舞い散るこの佳き日に、オレは、新米教師として校舎へ足を踏み入れることを許された。もっと広いような気がしていた職員室や、行きつけの隠れ家にしていた理科準備室は、当時とほとんど変わりはない。今年度の始業式、および新任式がこれから始まろうとする体育館は、昨年末に補修工事を終えたらしいが、きっと見た目は同じだろう。
「保健体育の担当も、スーツの時は白衣羽織るべきっスかね」
「養護教諭と混ざるだろ。明日からは運動着だろうし、トレードマークはそれで十分じゃないのか」
「しょっぱなは大事かなーって。けどまあ、確かにそっか」
道中の保健室を横目に、自身の下腹部をそっとさする。二年前の事件から数えた変化の一つとして、排卵がぴたりと止まり、決まって月に一度はあった生理が来なくなった。結婚だとか、子どもが欲しいだとかは考えたことがなかったが、この変調が生じた理由を手探れば、カグツチと巡が脳裏をよぎる。多分、彼らなりの爪痕なのだ。堕胎を忘れようと、意識の外へ押しやろうとしていた母親を戒めるため。あるいは、純粋な我儘のために、少年たちはカグツチの死に合わせて女の種を奪ったのか――真意を尋ねることはもはや不可能だが、覚えていることが償いになるならば、自分はありのままを受け入れようと思っている。また、人ならざるものを視る目の方は今なお健在で、イザナミはこの身に宿り続けているらしかった。
ご自慢の長い脚でもって、移動時間には十分もかからずに体育館の裏口へと到着する。鉄製の厚い扉の奥からは、春休みを失った生徒たちの落胆と、新しい年度への期待の両方が伝わってくる。陽射しで温くなった取手を引き開ける役目は、立候補する前から片割れに奪われる。彼の頬に浮かぶ喜色は、こちらにとっても何より嬉しい祝福だ。
「青天目先生、意気込みはいかほど?」
「んー……忽那センセには、色々と助けて頂きたいっスね」
「他力本願が早いな。しっかりしてくれ副担任」
「へへ。これからもヨロシクってことで!」
重い板が横にずれる。密やかなざわめきが収まらない子どもの整列と、年代様々な教師陣の群れに緊張は感じない。その理由は、通勤初日の鎧に選んだのが、「地獄現世支部」なるお節介で奇妙な秘密組織であてがわれた、オーダーメイドの三つ揃えだったからかもしれなかった。
マナーモードにされている携帯端末の液晶に、縁のライトと合わせて、一件の通知が届く。数回の点滅の後、留守番電話に切り替わった録音口に、滑らかな声が吹き込まれた。
『久しぶり、東堂です。これを聞いたら、折り返し連絡を頂戴』




