白
白い。
軋んだ背中側の地面が、平べったく硬いベッドのスプリングだと認識するまで、たっぷり十秒はかかった。薄い掛け布団を捲りあげて跳ね起きれば、横たわっていた寝具の面積を見誤って、リノリウムの床へと勢いよく転がり落ちた。
「いっ……てぇな! もう!」
悪態をつきながら立ち上がると、捲り上げたシーツに近くの品物が引っかかっていたのか、閉じた状態のパイプ椅子や、背の低い棚たちが、見掛け倒しの騒音と共に体勢を崩す。床と家具の間へ挟まれる前に慌てて避け、なぜか散らばっている氷嚢をつつきながら一息をついていると、セパレートタイプの制服を着た女性の看護師が駆けつけて、部屋を見渡した後に苦笑いでこう言った。
「おはようございます、青天目さん。元気があり余ってますね」
偽名で呼ばない彼女は、見覚えのない他人だった。
あれよあれよという間に連行された、いくつかの小部屋で検査を受けて、整理整頓が済んだ部屋で栄養剤を注がれる。診察室で会話した、柊ではない医師曰く、オレは熱中症と疲労とで、この病院に運び込まれてきたそうだ。通報者が名乗らなかった救急車を経由して、集合部屋に空きがなかったからと個室へ通され、数時間ほど眠っていたのだという。窓の外には太陽が浮かび、抜けるような晴天で雲が遊んでいる。組織の下請け会社のような、隠れ蓑としている病院にでも放り込まれたのかと思い、雑談を装ってさり気なく局員の名前を出してみても、どの医療関係者も首を傾げるか、名字が同じだけの別人を候補に挙げるかのどちらかだった。昼間でも人工灯が明るい部屋は、市民向けに設立された病院のうち一室で、はっきりと輪郭が認められる扉には、パイプを折り曲げたような銀色の取っ手がついている。あの職場とは似ても似つかない、平和な場所だ。入院着に着替えさせる前の服はこれだと渡された紙袋の中身は、三つ揃いのスーツではなく、己のクローゼットに入っていたはずの私服たち。通話可能なエリアで発信した東堂の電話とは繋がらず、留守番電話に切り替えるための案内すら流れなかった。
次に番号をタップした教師、兼、兄には三コール目が鳴る前に繋がって、病院まですぐに向かうと言っていた。左脚のことも尋ねたが、会ってから話すとはぐらかされて、心配と不安で具合が悪い。電話口で彼の声を聞けたのは、もしや自分の妄想だったのではないかという最悪な思考にまで陥りかけて、ぶんぶんとかぶりを振った。いっそ昼寝をするべきかと思い始めたところで、駆け込んできた当人に起こされる。廊下から年配の看護師に走らないよう注意された乾の四肢は、服の上から見る限り、どこも欠けていない。
「センセ、足――」
治ったんスか、と、上げた顔で表情を見ようとして、彼に抱きすくめられたせいで言葉が途切れる。きつく回された両腕には、少し痛いくらいの力が込められていた。髪の長さは、自身と同じく元通りに短い。
「おかえり。……馬鹿。心配させるな」
「……ただいま。そのセリフ、そっくりそのまま返しとくんで」
しばらくしてから身体を離した彼は、面会者用のパイプ椅子へと腰を落ち着けた。話を聞いてみると、センセもこちらとよく似た状況にあったらしく、目を覚ました時には自宅の寝室にいて、五体満足で今日の朝まで眠っていたらしい。オレや狐塚サンに連絡がつかないまま、かといってじっとしているわけにもいかず、巡に関連する情報がないかと電子新聞やニュースを頭に叩き込んでいる最中、こちらからの着信があったそうだ。
「調べた限り、あの日の騒動は何も記事になっていなかったな。首相官邸も健在だし、古舘総理の一日を簡単にまとめている朝刊のコラムも、代わり映えしない内容だった」
「巡とか、その辺りはどうなんスか」
「いくら養子とはいえ、彼は未成年だ。易々とはメディアに実名も載らないが……逆に言えば、載っていないから無事だとも言える。規制が緩いゴシップ系の記事も漁ったが、総理へのバッシングはあっても、家族についてはつつかれていなかった。恐らくは、彼も無事だろう」
壁にかけられたカレンダーが示す今日は、中絶を執り行った日付の翌日だ。カグツチの命日になると予告されていた時間の後で、二人は穏やかに呼吸をしている。
「よか、った……」
ほろり、と粒になって頬を下ったのは、温い涙だった。後から後から続く雫を袖で拭っていると、彼が持ち込んだ清潔なハンカチで押しのけられて、優しく役目を奪われる。自分の意思を主導権に据えて動けていることを踏まえれば、カグツチは、残されていた時間を母親と過ごし、急繕いな約束を律儀に守って、魂の刻限を迎えたのだろう。
疲れる泣き方ではないにしろ、今度は己が赤子みたいだと思えてしまって気恥ずかしい。早めに世話を辞退して、備え付けのティッシュで鼻をかんだ。
「帰りに寄って確かめてもいいが、俺たち側から連絡がつかないとなると」
「行っても誰もいないか、入れないかっスよねぇ」
既に振り込まれている賃金だけでも、老後の生活まで十分に賄えるとはいえ、異例の早さで無職になってしまった。流石に少しは社会人経験を積んだ方が、周囲からのやっかみは減るだろうことは何となく分かるので、就職活動の用意を進めなければならない。そのことをぼやいてみると、やってみたい仕事はあるのかと尋ねられた。
「まあ、あるっちゃ、あるんスけど」
「へえ? いいじゃないか。対策するだけの時間と余裕はたっぷりあるだろうし、挑戦するのは駄目なのか」
「ダメってわけでも、ないけど」
「なんだ。やけに歯切れが悪いな」
笑わないか、と前置きすると、法に触れることでなければ応援すると真面目な顔で応じられる。それがより一層いたたまれなくて、ええいままよと切り出した。
「あのさ、最近、その職種の人口減ってるって聞いて……大学でやることもそんななかったし、昔より取るの簡単になってるって聞いたから、資格だけ取ったんスよ。だから、……えーっと……」
蚊の鳴くような声で結論を告げると、今度は彼が、おもむろに目頭を抑えた。笑われるよりはいいが、泣かれるのも参る。しかしながら、今はこちらも顔が熱いので、各々好きに時間を過ごす。
だって、憧れるなら、アンタしかいなかったんだ。
目指すかどうかも揺れていた、中学教諭への道が選択肢にあると聞いただけで、これほどまでにこの人が喜ぶなら、やっぱり悪くはないのかもと考えて、センセの短い黒髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。開けた窓から吹き込む風に乗って、飾り気のない病室のカーテンが巻き上がる。低く飛んだ飛行機が、同じく低い駆動音を鳴らしながら、白線を尾尻から空へと刻んだ。




