朝と夜の境目
繊維を挟んだ体温を推し量っては、計測不能の初期値が浮かぶ。指四本をまとめて握る彼女の感情は、一本ずつ交差させたくもなる自分のそれとはやはり異なるのだと分かってしまい、知り尽くしている寂しさを胸へ溶かした。許容された傷を無意識のうちに引っ掻いて、雨で引き攣る痕の辛さを、彼女へは一生伝えまい。
「進んでる、っスよね」
果てが見えない緩やかな下り坂を進むほど、周囲の無彩色は墨の粒子を細かく固めていくせいで、慣れた目でも天地の所在に自信をなくしてしまいそうだ。ヘンゼルとグレーテルが撒く道標がない代わり、迷う方が難しい一本道を延々と辿る時間を、どれだけ続けているだろう。妹の声以外は靴音すら消えた、不可視の波が歪に反響する空間で、呆けた脳が耳鳴りを起こす。無音ならばと勝手に騒ぎ奏でるなんて、人体の仕組み上、明らかなバグとしか考えられない事象だ。
「灯台とまでは贅沢しないが、人魂くらいはあって欲しかったな」
「んなバチが当たりそーな……ま、せめて足元くらいは見たいっスけど」
ね、と一文字を付け足すうちに、暗さへ慣れた視界がふと眩む。瞬きの間に起きた軽い目眩の原因を探せば、猫間の足場が淡い光を放っていた。青白い、蜃気楼を彷彿とさせる鬼火が、地面から僅かに浮いて二人を照らしている。案内のつもりなのか、先の道を示すかのように前方へ整列している灯りまである。
「センセ」
「俺は何もしてない」
「まだ聞いてないんスけど」
空の右手で頬をかいた元生徒も、心当たりが特段ないようだ。
「イザナミの力とは違うのか」
お互いに意図して干渉していない現象だとすれば、次に考え得るのは、未だ発現の兆しが見られない女神の加護だろう。自分たちの肉体を間借りしている彼らは、寄生先であるこちらへ手持ちのカードをあらかじめ全て明かすつもりがないらしいことは、長年、視覚や聴覚だけにしか作用していなかった身体へ立て続けに起きた変容で察せざるを得ない。異様を映す瞳にも、揺れる後ろ髪にも、まだ違和感が強くある。
「んん、どうだろ。話しかけても全然反応ないんスけど、センセたちは意外に友好的だったり?」
「隙あらば乗っ取ろうと狙われてる感じはあるぞ」
「だからぁ、物騒なんスよねぇ」
心なしか、彼女の髪が仄かに明るく、長くなっているような気もする。こちらから見えたままの事実を妹へ指摘すると、自分の尻尾を追う小動物のように首を振り向かせるものだから、つい笑ってしまうかと思った。梟ではないのだから、鏡なしでは背中も確認できなかろう。どうにか迂闊を喉奥で留め、該当する後ろ髪の束を掬って前身頃へ流してやれば、素直にまじまじと見詰めている。伏目がちになった睫毛が、蝋燭未満の光源によって輪郭を露わにされた。
「綺麗だな」
「この色、ガスバーナーでしか見たことないっスけどね」
「高温になるか、ガリウムの……授業では細かく教えていない原子だが、ともかく、その辺りの炎色反応でないと青にはならないぞ」
癖で解説をしようと開いた口へじっとりと不満げな眼差しを感じて、しばらく離れている教職は今の出番ではないと咳払いをして誤魔化した。
「それに、暗い場所なら、赤より青の方が明るく見えるものだ」
オレンジで帷を予告するのんびり屋の夕焼けに対して、夜明けを告げる鮮烈な日の出は、あっという間に朝を連れてくる。だとすれば、彼女に手を引かれている自分は、次の朝へと連れ去られている真っ最中なのだろうか。身の内から湧く衝動については、憑依した神によるものなのか、己だけが持つ感情なのか、次第に疑わなくなっている。唯一と決めた相手が傍らから消える事実に耐えられない者同士、眩むほどの朝焼けに照らされている、ささやかな幸福を静かに享受していた。




