結んで開いて、手を取って
「……センセ?」
閉じた洞窟の入り口を背にして立つ兄を、一体どうしたものだろう。終わりが見えない坂へ満ちた静けさが、暗闇に浮かぶ二人の縁取りを、沈黙に倣うように色濃く強めている。景色に慣れて鮮明になっていく視界では、眉と目の幅が近く、口を真一文字に引き結んだ彼の表情が捉えられた。怒っているわけではなさそうな顔つきに、胸中を測りかねて参ってしまう。こちらの迷いをあえて無視しているのか、呼びかけに対する返答はないまま、髪の尻尾を揺らして近寄ってくる貴賓へ、応急処置としておどけながら話を振ってみる。
「えっと、出待ちの予定は変更になったんスかね。さっきは頷いてくれたと記憶してるんスけど」
今のところは敵も見当たらないので、銃にはふわりと消えていただいた。出し入れが念じるだけで済むことへの便利さを実感しつつ、洋画で見るような肩をすくめるオーバーアクションをしてみせると、片方の手首が硬い掌で覆われる。自身の目と鼻の先に迫っていた男は、勝手に掴んだ交わりを、彼の胸の前へと引き寄せた。
「悪い。やっぱり、駄目そうだ」
困った風にはにかみながら紡がれた言葉に乗って、彼の心音が聞こえてくるかと思った。カッターナイフを喉に埋め込みながら吐露しているのかと思うほど、細やかでも明らかな傷が、編まれた声色の端々に飾られている――大人とか、教師とか、立場とかの鎧を脱いだただの一人が、手袋越しにきつく拘束し、こちらへ縋っている。
「納得しようと努力したし、最善も分かってる。考えられるだけの悪い可能性も考え尽くして、頭の中では飲み込んださ。けど……思っていたより俺は、聞き分けのいい大人じゃなかったみたいだな」
長い昏睡から目覚めてすぐ、面会用の椅子で流していた涙の跡形もない、枯れた水源はどこまでも切なげに歪んでいた。
「葵。俺は、俺がお前の傍にいることを、赦されたい」
覆われた掌が、一層強く、優しい手つきで握り込まれる。
「二度と害さないと誓う。一生かけて守るから、償うチャンスをくれないか」
一度目なんてあっただろうかと考えて、今日まで昏睡していた自分の身体を思い出す。眠り続けたその細工を、今目の前で懇願する乾が施していたらしいことは、他の局員たちの話ぶりと、本人の反応から察している。けれども、それがどうして、オレを貶める行為にあたるのだろう。こちらの意思を尋ねずに、目覚めるかどうかも不鮮明な揺り籠へ横たわらせたからか。眠ったままあの世へ渡るなんて、そんなことは、いつでも誰にだってあり得る話なのに。
「センセってさ。時々、すっごくお馬鹿さんスよねぇ」
重ねて傷つくことがないように用意した真綿が分厚かった程度で、相手から手向けられていた信用が全て無くなると思い込んでいる。
微かに締まった拘束に、つい、頬が緩んでしまう。
どうか、怖がらないで。
「プロポーズまがいのことまで言うくせに、自分の嫌いなトコばっかり見て、倍はある長所に気付けないくらいお馬鹿さんだ」
オレだって、アンタから注がれる甘い誘惑に包まれて、優しさだけで眠りたい。けれど、それは問題の先延ばしに過ぎなくて、本当の意味でお互いを救うことにはならないのだ。悪臭に蓋をし続けるための覚悟は、巡が生まれを語った瞬間に品切れた。
空いている方の手で彼の指をさすり、温かな鎖を解かせてから、形としては大きな手を、両の掌で包み込む。朝露の中、街の産声を待たずに敬虔な祈りを組む修道士の指先は、こうして何者かへ語りかけるために使われているのだろうか。
「オレはね。センセの隣に立ちたいんスよ」
子どもとして扱われることに、喜びもあった。慈しまれているのは心地がよくて、特別扱いに憧れた飢えが満たされたから。卒業してしばらく経ち、再会してからは欲深さにも拍車がかかった。詰め込まれた幸福な思い出の延長線上に対等を望み、肩を並べたいと願ってしまった。
「小っ恥ずかしくて言えなかったっスけど、アンタはもう、どうしようもなく寂しかった子どもを救ってんだよ。寂しくないのが当たり前になって、一丁前によそでトラウマ抱えられるくらい贅沢して、恩人に四六時中感謝しなくなるくらい、……ガキがずっと欲しかった、『普通』の幸せをくれた」
態度だけでは、不安なら。
「青天目葵は、忽那継司が大好きだ、って。当たり前すぎて、伝えてなかったっスね」
下ろしながら解いた手で抱きしめた彼の背丈は、理科準備室で眠りこけていたあの頃よりも、ずっと近くて。近い分、聴いて欲しい言葉を逃さないようにするのも容易で、流れた時の長さを想う。家庭に問題がある生徒としてではなく、成人して、生意気にも一人の人間として話せることが、指先が痺れるほどに嬉しいのだと伝えたくて、女の自分よりも広い肩口へ顔をうずめた。湿った生地が、日頃から化粧をしない肌へじんわり染みる。
「だからさあ。自分にそんな厳しくしないでよ。焦らなくても、オレはセンセを嫌いになんてならないから」
雨が煙草の匂いを溶かしたのか、病室のベッドで分け合った苦さは漂わない。かといって砂糖も香らない彼の、休み知らずな心臓がいくつ拍を刻んでいるのかと、もたれつつ数えている途中で間違えてしまった。改めて暗算で足していって、また忘れての繰り返しを重ねるうちに、メトロノームは振れる速度を穏やかにしていく。
身体の合間に空気を入れて、一歩引いた分の隙間に、下へ向けた腕を傾ける。差し出した掌を握り返すまでのためらいを、いささか小さな手で拭って掴めば、路地裏で座り込んだ少女を深海から掬い上げたあの日の夕暮れとは違う、横に並んだ結び目が出来上がった。
「オレが臆病者にならないように、繋いでて!」
多少わざとらしいくらいに笑顔を咲かせると、険しさが張り付いていた彼の相貌が、緩やかに振る舞いを変えていく。
「……お前には、かなわないな」
眉根から力を抜いて笑った兄は、掌を結んだ相手と爪先の方角を合わせた。




