糸とビスクドール
ぐわ、と上からの圧が強まったのは、結界を壊そうと試みる一塊が透明に覆い被さったからだ。誰に言われるでもなく守られている範囲から駆け出したのは乾で、駆除の様子が薄膜を通して見える。切り取り線のない不定形の腕が胴から離れ、曇天を背景にして弧を描く。結界を今以上に広げるつもりはないらしい東堂は、オレが坂の奥へ下るのを、口を噤んで待っている。オレの決心がつくまでそうしているつもりだろうかと慮ってしまうほど、いつでも、いつまでも穏やかなまなじりは、こちらを少しも急かしはしない。
「どうして、力を貸してくれるんスか」
堪えきれずに、同伴者に限った話ではない疑問が不意に喉から溢れる。自分が眠っていた空白の期間も含めれば、偽名を配布されたばかりの二人は、数ヶ月もの間、存在を認識して間もない彼らから尽くされ続けていた。人の問題は人同士でどうにかしろと最初に言い放った紅でさえ、黙認という形で完全に放っておくではなく、司令を伝えに来た先刻のように、事件の渦中へ身を置いているのだ。慈しむような行為と彼らの在り方のちぐはぐさに、微かな違和感が長らく育っていた。地獄の獄卒とは、王とは、もっと冷酷に平等であらねばならないのでは、と。
予想だにしていなかったらしい方面からの質問を振られた彼は、コンマ数秒で面食らってから、心から楽しそうに笑った。あはははは! と、まさか声を出して笑う相手だとは思わなかったので、こちらの方が戸惑ってしまう。ひとしきり気が済んだ鬼は、涙すら浮かんでいる目端を拭った。
「ふふ、ごめんね……だって、始めに言ったじゃないか。信じられているから、地獄があるのだと。ぼくたちは、生者から信じられることで存在できる」
気持ちを切り替えるようにつかれた溜め息は、呆れからくる棘を備えておらず、温かく柔らかな成分から構成されている。
「故に。人間に生かされる地獄は、人間のために、作り物の心を傾ける運命なのさ。ぼくがこれを不幸だと思ったことは、ただの一度としてない」
「そう感じるように洗脳されてるだけ、とは考えないんスね。東堂サンの親は英サンたちで、王サマなんでしょ」
正確には、彼と彼らは自分たちが親子と呼ぶような関係性ではないかもしれない。けれども、赤子にあたる幼体を生み出して、かくあれかしと知識を植えつけることがほぼ無条件に正当化された相手という点でなら、そこに大きな差異はないはずだ。
「二人のことも、よく知らねえっスけど……立場上、組織の頭なら、手駒は自分に都合よく育てるだろって思うのは、オレがひねくれすぎ?」
まっさらな土壌に植え付けられた種へ注がれる水と養分は、あらかじめ保護者という名の監督官が選別したものだけしか食卓に並ばない。その上でどれをえり好んでも、何を考えても、所詮は掌の上で踊っているだけに過ぎないのではないか。運命を疑っていないように受け取れる発話をした相手を目を真っ直ぐに見つめると、まるで、花でも手塩に世話するような、愛しいものへ向ける眼差しで受け止められた。
「それでもいいと納得できるくらいには、きみたちが悩みながらも懸命に生きる姿が、眩むほどに美しいから」
包むような穢れで暗くなっていた結界の内側へ、鈍い光が差し込む。晴れとは比べ物にならない、結局は曇り空の明るさではあったが、外側で退治を進めるセンセの働きぶりが窺える変化だ。ほのかな灯りが、薄い頬へちらちら散った。
「どうか、ぼくたちの住処へ降りる日が、遠い未来でありますように」
「……アンタの言いぶりだと、まるで――」
お別れだ。続かなかった半開きの口へ、やはり困ったように微笑んだ鬼の人差し指が添えられた。
「さあ。手遅れになる前に」
何かを言おうとした己が野暮だと気付いて、愚かさを露呈する前に頬を上向かせる。出会った時から綺麗な青年は、半壊を経てもなお変わらない容姿で佇み続けた。青封筒で呼び寄せられた、待ち合わせ場所のロビー。ビスクドールを連想させた第一印象は、宿った魂によって塗り替えられることだろう。
「またな、東堂サン」
返事をされる前に背を向けて、即席の安全地帯から抜け出す。若い身空の好々爺に保たれていた透明が、解けた糸の端で青い髪を撫でた。小洒落た餞別に、肩の力が抜けていく。
ただし。一人だけに招待状が投げられた奥へ進もうと浮かせた足は、穴の口が閉じる寸前で滑り込んできた元担任に驚かされ、しばし立ち止まることとなったのだが。




