渡りの傘と船頭
「二人とも、随分な有り様だね。風邪をひくよ」
後方から投げ込まれた声で、肩が跳ねる。急ぎ二人で振り返れば、グラスチェーンのかかったオーバルフレームの眼鏡の奥に作り笑いを浮かべた紅が、和傘を差して佇んでいた。彼の瞳の色と同じ、真っ赤な布が張られた傘を整った相貌で優雅に携えた姿は不気味でもあって、怪談の主役を飾ることだってできそうだ。例えば、天気の悪い日に彼へ話しかけられたら、声をかけられた内容の通りに数日以内に不審死するとか。……やめておこう、縁起でもない。直方体の無地が揺れる、向かって左側のピアスまでもが、小さな卒塔婆に見えてきた。
「えーと、紅サン。瑠サンの方見てたりします? 一緒に入ったけど、出てくる時は会わなかったんスよ」
「合流しなかったなら、その必要がないと判断したんだろう。僕らは君たち人間と違って暇の概念がないのだし、不要なことはしないさ」
彼が手にした持ち運び可能な即席の屋根を叩く雨量と、裂傷によって熱をもった腹部以外もしとどに濡れた感触で、自分の衣服がぴったりと肌へ張り付いていることが分かる。大層な下着を着ているわけではないが、ベストに覆われてインナーが見えにくい三つ揃えのスーツだったのは幸いだ。採寸結果に基づいて糸から仕立てた蘭が、この荒天までをも配慮していたとすれば、真面目な会議の場でもどこ吹く風で鼻歌を歌う背丈の小さな先輩を見直さなければならない。
「つまり、あなたも俺たちに用があっていらしたと」
乾のベルトに紐と金具で固定された刀の鞘へ、剥き身だった刃が収納されていく。時代劇のようなわざとらしく軽い鉄の音はせず、雨にかき消される程度の囁きの分しか目釘を痛めなかった。
「東堂の手当が終わった。彼の専門は知ってるかな」
手当とかいうレベルの話ではなかったはずの半壊をどう治したのかという質問は望まれていないようだったので、素直に「専門」が何を指すのか聞き返す。
「局員には、それぞれ得意とするもの、生業とする技術がある。春は語り部、蘭は生成、柊は治癒、狐塚は幻術。王たる僕と瑠は規格外だけど、他は各々、特化した役割が一つ以上はあるように整えているのさ」
まだ荒削りが過ぎるけれど、剣術、銃術は割り振ったつもりだと言って、安心できない微笑みが手向けられる。本心が読めないどころか、心そのものがあるのか不安になる相手の笑顔に無警戒でいられるのは、物心がつく前までの話だ。
「あれは封印、結界、隔離といった能力に秀でるように造ってある。今以上に穢れが蔓延する前に、現状で被害が出ている区画を、東堂が現世から切り離す手筈だ」
「ンなことしたら、ここらにいる無関係な人がどうにかなるんじゃ」
青封筒で呼び出され、否応なく就職先決定とあいなった日を思い出す。死後に清算されるはずだった現世の咎を、容疑者が生きているうちから対処しておくことで、地獄の負担を軽くするのが組織の役割、ひいてはオレやセンセの任務だったはず。ならば、土俵にすら自力では上がれない一般人は、大前提として保護の対象ではないのだろうか。共有された作戦から汲み取れる情報では、罪のない彼らを巻き込んで、強引に切り離すようにしか聞こえなかった。
「他国からの報告で、既に第二の武蔵国になりかけている場所もあるんだよ。カグツチを祀っていたり、墓所とされたりしている、愛宕や熊野が一例だ」
――穢れは噂とよく混ざり、瞬く間に蔓延する。
「地獄の蓋の開け閉めを誤って、神々と縁深い土地にまで毒が及ぶのは、『無関係な人』を悪戯に増やすだけだとは思わないのかな」
そうこう話している間にも、都心の大型建築は次々に瓦礫へと変わっていき、雨と混ざって液状化したコンクリートは、地面の裂け目から我先にと噴水のように溢れ出している。
「こちらにも成すべきことがある。僕の手を、二度は煩わせないようにね」
言い置いた上司を見ながら瞬きをすると、瞼を開きなおした時には、彼はすっかり東堂と置き換わっていた。本庁のロビーで初めて会った時と同じ輪郭、道ゆく誰もが振り返る美男子が、獣に貪られた血肉の名残をちらとも見せずに、困ったような微笑みで口を開く。
「地獄へ行こうか。一緒に」
閉じながら下ろした傘の爪先をとん、と足場へつければ、十数本の骨が解けてから、再び別の形へと編み直される。出来上がった透明な繊維が地に沿って這い、果てからは雲の上まで高く折れ、黒が伸びた空間を一息に閉じ込めた。




