悪天に羽
鋒を奮うたびうねる結い髪の違和感に眉を顰めると、鮮やかにおぞましい景色へ目を凝らしてしまい気が滅入る。自分の肉体を社にして魂が同居しているという眉唾なイザナギへ発破をかけた際に突然伸び、さらには後頭部の高い位置で括られた持ち前の黒髪は、神話で語り継がれる彼が櫛を挿していたという角髪を模した意向返しか。これほどまで髪を長くした覚えのない頭の重さは煩わしくて仕方がないが、無視を続けることが難しくなっていた疲労を飛ばしたのは、間違いなく居候のなせる業だ。加えて、妹をずり落とさないよう支えている片腕の感覚が鈍らないのも、透明な膜で身体の内外を覆っている、加護らしきものの恩恵だろう。本来ならば、自分と彼女の間には肉の性による体格差があるとはいっても、二十歳過ぎ一人分を抱えて涼しい顔をしていられるほどには、この身はもう若くない。まだ少年にやり残したことがあるのだと訴えていた葵が、奥歯を噛みしめながら引き金へ力を込める反動を腕で受けながら、どうか俺を嫌ってくれるなと、場違いな考えが頭をよぎった。
泥濘を払って露出させた階段を、獣道を作る一頭目の心持ちで進めども、走った先から後ろを閉じていく黒の壁は、侵入者が足跡を残すことを許せないようだった。彼らのあまりの鬱陶しさに、「邪魔だ」と呟いた対象が一瞬痙攣したかと思えば、それから間もなく破裂したので、人を操れるよう育てられた喉の方も、素の状態から随分と強化されているようだ。
最後の扉を蹴り開ける。黄泉の帰路で追われる神話の再演を終えた二人を出迎えた空からは、大粒の雫が次々に落とされていた。濡れ鼠になりながら離れた玄関からは深追いされる気配がなく、官邸全体を包んだ黒い内臓は、呑み込んだ事物を消化しているかのように鈍く蠢いている。
「……下ろすぞ、転ぶなよ」
できるだけ濡れていない場所へ彼女の靴裏をつけ、目に入りかけた雨粒を瞬きで避ける。見渡した景色は、異界という言葉を表すために用意された舞台かとも錯覚する。太陽どころか、人工の光も全て消え、異常事態を知らせる街路の警報も役をしていない。辺りの静けさを阻むのは、この事態に巻き込まれている群衆の悲鳴だ。水滴のせいで使い物にならなくなった眼鏡を外しても、どちらも近眼であるはずの自身の両目は、十二分に遠くまで見渡せる。神の加護とは、なんと都合がいいものだろう。都心のビル群の合間に首を伸ばすのは竜ではなく、半分が液状化した妖もどきで、はるか昔の映像作品に描かれたフィクションの殺戮兵器を彷彿とさせる。出来損ないから千切れた一塊が、乗り捨てられた車の天板へ落ちて鉄を潰した。
「やっぱ、見えてるんスね」
「バレてたか」
「隠すようなことでもないと思うっスけど」
ジャケットの内側へ眼鏡を仕舞い、言わなくてもいいと思っただけだという旨を彼女に伝えようと振り向くと、突然、妹は自らの両頬を叩いた。派手な音へぎょっとしている俺をよそに、険しく顰められた青色の眉とペアになっている、厳しい彼女の眼差しが瞼の下から現れた。
「センセは妙に強くなってるのに、オレは子ども一人満足に連れてこられないし、抱えられるわゴネるわで情けねーとこばっか見せてて、正直、かなりやってらんねえっスけど」
煩わしそうに前髪を右手でかきあげて姿を現した、睨むような瞳の矛先になったのは、補正用のレンズを挟まない自前の瞳孔だ。
「自分でケジメつけなきゃ、オレが前に進めねーってことも、分かってるんで。気合い入れただけっス」
そう言って歯を見せる表情は、卒業後にまみえた顔つきの中で、きっと、等身大の彼女へ最も迫ったものなのだろう。雨を割って鼓膜へ届いた選手宣誓と、昔よりずっと近くにある肩の高さへ、数年越しに二度目の巣立ちを感じた。




