赤子の胎に浸る泥
黒の暗さに目が眩む。
軸を失いかける思考を叱咤して、身の内外から泡立つ穢れへ意識を注ぎ、出来うる限り遠くまで使役する。「神の子」でいられる期限が差し迫った最後の日とあって、これまでのように繊細なコントロールで毒を巡らせている余裕は、時間の意味でも、カグツチと行う主導権の綱引きの側面でも全くない。ぐらぐら煮立つ脳は、測ってこそいないものの、恐らくは細胞が死に始める熱を出している。部屋に入ったばかりの場所で倒れている使用人は、この部屋に満ちる場の歪みに耐えられなかったらしく、気を失うこともできないままに泡を吹いて呻いていた。防音効果に優れた自室から、そのか細い鳴き声が外へと漏れることはない。温度に浮かされ、己から吐瀉物として生成された感情の泥濘が、柔らかなソファの足元へ黒い水たまりを作った。引きつる指に、もう一つの魂による体内からの干渉を感じて舌を打つ。
「寄生虫のくせに」
身に宿った半身である、赤子のうちに母親を殺し、赤子のまま父親に殺された神が駄々をこねるのが腹立たしくて、数刻前から異様に伸びている、うなじを晒すほど短かったはずの後ろ髪を胸元で引く。無理に抜いた長い赫色は、瞬きの間に毛先から炎を纏い、出来の悪い手品のようにうねりながら搔き消えた。
七歳の期限が迫った窮鼠の根城である首相官邸内は、人間の起こす音がほとんどない代わりに、「穢れ」として凝り固まった怨嗟の声が地を揺らしている。ボーイ室辺りから聞こえる叫び声は、半端に狂った誰かだろう。曖昧に授かった霊感では、逃げ込んだ先の小部屋は自分の首を絞める効果しかもたらさないというのに、哀れなことだ。大小様々な化け物で窓の向こうが見えないが、外界ではきっとサイレンが木霊しているはず。迎えに遣った男の死体に、貴女は息を呑んでくれただろうか。冴えて青い髪に負けぬほど白くなる頬を、できれば直に見たかった。傷付いた母を嬲り得るのも、癒やし得るのも、血を分かたれた子の特権だ。ボクを捨てた彼女を、ヒトならざる力を用いて呼び出せるのは、今日で終わりなのに。
諜報に来ていた赤目の青年を喰らえたのは、実に運が良かった。かつての父母神を抱えた二人が囮として揃えられた場で接触してからというもの、彼らの気配は完全に「この世」と「あの世」から断ち切られており、夢を伝って逢うことすら阻まれた。おおかた、属する組織の本拠地に匿われていたのだろう。容疑者を誘き出すための餌に使っておきながら、いざとなれば保護は厭わないという歪みを抱える組織は奇怪だが、だからこそ異形とも渡り合えるのだとも思う。
猫間、と嘘の記号で呼ばれている、己の母親のもとへ自分の脚で駆けて行けたら良かったけれど、我が身のコントロールで手一杯な今となっては、彼女の方からこちらに来てもらうしかない。招待状は、宛名を書いて初めて届くもの。青年の屍が正しく憶えていれば、恋文は間違いなく到達する。既に放たれた一縷の望みの返信を、今か今かと待ちわびた。




