崩れた白に突き立つ銀
床を割った衝撃は、プレートの相撲で起きる地鳴りほどには続かなかった。頭を守る前に静まった揺れに、防衛本能で強張った体でもってしばらく待ってみても、余震の気配はない。無機質なブザー音だけが、突如として訪れた異変の名残としてフロア全体に響いている。
「今の、って」
「……少し見てくる。靴は履いておけ」
多少歪になった面でも滞りなく横へ滑った通用口を潜り、彼が病室から出ていく。にわかに散らかった家具を見渡すと、ベッドの脇に設置された引き出しは不揃いに口を開け、一番下の段の中身をも晒していた。
四つ脚の椅子を避けて拾い上げたそれは、所属してすぐに与えられたスーツの一式だった。酷く汚れていたはずの布地には、染みや擦れ、皺といったものが全く見当たらず、新品のような顔で両手にぶら下がっている。自重のおかげで投げ出されなかった革靴は、ご丁寧にも透明な箱へ収められており、ケース越しでもきめ細やかな光沢を放っている表面の様子が見て取れた。その横には、下着や靴下、ソックスガーターなどの小物類がバッグインバッグのような麻の枠へ詰められており、まさに至れり尽くせりといったところだろうか。施しに甘んじて、正装となる誂えへと袖を通せば、衣類に焚き染められていたらしいほのかな香が鼻をかすめた。つい先ほど嗅いだ、珍しい煙草の匂いと似ている、かもしれない。袖口を顔に寄せ、探るように改めて吸い込んだ空気は確信を持たせずに、巻き込んだ酸素で頭を冴えさせるばかりだった。
ボタンもジッパーもない病衣を引き出しへ仕舞い、廊下の偵察に移る。首を出しても静かなもので、乾はどこに行ってしまったのか、足音が耳に届く予感もなかった。
部屋の外へと出てみると、現在地である病室が、局員が勢揃いした際に使われた会議室と、健康診断で連れ込まれた医務室との中間地点へ位置していることに気付く。床は至る所へひびが入り、砕けた大理石の欠片が散っていて、ソールとの間で起きる摩擦が不愉快だ。地震が起きたらまず靴をと叫ばれる意味がここにあるなと感心しながら見渡すと、少し離れた場所に設置された壁と床が大きく抉れ、クレーターのようにいくつかの凹みを成している。近付いてみれば、衝撃の中央から弾けたらしい泥のような黒が飛び散り、作られたばかりの溝へと大小様々に溜まっている。ボロアパートと地下空間で対峙した化け物とよく似た暗さに、冷たい塩水が背筋に沿って垂れた。
不意に、柊に管理が一任されている医務室の扉が開き、室内から何者かが現れた。ペンキにも似た黒い滴を全身にべっとりとつけた人型は、ちょうど犬が水浴びの後にするようなかぶりを振って、存外に粘度の低いらしい塗料を顔から剥がす。膜の向こう側から露わになったのは、尖った獣の耳を二つ折りに閉じた、半妖状態の狐塚だった。
「春ー! 警報止めろ! 耳が馬鹿になっちまう!」
「は、はぁい!」
女性の声と思しき聞き慣れない呼応へ振り向くと、長い茶髪と眼鏡が記憶の片隅に残っている、以前もすれ違った彼女が扉から扉へと忙しなく走っている。どの入口も自分は通ったことがないとはいえ、次第に小さくなって止んでいく電子音によって、この階層では制御室を分散しているのだと予想できた。ここは紛いなりにも極秘の機関、天皇直属の影の組織。セキュリティには厳重を要されており、簡単に一箇所へ纏めるわけにもいかないのだろう。順を追って絞られていったブザー音は、ついに口を噤んだ。
「起きれたんだ。おはよう……ねぼすけさん、だね」
すぐ側から発された声帯の持ち主は蘭だ。足音がないままに近寄るのは、こちらが驚いてしまうのでやめてほしい。浮きかけた足を宥めながら、子どもの見目をもつ局員へと振り返る。
「おっ……はよーっス。あの、何が起きたんスか、コレ」
「えっと……。……襲撃、きて……やっつけてた……もう終わった、から、あっちで、手術……してる」
あっち、と蘭が指差したのは、やはり医務室の方角だ。先程まで尾を出していたずぶ濡れの狐塚は、既に中へと引っ込んだらしく、見晴らしよくまっすぐに伸びた廊下にはその姿が見当たらない。
彼の身体を覆っていたのが巡の刺客だとしたら、もしや、手術というのは。
「……まさか、誰か巻き添えに」
自分のせいで、誰かが傷付いたのか。いや、それを言い出してしまえば、治ってはいるらしくとも乾とて軽くない怪我を負ったことを知っている。自分のせいで周囲が危険に晒されるなんて、今まで、考えたこともなかった。幼い容姿の先輩へ投げた質問の返事は、すぐには帰ってこない。
「見た方が、はやい」
重なっていた視線が逸れ、代わりに手首を掴まれる。急なことで縺れた下肢をすんでのところで持ち直して着いて行かされたのは、意識があるうちの入室は二度目となる診療所。銀の平台の上には、野犬に噛まれたような肉の断面がグロテスクな、ぶつ切りにされた人間のパーツが横たえられている。呆然と上半身へと注目を変えた先、首の延長線上に置かれていたのは――物言わぬ東堂の、顔の左半分だった。




