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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
59/88

はらわたと警報

「回診の時間だ」

 大の大人が泣くくらいには長く臥せっていたオレに対し、久しぶりとか、おはようとかの前置きがないのは、いかにも無骨な柊らしい。時計も窓もない病棟では、眠っていた時間を推測するためのすべの一切が奪われている。医者が首から提げている聴診器は、電子チップの埋め込まれていない旧型で、携えられたカルテにも、西欧の医学語と察せられる走り書きが連なっている。脱脂綿や、舌を押し下げるへらなどを乗せた四角いバットを置くためには、散らばった棚の上のスペースでは足りない。結局、それらの医療器具は、書類や掛け布団を避けたベッドの余白へ置かれることとなった。面会用の椅子を柊に明け渡し、そのまま部屋を辞そうとする兄を、愛嬌のない医者が呼び留める。

「本人が気にしないのであれば、ここにいて構わない」

 二人から遣られた視線に頷き、滞在を促す方に加担する。

「いーっスよ。話の先も気になるし」

 診察中に足を崩しているのはかえって居心地が悪く、譲られた椅子へ腰を下ろした医師に向かって、それなりに姿勢を正す。鼓動を聞くのであればと、上着の前をくくる胸元の蝶々結びを解こうとして、紐を引っ張る前に柊からその手をやんわり制された。血のポンプの流れを調べるにしても、ゆったりとした入院着であれば手を差し込めるので、肌を見せる必要がないらしい。柊の説明を横で聞いていた乾は、今度こそ退出を取り止めることとしたらしく、先ほど狐塚がしていた仕草と同じように、白い壁へと背をつけた。

 軍人上がりのような堅い掌に簡素な服の裾を捲られて、ふと、自分の体から異臭がしないことに気付く。関節にも垢が溜まっている感覚がないし、足の爪まで適度な長さに切られるばかりか、甘皮や余分な毛の類まで丁寧に手入れされているようだ。寝たきりの患者は、よほど特殊な病状でもない限り、排出物の世話を含めた介護が不可欠な状況にさらされるのだと、チャンネル探しの最中に偶然ぶつかったドキュメンタリー番組で聞いたことがある。下手をすれば眠る前より清潔にされた身体の世話には感謝すべきだが、正直、武蔵国支部にそこまで配慮が行き届きそうなほど優しげな局員がいた覚えはない。今も一応は女扱いされていることを加味し、選択肢から男性を除けば尚更で、かろうじてあり得そうだった東堂も可能性から消える。王と呼ばれていた英のうち、神経質に高いヒールを履きこなしていた瑠以外にも同性のメンバーがいるのだろうかと考えて、しばらく前に一階の廊下ですれ違った、ウェリントン型の眼鏡とハーフアップの髪型が特徴的な彼女が、薄い記憶の中でちらついた。普段の業務では見慣れない顔が隠し扉の先から出てきたから、物珍しくて覚えている。看病をしてくれたのが彼女であるという確証はないが、自分にとってのナイチンゲールが分かり次第、相手が誰であっても感謝を述べるべきだろう。事が落ち着いたら尋ねようと決めた丁度に、伸び縮みしない吸盤状の冷えた金属が肌に触れて、変に肩がはねる。

「なら、続けるぞ」

 応と答えようにも、銀の冷たさで咄嗟には口が回らず、頷くだけは頷く。双丘の近くへ侵入した手の存在感にたじろいだことを、彼らは指摘しない。

「町医者を除いた、他の専門医も複数勤めているタイプの公営病院の話だが……ほとんどの産婦人科では、中絶手術で取り出した受精卵を人工的に育てているらしい。ドナー提供では間に合わない分の臓器を補うために、だ」

 鬼の医師は、クランケの音にのみ反応する。聞こえていないはずはない話は、事実か否かを抜きにして、医療に対する冒涜や侮辱の域に踏み入っているにも関わらず、彼はひたすら作業に黙していた。ようやく声を出したかと思えば、逆からも診るから背中を向けるようにという指示で、途切れた会話は宙に漂い続けている。物申さんとするこちらの予感を得てか、乾も続きは語らずに、絵の一枚も飾られていない殺風景な病室の床の反射へと焦点を合わせているのが、位置替えの折にちらりと見えた。

「ねぇ、それってマジなの」

 はた、ぱたり、ぱた。背骨の両脇をいくつか辿った平たい器具に添えられているはずの指は、不自然なほど皮膚につかない。元の体勢へ戻ると、医師の鼓膜から管が外された。

 食卓で肉を切るナイフから凹凸を削ぎ落とし、持ち手までバターのように綺麗に整えたようなへらが、てらてらと滑る光沢の容れ物から取り出される。

「バレたとしても、堕ろした親は黙認せざるを得ない。捨てた命をどうされようと、今更文句は言えないから、サンプル集めには好都合ってことスか」

 アルコールを含ませた使い捨ての布で手早く拭われた舌圧子、その表面へ多く小さく残った水滴が、端へ端へと逃げていく。乾いて清潔になったステンレスが、質問者の口内に差し込まれた。

「長く寝て、頭が冴えたらしいな」

 ヒト科の舌を側面で押さえての、肯定。呆気なく認めた医者は、診る手を止めず、教科書の記述を読み上げるように、低く淡白な声で答えを紡ぎ始めた。

「その手のドナーは、出生から数えた歳を無視して、急激に成長させることも少なくない。成功例の子どもには、生きた献体として、提供相手に公表できるだけの仮の戸籍と名前も与えられる」

 説明の途中で舌の押さえは外れたが、挟む言葉の持ち合わせはない。語り部は、使用後の器具をまとめて入れるための器へと銀色を収め、今度は強く光るペンライトで眼球を覗き込んできた。とっさに閉じようとする眼瞼を縫い止めた指の皮は厚く、くらむ光線が雨と降る。

「あれは、十代前半向けに調整された身体だろうな。出荷直前に脱走し、孤児施設に転がり込んで、幸運か計算かで現首相の養子となった」

 左、右の順番で視界を染めた源の電源が操られ、物言わぬ短い棒に変わる。医療器具は徹底して古風なものに揃えるといったこだわりがあるらしい柊の、一般人には容易に読めない崩し字のカルテが完成する頃合いに、説明と推測は締め括られる。カルテに刻まれた文字の角は鋭く、丸もほとんど縦線のようだった。

 白衣の男は、部屋へ入ってきた時のように一式をまとめて、出口に変わる壁へ向かう。行きと帰りで違うのは、置きっぱなしになっていた灰皿と煙草を、彼が荷物に加えた点だけだ。

「ありがと。柊サン」

「不調があれば、声をかけろ。着替えは引き出しの一番下に入っている。それと……そちらも、肋骨のギプスを外して間もないのだから、くれぐれも無茶はしないように」

 帰り際に言うだけ言った柊は、身を固くした教師をよそに退散してしまった。残った乾をじとりと見上げれば、視線がすいと逸らされる。

「……人には、無茶すんなって散々言うくせに」

――刹那。

 鼓膜をつん裂くアラートと、厚い床を圧して割るほどの揺れが、地上何十階に鎮座する屋内を突然に襲った。

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