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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
57/88

銘柄不明の香り物

 十センチに満たない高さ、五センチと少しの横幅、二センチ強の奥行き。中学までは難癖をつけられない程度に、高校では下の上、座学のカリキュラムが薄い大学でも人並みの七割しか生徒の本分に励まなかった身だからか、容器の黒地へ打たれた金の箔押し文字が解読できない。四辺の頂点から角をつけた線を親指でなぞって手に馴染ませていた男が、母音から始まる名前でこちらを呼ぶ。

「ちょっと出てくる」

「……なんで。この部屋で吸ってよ」

 病室が禁煙だからという一般の規範もあるのだろうが、彼が先生をしている間に生徒として見たことがあるのも、轍代わりの吸殻だけだった。いつしかそれすらなくなって、車中の灰皿は空になったから、男が細い円柱を噛む現場を目にしたことがない。

 ベッドの横に備え付けられた簡素な引き出しを開くと、サスペンスドラマなら凶器になれる素質を秘めた重いガラスの灰皿と、やけに軽いマッチの箱が入っていた。側面が赤茶にざらつくスリーブには、理科のスケッチのように途切れない線で描かれた鳥が羽を広げ、オーバル型の枠が背景へ添えられている。根負けした彼は、この部屋に窓がないことを気にしているようだったが、それくらいは空調がどうにでもしてくれるだろう。ライターの代役を担う紙箱を押しつけると、荷物がない方の掌でやんわりと受け止められた。開封済みの煙草の銀紙を人差し指で何度か叩き、飛び出した黒い筒をつまんで、軽く唇に挟む。吸い口は光沢のない黄金色で、本来の持ち主である狐塚にもさぞかし似合うことだろう。慣れた手つきで湿気ったマッチへ火をつけて、焦げつく赤みを先に灯せば、深い黒が淡い灰へとほどけていく。指を振って消した木の棒を灰皿へ捨ててしまうと、鳥の内臓は空洞になった。顔を背けて副流煙を吐き出す素振りがさまになっていて、感心するような心持ちで見つめる。

「一本ちょうだい」

 眉を寄せ、たった今挟み直したばかりのものを口から離した顔から察するに、快諾はとても得られそうにない。

「……体に障るぞ」

「それ、先に吸ってるセンセは言えない台詞っス」

 脇へよけられていた下賜をかすめ取り、見様見真似で中身を取り出して、明るい方の端を食む。

「ん」

 顎を突き出すと、彼は渋い表情のまま、燃えた痕跡をガラスへ落とした。重たげな瞬きを経由して、眼差しが結び直される。

「息、吸ってないと点かないからな」

「ンン」

 影が顔にかかるくらいは近いのかと思ったけれど、二本分の距離は案外遠い。予備のマッチも自前のライターもないために手向けられた、彼の口に端を収める吸いさしが、揃った縁取りにおが屑を詰めた新品の切り出しへ押しつけられる。おとがいに添えられた指と同じ強さで、す、と肺へ空気を送り込むと、紙の端が焦げるように燃えて、苦いのか甘いのか判別がつかない味の煙が舌の奥を舐った。伏した睫毛は存外長く、これほど間近で観察することはこれから先にないだろうと考えたところで、熱を移し終えた種火が離れていった。

「初めてか」

 人差し指と中指に避難させた一本が軽い。よくこの量を生めるものだと、咥内から逃げ出す靄の行方を眺めた。

「だって、高いんでしょ」

 平均単価すら不明な類似品は、祖父母の世代ではあらゆる場所で販売されていたらしい。現代においては紙煙草を路上で嗜む人もおらず、実物自体が珍しい、高級な絶滅危惧種。日雇いバイトや夜勤で食いつなぐ貧乏大学生には、尚のこと縁がない代物だ。溢れかけた滓を透明に積んで、灰皿の凹みに落下するよう肘を落ち着かせる。

「幻滅した? オレに」

 ちりちりと蟠る焔を眺めながら、壁の白に染みるだろう薄紫の線を送る。

「中絶だって、人殺しだ。本当のとこ生きてたとしても、オレがそれを選んだことは変わらない」

 巡と名乗る少年があの時の、と知ってなお、彼に同情することができない。申し訳なかったとは思えども、それは偽善からくる感想であることも十分に理解していて、自分はつくづく母には向いておらず、一生親にはなれないことだけを咀嚼した。子どもに罪はない。罪はなくても、愛せるかどうかは別なのだと、己を育てた女がいつも全身で叫んでいた。オレは、あれと似た部類の人間だった。ただ、それだけの話だ。

 目を閉じ、歯で軟く抑えた葉から燻る毒を呑んでいると、隣へと居を移した彼の手によって玩具が二本とも取り上げられ、潰される。

「どう伝えるべきか、ずっと考えていた」

 俯いて垂れた前髪を、香草を口から外した犯人の指が横に流す。心地よい重みが頭蓋骨の形を浅くなぞり、寝かしつけるような塩梅で、不意に肩口へと抱き寄せられた。

「お前のことは、今でも一番大事だよ。……最初は、妹だからってだけで、無条件に好きになったのかもしれない。けどな、過ごす時間が増えるうち、家族だからとか、血縁だとか、そういう野暮な理由を忘れることが増えた」

 広い背中に手を回せないまま、彼の告解へ耳を傾ける。

「子どもだと言い聞かせ続けたのは、俺が、兄妹関係に固執したからだ。守ってやれる大義名分、絶対に揺るがない、切れない繋がりに依存した」

 慎重に、強く、服越しの温度が一層近くなる。縋られた心臓に感化されてか、嫌悪はなかった。愛おしいのだと語る大きな掌が、夢のうちに訛った身体を支え、どれだけ身長が高くとも座ってしまえばただの女の体躯になる細さを抱いている。互いに、性の匂いはない。ああ、でもそれは、単なる結果論か。夫婦神に照らし合わせずとも、あるいはあったかもしれない道を、彼も、自分も、意識しないはずはなかった。

「ごめんな、重い兄貴で。お前自身をちゃんと見れるように、これから、頑張るから。……辛かった、な」

 低いはずの体温は泣きたくなるほど暖かく、滲みかけた眦をきつく堪え、水面が潤うのを諫める。こんなのって、反則だ。後出しじゃんけんほどずるいものはないのに、頷いてしまいそうになる。女慣れしてるなあ、と、茶々を入れようとした口が震えて、結局何も言えない。脆い檻に変わった掌は、青い髪の合間に差し入れられたままだ。

「巻き込まれたとは、思ってない。葵の決断をどうこう言うつもりも、その権利も。――ただ、傍にいることだけ、許してほしい」

 鼻腔をくすぐる匂いは懐かしく、昔に乗った助手席で覚えたそれに近い。香水はつける人によって香りが変わるというけれど、煙草でもあり得る話だったろうか。

 頬を預けて見遣ると、烏の濡れ羽色とまではいかないが、時折他の色彩にも照る黒髪が、彼の人柄と似つかわしいように感じられた。生真面目そうな第一印象は据え置きで、時間をかけて眺めていると、鮮やかな別の面も見えてくる。例えば、鼓動が早いことを指摘すると、半ば恨めしげに眉を下げるところとか。

「……小っ恥ずかしいんだよ。分かれ」

 表現の幼さが可笑しくて笑うと、教師、兼、兄もつられて、甘く緩くはにかんだ。

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