掌
砕くために必要だったのは、左右それぞれ一発ずつ。小指の爪ほどの大きさに押し固められた鉛で前方二つを撃ち抜いて、不定形の「彼」へと背を向ける。
「なはは、巧いもんだ」
朗らかに笑う、飄々とした狐塚の気配を捉えていられたのは、歩み寄った欠けのない鏡へ触れるまでだった。爪先が銀をくぐった途端、眩んだ光で目が細くなる。瞼をこじ開けようと試みると、獄卒らの声帯と比ぶべくもない幼いボーイソプラノが、直に脳へと流れ込んできた。巡のものでもない。心当たりを見失った持ち主への疑問は横へ置き、接続を試みる波へ主導権を明け渡してみれば、柔らかい鼓動が、音と光景が、身体へ馴染んでいく。
――これは、誰かの記憶と、想いだ。
甲高く、どこか脆い産声が、時計の矢印が天上で揃う合図のように響き渡る。
その日は、母の具合が朝から芳しくなかったことを気にかけすぎて、授業も塾も喧騒も、全てが後奏のさざ波としか受け取れなかった。いや、狭く限らず、臨月に入ってからずっとの話か。遡るのならば、それこそ「弟か妹ができる」と知った時から、ずっと。艷やかな黒髪に揃いの瞳、薄命な季節を駆ける桜花のごとく白い肌をした母親が身籠ってから暫く。少しずつ膨らむ腹部へ布越しに耳を添えることが、幼い日課になっていた。
「継司は良い子ね」
彼女譲りだと信じていた、自身の黒い前髪に、細い指が通される。小さな鼓動へと耳をそばだてると、決まって貴女はこう褒めた。
「生まれるの、楽しみ?」
「はい! きっと、たくさん好きになります」
「そう」
また、たおやかな掌が緩く頭を撫でていく。
「名前、あなたが決めていいのよ。きっと、その方が……この子も……」
寂しく微笑む一対の鏡面に、あどけない、年相応に未熟な男の子が映り込む。彼女が泣きそうな顔をする理由が分からずに、呼吸の合間が僅かに空いた。困り果てて、膨らみに沿わされた母の左手へ、竹刀を握って硬くなったたこが並ぶ小さな手を重ねる。薬指には、つれなく堅いプラチナが嵌っていた。
「継司は、いいこね」
確かに、その声は震えていたと思う。
臨月が過ぎ、早産でも難産でもなく「妹」は瞼を開いた。病院のガラス越しにみとめた十一歳年下の彼女は、大きな瞳には自分と同じ色合いを、くるくると癖がついた淡く短い髪には、高い青空の色を染み込ませていた。後者は父母とも己とも異なる彩りではあったけれど、特異な見目への嫌悪はなく、ただ純粋に、生まれた命の美しさに驚いたものだ。直に触れ合えるようになってからも、小さく儚く、愛しい存在と触れ合えることは子ども心に嬉しかった。胎内で育てられているうちに予想していた好意の度合いを上回って、少年は赤子へ、叶う限りの心を注いでいた。
母親は、約束通り彼に名前を選ばせた。厳格な父は、妊娠中の検査で「弟」ではないと分かった時点で「妹」にさしたる興味を向けなくなっていたからこそ、通った道理だ。花の名が短命に繋がるだなんて知らなくて、拙く、直感的な言葉を贈ると共に、一番多く彼女の名前を呼んだ。学校や塾、剣道の稽古の時間に、父の仕事の手伝いといった、部屋を離れなければいけない用事の一切が疎ましく感じられてしまうほど、俺はあの子に魅入っていたのだ。家に勤めている女中にまで細々と注文をつけて、実に面倒な子どもだったことだろう。
雨の夕暮れ、景色が暗く沈む頃。彼は十三歳に、彼女は生まれて二年過ぎとなる年だった。学校を終え、まっすぐ帰った子ども部屋に、愛しい幼子がいなくなっていたのは。
「葵」
夢が覚めて、少年の記憶が閉じる。こちらを凝視する大人の目、揺れる瞳孔を包む虹彩に、睫毛の影が揺蕩っていた。悲しんでいるのか、喜んでいるのか、はたまた信じられないのかが曖昧なひとみが、塩水で滲んでいる。脱力した自身の左手は、彼の一回り大きな掌に握られていた。冷たい手は温かい心のしるしだと、根拠のない言い伝えを思い出す体温に、自分が選んだ鏡を改めて認識する。
「ごめんね。センセ」
抉ってしまった傷は、さぞかし痛かったことだろう。
何事かを言おうとする彼を眼差しで制し、絡んだ視線の手綱を掴んだ。
「ケーベツ、されたくなくて……酷いこと言ったし、隠してた」
少年の面影が、目の前の彼と重なり、真実を悟る。幼い腕に抱えられた青髪の乳飲み子は、もしかすると自分かもしれないと、薄く予感してはいた。
「……なぁ。オレさ、アンタが兄貴だったらいいなって。思ったこと、あるんスよ」
笑わないでね、と告白した途端、眼鏡の向こうの目尻に溜まっていた水が溢れた。フレームで足止めしきれない分が頬を濡らし、繋いだままの手へ滴を垂らす。己のそれと同じ色の瞳が溶けてしまいそうで、はちみつかレモンの飴玉みたいだ。
「こうしてっと、センセの方が子どもみたい」
整髪料を通されていない頭部までもが、兄の雰囲気を幼くする手伝いをしている。どんな気持ちで、愛してくれていたのだろう。声を殺し、俯いて泣く彼を見つめたまま、かけられていない時計の針が進んでゆく。思えば、青い封筒が届いてからどころか、迂闊に男の部屋へ踏み入れたあの日から、落ち着いたひとときを自分に許していなかった気がする。常にどこかで焦っていて、特別ではないはずの暮らしもずさんになった。飲まなくてもいい酒を煽り、忘れたいはずの傷を抉った一人の夜は、両手の指で数えただけではとても足りない。変えられようもない過去を、唯一失望されたくない相手に隠すことばかりに心血を注ぐうちに、弱い自分を臆病な自分で追いやっていたのかもしれない。無理に明るく笑ってきた頬は、本意に反して硬くなった。
二人ぼっちでも、絡んだ指に降る慈雨が、太陽の代わりに優しく包み込んでくれるから、寂しくはない。久しく得られなかった穏やかな時間、無言の余白を彼と分かち合って生まれた感情が、どうかこの人へ伝わるようにと、重ねられた手を強く握り返した。




