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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
53/88

三叉路

 白いシーツに血がついた。


 ご丁寧に第一ボタンまで留められた男物の白シャツからは、夜明けの母がよく纏っていた、噎せかえる青っぽい残り香がした。酷い眩みと吐き気を堪えきれず、ベッドの端で胃の内容物をひっくり返す。どう動いても性器が捻れて痛んでは、太腿に白濁が細く伝っていく。腫れた目元がひりついて、枯れた涙に再生産の見込みはなかった。

 踏み出した先から力が抜けてゆく両足を引きずって玄関を覗くと、男の靴が欠けていた。壁につけた肩の摩擦が、全身へ様々につけられた痣と組み合わさり、薄皮の下で毛細血管がより一層広く裂けていく。

 そこから先は、記憶よりも映像の方が鮮明だ。捨てられていなかった服を着直し、ふらつきながら男の住処を抜け出て、中三で引っ越した自分だけの家へ戻り、気絶した。ブラックアウト直前に一瞬だけ見えた日めくりのカレンダーが示していたのは、夏休みが始まってすぐの頃。携帯端末を鳴らし続けていた男からの電話は数日後には途絶え、さらに三日後には連絡網で副担任が事故で死んだと全校生徒に回り、一ヶ月が過ぎた長期休暇の最後の朝、堪えきれずにまた吐いた。札ひとひらで釣りが出る妊娠検査薬が示した結果は、陽性。悪阻だった。

 上映が終わり、鏡が崩れる。砂になって消えた向こう側には、幼い昔から部屋で見たペット代わりの塊が転がっていた。背景を歪ませる小さなそれは、ぶくぶくと泡立つように形を変えて育ちゆき、人のシルエットを模してみせる。

「そして君は、中絶手術を受けた。貴女を好いていた、黄金色の髪をもつ友人に、腹の子の父親は自分だと名乗らせて、合意書へ署名させた」

 第一関節から先は、未だに氷漬けのままだ。蠢く人型から発された音の成分には、複数の声が入り混じっている。雑な聞き分けの限り、地獄現世支部の古参局員でそれは構成されているようだった。

「……書くと言ってきたのは、部長だ」

「申し出を断る権利が、きみにはあった。もちろん、頼みの綱として相談された少年の側にも、放棄する自由があった。僕が話したいのはそこじゃない」

 高いヒール特有の硬い音が、黒の人型がこちらへ近づく度に反響する。つい先程まで投影台になっていた板よりも短い距離まで詰められて、溶岩の亜種のようなそれは立ち止まった。

「お嬢ちゃんが薄々勘付いている通り、ここは夢の中、自意識の世界だ。現実の猫間は、乾の催眠によって昏睡状態にある」

 腕らしき部分を身体の軸から離しながら、暗闇は続ける。

「そして、きみが起きるかどうかは、君自身が選択するよう、わたしたちは彼と交渉を終えたんだ」

 くん、と翻った手の先、三叉路のように鏡が浮かぶ。どれもが最初に通ったような姿見ほどの背丈で、三つのうち二つは「彼」の斜め向こう側に、もう一つはオレの背中側にそびえ、正三角形の頂点にあたるよう配置されていた。

「おまえには今、いくつかの選択肢が与えられている」

 向かって右奥の鏡を手で示しながら、顔のないそれは言う。

「一つは、幸せな夢の中を延々と過ごすこと。おまえさんが生きてきた限り最も幸福で穏やかな、中学校の三年間を、変わらない仲間と共に繰り返すんだ」

 次に指されたのは左奥。温度の感じられない口上が、淡々と連なってゆく。

「二つ目は、絶望の記憶に苛まれ続けること。自分を責めるのも、相手を恨み続けるでも、きみの自由にすればいい。浸りたいだけ存分に、悲しみに埋もれていられる」

 最後に、と言いながら、不出来なマネキンはこちらの中心を指差し射抜くようにして、背後の鏡を指差す。

「三つ目は、起きて現実に戻ること。お嬢ちゃんが必死に隠したがった過去をセンセイ様は知っていて、堕ろしたはずの赤子が噛みついてくる……そんな現実に、な」

 それぞれの道を、紹介を受けた順番に見渡す。装飾のない切りっぱなしの銀には、誰の姿も投影されていない。いつの間にか、実物の拳銃が両手に握られている。

「その銃で、決めた道以外の鏡を撃ち抜くんだ。どれを選んでも、ぼくたちも、彼も、誰だってきみを責められはしない」

 心なしか和らいだ声で、それは言う。鏡と語り手を除けば、周囲は相変わらず真っ黒な、墨で何度も塗り固められたかのような、静かな世界だ。伝えるべき説明が終わったのか、輪郭が定まりきらない「彼」までもが静かになった。

「……もし、眠り続けることを選んだら、もうセンセには会えないんスか?」

「夢の中でも、夢の中なりに、いくらでも会えるさ」

 呟くように投げた質問の解答に、うん、と唸るように返した気がする。幸い、自分の海馬には、底無し沼のように考え続けられるだけの、上等な回路は組まれていなかった。それでも、それなりに長い時をかけてから、ようやく、目隠しをして振ったサイコロの目を勘で当てるほどの、賭けじみた結論が弾かれる。

「そっか」

 そうか。繰り返して、まだ指の先端が冷たい腕を、地面と水平に持ち上げる。限られた幅の引き金へ指をかけ、関節たちに力を込めれば、狭い銃口は鈍い藍の弾丸を押し出した。

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