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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
52/88

青の肉

 似ていたのは、口調と背丈。違ったのは、瞳の色、視力、髪型、白衣、腕時計、靴、煙草の匂い、声、その他多数。振り返ってみれば、ありふれた彼を目で追ったのは、大人ぶって了承した中学の担任との別れを本心では認めたくなくて、代用品を探していたに過ぎないとすぐに分かる。異なる部分の多さは見ないふりをして、誰かに甘えていたかった十五の年をくれてやるには間違った相手の袖を引く、愚かな若さを諌められるだけの成熟に至っていたのなら、どんなにか。

 振り返った男は優しかった。生徒との関わりが薄くなりがちな副担任という座につきながら、受け持ったクラスの世話をよくし、特に女子から慕われていた。ふとした折に根拠のない違和感を得たこともあったけれど、誤差の範囲と自分を納得させているうちに、ぬるま湯に浸された暦が休みも知らずに過ぎていく。授業が始まる前の教室や、大した用事もなく寄った職員室で、暇があればあっただけ話していたと思う。自ら関わりに行った分、他の生徒よりも距離が近くなったある日のこと、進路について話を聞きたいから家においでと誘われた。少し前までセンセの自宅に入り浸っていたオレは、特段深くは考えずに、いともたやすく首を縦に振ったのだった。

「バタフライピー、って知ってるか」

 待ち合わせをして迎え入れられた部屋は、扉が厚く、やけに物が少なかった。通されたダイニングキッチンには、白のテーブルと椅子、最低限の調理器具が詰め込まれた筒状のケースが流し場の傍にあるくらいで、殺風景と表現されるべきレイアウトだ。かつての教師も家具が多い方ではなかったが、本棚や竹刀といった趣味の窺える物品が用意されている様子からは、一人暮らしの気楽さを感じられたものである。

「え……昆虫の習性か何か?」

 広めな空間だからこそ、空間の余白がよく目立つ。廊下の両側に備えられた扉のうち、どれかが彼の寝室であるのだろう。会話相手に視線を戻せば、穏やかな微笑みが返された。

「少し変わった紅茶だよ。青い飲み物に抵抗がなければ、それを出そうと思ってな」

「別に、構わねーっスよ」

「了解」

 冷蔵庫から取り出されたガラス製のポットには、オーシャンブルーの冴えた色彩が波打っている。組らしい同じ材質のコップへと薄青が注がれていく様子は、夢のような非日常だ。涼やかな液体は容器に露を飾り、自重に負けた水が机に垂れていく。ちょうどその日は、じっとしているだけでも汗をかくほど外が暑く、加えて経路は徒歩、空調は効きが悪いといった有様で、とにかく喉が乾いていた。掴んだコップの冷たさをこれ幸いとして、揺らめく透明な膜が模様を作る鏡の縁取りへと唇をつけ、指折り数えるまでもなく一息に、差し出された一杯を体内へ流し込んだ。

 すると、どうか。

 液体の温度とはそぐわない焼ける熱さが、開いた食道を駆け下っていく。眼球の裏が引きつり、反射で行われた咳で耳の奥が鈍く痛む。混乱したまま咽せていると、人の体温がおもむろに近寄って、緩やかに背中をさすり始めた。

「なに、ッ、これ……っ」

「かわいそうに。肺に紛れたのか」

 聞きたいのはそれじゃないと否定するにも、空咳ばかりで言葉が切れる。視界が歪み、焦点が定まらず、思考が鈍っていく。押し込められていた警報が盛大に脳髄を揺らしているというのに、手遅れを正すための余裕はとうに失われていた。

 あの飲料は、無色の酒へ睡眠薬を混ぜたものだったのだと、いくらかアルコールを嗜むようになった二十歳過ぎの今なら理解できる。バタフライピーは実在する青色の紅茶だが、間違っても喉を焼くはずはない代物だ。また、市販の睡眠薬には、水へ溶かせばたちまちに液体が青くなるという、特殊な加工が施されている。簡単な話、未成年の女子が男に一服盛られたのだった。彼は、自分を生徒としては見ていなかった。決行場所に自宅を選ばれたからには、もうここは密室だ。

 映し出された像が、眼球を覆う皮膚の幕で暗くなっていく。布擦れに、ドアノブが下げられる音と、肉塊がクッションに投げ出される軋み。朦朧とする意識の合間で、女としての機能を求められ、組み敷かれた事実を、鏡を見るまでもなく思い出す。強張る指先が冷たくて、硬く握ったはずのそれら全てが、折り曲げられているのかすら自信がなかった。

 無遠慮に這う体温が、身体へ侵食してくる。忘れようとしてきたこの感覚は、きっと薬物の後遺症と似ていた。頭にノイズが走り、呼吸が浅くなる。誰より信頼した、几帳面で、白衣と眼鏡がトレードマークの、本心から優しく接してくれた彼を呼ぼうにも、呼ぶために必要な名前が喉から先に出てこない。弛緩した腕での抵抗は鼻で笑われ、恐怖が怒りとないまぜになり、眠気に全てが上塗りされていく。頬を濡らしたのは、微睡む瞳から溢れた塩水だった。

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