鏡と瞬き
「……は?」
物騒にカラフルな断片の左下を右下へ移した瞬きのうちに、自らを取り巻く世界が黒に沈んだ。星も喧騒も、布擦れの音すらしない宇宙じみた空間は、それでも空気や酸素やらはあるのか、身体を軋ませる圧力も、酸素不足に肺が喘ぐこともない。手にとっていたはずの本は、異界に招かれるためのチケットだったとでもいうのか、いつの間にか軽やかに消えていた。
悪夢で飛び起きた朝のように早鐘を打つ心臓が治まらないうちに、正面へ身の丈ほどの姿見が浮かび上がる。その鏡面に映った自分は、身につけているはずの学校の制服を着ておらず、ネクタイだけが青い喪服のようなスーツ姿で、身長も今より高い。ほとんどの身振り手振りはシンクロするものの、相貌は大人の組み方に近い彼女の両手には、拳銃が片手に一つずつ、合わせて二丁握られていて、手首から先はこちらの指の動きと同期しない。女の頬に差し伸べた指先が堅い板に触れた瞬間に、鏡と空気とを隔てていた境界はなくなり、すっぽりと全身が呑み込まれてしまった。戸惑うばかりの心中とは裏腹に、皮膚に伝わる液状の鏡の感触は、温くなった学校のプールを思い出させた。
水面を超えた向こう側には、先ほどまで佇んでいた場所へ、大小様々な鏡が散りばめられたような空間になっていた。変わった趣味の映画館で銀のモニターに投影されているのは、浪費し続け、他愛無く不幸せであるはずだった日々達だ。自分の両眼から捉えたままの、見覚えのある毎日。髪を切ってひらけた視界の変化までそのままに振り返るそれらは、さながらプロジェクターのようだった。
時が流れる。遡り、巻き戻って、あの夕暮れからまた巡る。終わらないループのために切り取られた期間は、中学校生活の三年間だ。不自然なほど穏やかだった月日を懐って、そうか、と、そうだったのだと、先刻まで浸かっていた温もりは、過去を辿っていたに過ぎないのだと――限りなく幸せな、抗いがたい時間の輪廻で、ひとり、微睡んでいたのだと、気付く。手首で縫い返される布端は、もはや学生服の紺の袖口ではなく、白に黒を重ねたスーツの袖口だった。
点々と浮かぶ鏡の一片へ触れた途端、それら全ての平面がさらさらと滑らかに崩れていく。ミリ単位ほどに細かくなった無数の残骸は、自身の目と鼻と先にざらざらと集まってきて、最後には一つの大きく歪な鏡を造り上げた。断面の荒い、縁で手を切ってしまいそうな輪郭が出来上がる頃には、他のピースは消費され尽くし、重苦しい鈍色のオブジェが思うままに両腕をのばしている。
フィルムが、回り始める。最初は朧に、次第に鮮明になっていく実像が選んだ記憶が、大型の鏡を好き勝手に染めていく。色付いていく映像に、脂汗が滲む。耳をきつく塞ぎ、硬く瞼を瞑ってくれと願いながら、見開き、向き合わなければいけないとも理性が叫ぶ。アンタは、そうして逃げた先の結果を目の当たりにしたばかりだろう、と。どこからともなく脳に響く背後からの囁きは、他の誰でもない、自分自身による冷ややかな監視だった。
上映されているのは、中学卒業後、僅かな休みをおいて高校生になった頃だ。晴れた朝に登校した入学式、クラス分け、そして、ほんの少しだけセンセに似た雰囲気を装っていた副担任。朗らかに、どこか疲れたように笑う様子を見ても、もう好ましく思えはしない。当時の自分が彼を目で追っているのが映像から分かってしまって、どうしようもなく泣きたくなる。己の人生のうち、最も強く忌み、忘れようとし続けてきた瞬間が非情に歩み寄る足音と警報を、鼓膜の奥でけたたましく聞きながら、馬鹿な自分の過去を眺めた。




