ハードカバーと沈黙
既視感は、予知夢を通して得られるのだろう神秘の波長よりも、生の身体として記憶した実の経験に近かった。指先が微かに痺れ、言葉をひととき失う場面に出くわしたのは、少年の涙を目撃したあの日だけに限られておらず、時折、前触れもなく、流水を頭からかけられたように体が硬直する。怠くはないからと出席した授業の内容、不意に見上げた夕暮れ、自重でずれたヘアピンの位置を直す午後のぬかるみに、同い年の剣道部員とする他愛のない会話と、馴染みの教師からの小言。気付いた素振りを見せなければ訝しむ人は誰もいないので、数秒かかる体感時間とは反して、本当に刹那の停滞なのだと思う。自室に住み着いた歪みだけは、発作じみた一時停止の後にもしばらく、瞳もないのにこちらを見つめているような気がした。猫のようだなと誰かが後ろから囁いて、振り返った先には壁しかなかった。
らしくもないことに物耽っている自分に気付き、かぶりを振る。どうやら、今眠るには目覚めすぎているらしい。かと言って、寒さに身を任せて堂々巡りの思考で遊ぶには答えが遠すぎると判断して、クッション性が皆無な椅子から立ち上がり、標本の瓶と肩を並べる本の軍列に近寄った。すると、薄めの文庫達の中に珍しく、倍ほどの厚さがあるハードカバーが一冊紛れているではないか。暗い極彩色の背表紙に刻まれた、少々古ぼけた本のタイトルは『死なない方法』で、引き抜いた表紙には黒がちの赤や青が全面へ重く塗られており、無骨な明朝体の白題がよく目立つ。作者の名前が背にも、表紙にも、巻末にさえ載っていないのが奇妙ではあったが、元の位置に戻す理由にはならなかった。机に四六判を置き、建付けの悪い木枠の棚を閉じたタイミングで、部屋の管理者たるアンダーリムの彼が、廊下に面した扉を経由して入ってくる。
「ここにいたのか」
手首の時計に視線を落とし、手招きされる。訝しむと、数人分は離れた距離を保ったまま、次の時間は理科の試験だと教えられた。テストだけはどれだけ気分が乗らなくても教室で受けた方が色々と都合が良いらしく、オレが忘れていた時には、こうして生真面目な迎えがくる。不正を疑われて損を被るのは、生徒と教師の両方ということなのだろう。
「ちょっと待って」
移動させたばかりの本を鞄に収めて、気持ち駆け足で近寄る。彼の顔が、入学してすぐの頃より近くにあるのは、自分の身長がまだ伸びているからだ。足のサイズが大きい人間は背もそれに見合う丈になるというのは、迷信ではないらしい。
「どの本が気になったんだ?」
死なない方法。
あまりにもストレートすぎて、健康的ではない文字列が、色の暴力の中で組み立てたタイトルを思い返せば返すほど、脳に仕込まれた栓が外れかかるような、覚えがないはずのしこりが存在を主張する。傍らの教員に向かってその題目を口にしようとしたちょうどに、終業と共に次の枠を急かす予鈴が、まだ人気のない校舎の廊下へ響き渡る。どちらからともなく音楽が終わるまで口をつぐんだ沈黙を、咎める影はどこにもない。職員室と階段の交差点に辿り着く頃に、ようやく放送の余韻が鎮まった。
「まあ、読み終わったら、棚に戻しとくっスよ」
「そうだな。そうしてくれ」
昔はその足場に段差が一つあったという、平たい床の上に鎮座する教壇。水平の高みからカンニングを見張る教師に借りた本を再び手に取ったのは、定期考査を終え、放課後の部活へほどほどに滞在し、徒歩で帰宅してからのことだった。アルバイトのシフトも入っていない、当然、母親も帰ってこない外の景色は、冬らしく早い夜を迎えていた。濁った二酸化炭素は、学校で吐いた息と本当に等しい成分で構成されているのだろうか。持て余した思索へ嘆息すると、これも不透明な色となり、瞬きのうちに溶けていく。
鳥もクラクションも鳴かない、海の底のような部屋でただ一人。寝床の上に横たえられた、理科準備室の冷たさを芯に残す古本の表紙へ、暇の慰みにと指をかけた。




