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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
48/88

点滴問答

 鳥の囀りも届かない空調のきいた密室で、湿度の高い沈黙がわだかまる。返答を滞らせてしばらく、薄い溜め息をついた春は、名前に似合った淡いリップグロスで色付けた口元を動かし、耳触りのいい落ち着いた声で音を紡いだ。

「女性が化生に変わるのは、望んだ愛情や信頼を注がれなかった時とされています。イザナミが本当に悪しき存在と確定したのも、イザナギが約束を破ってその姿を見た瞬間。他の有名どころは……そうですね、安珍清姫伝説はご存知でしょうか」

 首肯も拒絶もせず、独り言じみた調子で投げかけてくる語り部を受け入れる。遅い瞬きを重ねつつ、脳内図書館で所蔵品をカウンターの奥側から探せば、箱型のケースへ個別に収められた古典全集のうち、『今昔物語集』が収録された一冊を苦労なく掴めた。だんまりの聴講者は、ひとりでに始まった授業へ耳を傾けながら、かつて実家の書庫で初読を済ませた手元の古紙をたぐる。スーツからすげ替えられた病人服は、無防備な肌を柔らかに舐めていた。

 鬼の代表として有名な般若面は、女から鬼に変わっていく途中の段階が彫り出されたものです。完全に変化した後は、真蛇という別の面に。蛇女といえば、そう、清姫ですよね。彼女は、恋焦がれた男に無理な約束を押し付け、嘘をつかれ、裏切られたがために蛇となり、最後は相手を焼き殺す。素直でわがままな……という枠からはいささか外れるものの、純粋な少女であったことは間違いありません。

 能面には他にも、般若の前段階ともいえる生成、男の心変わりを金色で塗られた瞳で見据える泥眼、枯れた愛情に思い乱れた果ての橋姫といった、女性と異界を近くに定めた作品が多くあります。婦女子を示す面を仕掛けで操作し、鬼のそれへと切り替える特別なトリックも醍醐味の一つ。また、能面での山姥は、四季を愛でつつ深い山を巡遊する女の霊魂だとされます。異界の住民となった彼女たちは、人でいられなくなってなお、物語に彩りを添えているのです。

 このような女性に対して男性は、能に限らず、鬼や化け物になる話がそもそも多く伝わっていません。裏切られ、正気を失うのは、常に女の役目とされてきました。

「けれど、男性が化け物になる例が全くないわけではありませんよ」

 彼女はそこでおもむろに扉を見遣り、足音のない廊下へ耳を澄ませた。数秒を待ってみても、革靴の踵が床へぶつかる気配は呼び起こされず、年下の先達は淑やかに瞼を下ろす。瞳の中央に据えられた彩りは、生物学上、天然のものであれば一握りの人口しか持ち得ない菫色だ。自前のヘーゼルカラーよりも格段に珍しい虹彩は、今、蓋をするための肉に隙なく覆われている。

「殿方が鬼となる、極めて稀な条件は、最愛を喪うこと」

 彼女の吐息を合図として、再び眼が開かれた。

 唯一を失った強い自責が、変わらない己の命の在り方を拒んでしまうからです。柊さんは、その実例ですよ。大層仲睦まじかった奥様を突然亡くし、怨恨と後悔で鬼に変わった結果、あの方は昔の記憶を少しずつ忘れていっておられます。人でいられなくなるということは、人であった軌跡を捨てるということですから……いずれは、……ご夫婦の思い出も、全て。

「あなたは、神、イザナギの一部を魂に宿していますね。鬼は時に神とされ、神社に祭り上げられることがあります。加えて、猫間さんとの関係性を血で表した時に兄となる点までもが、イザナギ、イザナミと同じ。恐らく、ご自身で推し量られているだろう度合い以上に、常人よりも異界に惹かれやすい、危険な方なんです」

 問い質す視線が、瞳孔を貫く。今度こそ、白紙の答案は認められないと、雄弁すぎるほどに眼差しが語っていた。

「唯一を、棄てることになるんですよ」

「構わない」

 久しく訪れていなかった無言が、床のほど近くでたわむ。

「辛い思いをさせたまま生かすくらいなら、眠らせてやるべきだ」

「……猫間さんは、それを聞いて、微笑まれるような方なんですか?」

 夏の屋外だったら間を持たせてくれたであろう蝉は、この部屋に来てくれない。木枯らしが風に揺れようもない密室では、どの季節が訪れているのか忘れてしまう。

 マットブラウンの長髪が、狭い肩より前に垂れる。後頭部につけた結い金具、斑点の少ない楕円型の鼈甲が、目線の並行からやや下側に姿を表した。

「お願いします。あなたがまだ彼女を、彼女自身を大切に思っているのなら、勝手に終わらせないであげて下さい」

 これまでのどれよりも深海の溝に近い森閑が、病室を支配する。秒針の代わりに、心臓が血液を押し出して作る音が、どくり、どくり、と生温く続いた。

「……どうして、そうまでして俺たちに構う」

 我慢比べじみた応酬の先で話題を変えたのは、我ながら卑怯だと思う。嫌味な返しをされた元局員は、なおも怒らず、眉根を下げながらはにかんだ。

「話すのが初めてでも、後輩ですもの。脆い人間同士、過ぎたお節介も、時には必要。甘かろうと厳しかろうと、私は、そう考えています」

 誰かに愛された自信がある者だけが浮かべる、穏やかな表情だった。薬指に通された銀の輪の裏打ちとするには、掌から溢れる釣りが出るほどの。


 面会用の椅子に座った相手が去り、一人になった白の部屋では、プラスチックにつめられた透明な輸液の残りが随分減っている。目覚めないあの子に催眠をかけたのが俺だということを、既にこの組織の誰もが分かっている。分かった上で、張本人に決断を迫っている。


『……猫間さんは、それを聞いて、微笑まれるような方なんですか?』


 虚をつかれて、声が出なかった。出さなかったのではなく、出なかった。自分自身の反応に、それこそが目を逸らし続けてきた事実だと、突きつけられてしまった。

 内包する体温が一人分になった室内に、差し入れのような顔で書類の束が残されている。時節のひと欠片を名乗った彼女が残していったのであろう、ベッドサイドテーブルの置き土産へ手をかけると、赤の印字が表紙に施されたコピー用紙は、質量よりもずっと重く感じられた。

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