遊ぶ湯気と温度
車の助手席に座らされ、待っていろと閉じられた厚い板の内側に据えられた手元の凹凸は、夜で自然に冷えていた。狭い空間の中で堂々巡りをしていたらしい、煙草の匂いが薄く染み付いた温度に、寒さは感じない。ガラス窓の外、サイドミラーからだと左右が反転して見える彼は、後部座席のドアに腰の辺りを任せた姿勢で携帯端末を数度叩き、どこかの誰かと遠隔で話している。
三ヶ所ほどに電話をかけたやり取りの全ては短く、最後に至っては相手が留守だったようで、機械へ近付けた唇が動くことなく呼び出しは終了した。息をつき、胸元へ端末を収めたところで、小さな鏡越しに目が合う。男性は一度視界から消え、右隣の運転席に乗り込んできた。
「保護者に連絡が取れないんだが、家にはいるのか」
エンジンのかかった車内へ浮かび上がるディスプレイの印字によると、同居人の帰宅までは短針にあと七ほど足し算を強いる必要がある。合皮の背もたれへ上半身を預けたら、かけた体重の分、縁に短く濃い皺が増えた。軋み、虫の死にぎわめいた音で鳴く。
「……いない。もっと、遅くじゃないと」
深夜の歓楽街には、粒の名前を知らない鱗粉がふんだんに散りばめられている。夜の蝶と形容され、親しまれ、嘲られる女が濡れて落としたそれらには、マスカラやスパンコールのみには留まらず、果てには廃棄物まで混ぜ込められている気がして、自分の中で美しさと結びつかなくなったのは、いつ頃からだったか。
上唇の下を息が通る。前方に据え付けられた細長い鏡の角度が調節される様子を、瞬きの合間に挟まれるパラパラ漫画のような心地で捉えていた。
「なら、少し寄り道をしよう」
バックミラーから手を離しつつ事もなげに言った運転手は、片手で器用に安全ピンを外し、校名が掲げられた腕章をてきぱきと左腕から抜いて、ペットボトルを置くために用意された車の凹みへ詰めた。
「は?」
「出すぞ。ベルト締めろ」
どうやら、彼を真面目の擬人化だと思い込んでいた認識を改める余地があるようだ。後部座席から掴み上げて渡された、薄手で軽いモッズコートの前を閉めると、毛布に包まれたようで具合がいい。横目で見たことしかなかった全国チェーンの喫茶店で、どれでもいいと言ったら注文されたサンドイッチの具が多くて、ケーキに飾られた苺の蜜は甘くて舌が痺れて、熱いカフェオレには砂糖を入れ忘れたけれど、不思議にちょうどよかった。急かされない食事を終えると、再び四輪の助手席へと収納される。ハンドルを握る彼が、白を混ぜないコーヒーを傾けた正面の席から見えただろう景色に空想の食指を差し向けようとしても、満たされた胃と、荒さの塩梅が優れた舗装が成す揺れが、瞼を開いたままにはさせてくれない。起きられずとも構わないと寝惚けた考えをしていたからか、宣言通り安全に家まで送られた先、毛布代わりのカーキ色を着たままだったと、敷きっぱなしの布団に横たわる前まで忘れていた。
「学校、無理する必要はないからな。来たくなったらおいで」
……変な奴。
落ち着いた声で、かけられたことのない言葉を重ねて、彼にどんな得が生じるというのか。訓導者として、年下を赦すことが仕事なのだろうか。それにしては偽善のてらいがない、最後に付け足された「おやすみ」の意味を宙に浮かべて堂々巡りをするうち、自分にしては珍しく、朝になるまでが一瞬の、穏やかな夜が訪れた。




