忍ぶ宵につむじ風
「ここで寝るには寒いぞ。ほら」
呆然、掌を上にして差し出された腕の意図を掴みかねて、彼の瞳に釘付けになる。軽く煽られた大きな手に、自分のそれを重ねるよう指示されているのだと気付くまで、たっぷり十秒はかかったのではないだろうか。辛うじて右手を浮かばせたものの、嘘のような光景に面食らい、目の前に作られた受け皿にすら触れられないのが情けない。諦めて下げようとした手首は、一定の距離を保っていたはずの彼によって不意に掴まれ、遅い瞬きの後にはもう一方の手でも支えられて、自分が地面と接しているパーツは、あっという間に靴裏だけとなっていた。よろめいた拍子に彼の身体へぶつかると、ほどなくして二本の足は自我を取り戻した。履き潰したスニーカーを、勢い余って踏んだ革靴から千鳥足で離した。一瞬だけ混ざりかけた温もりを、心地いいと思った。
「もう夜になる」
彼の左腕は、太い腕章へゴシックを載せた柔い輪の中心を貫いている。こちらに向いている数文字から推し量れる全体の文字列が正しければ、そこには己が今日から通うはずだった中学校の正式名称が貼り付けられているようだった。
「……学校なら、気ィ向いたら行くよ」
「欠席日数の話なんてしてないだろう」
確かに、初日から連絡がとれない受け持ちの生徒を探していたのは認めるけどな、と、半身に体重をかけて口端に笑みを浮かべた相手が立ち去る様子は見られない。
「歩きながら話そう。本当に暗くなってきた」
示された通り、少し前までは煌々と空を燃やしていた夕焼けは、既に銀河の星へと主役の座を明け渡し、紺の空気が地平線の裾野から夜を手招きしていた。
「一人でいい」
「いいわけあるか。季節の変わり目は不審者も多いんだ、車で送る」
声変わりをしてから長いと察せられる声は低すぎない高さで、冷えた風に乗って透き通り、だらしなく長い青髪に隠れた耳の鼓膜を震わせる。二十代そこらに見える青年の吐く息は、ごく淡い白から透明へと変化する。
どう応えたものかと考えて、拒む理由も大してないことに気付く。家に帰りたくはないけれど、これは今日に始まった話ではなかったし、とっくに体も疲れていた。勝手に動く鉄塊に乗せられて、どこへ行くでも構わない。例えば、彼こそが不審者である可能性もゼロではないし、都合よく移動させられた先で殺されてしまうかもしれない。
それでも、まあ、どうだっていい。
折り返す方角へ身体を向けて示す男性に従い、爪先の角度を定めると、自分のそれとは対照的に垂れがちな目元が緩んだ。
「お前の担任になった、忽那継司だ。専門は理科。放課後は剣道部の顧問をしている」
くつなけいじ。珍しい苗字だ、という感想が真っ先に浮かんだ。次いで、フルネームを教えられたはいいものの、人を名前で呼んだことがほとんどない己の経験上、その固有名詞を使って彼を呼ぶことはまずないだろうとも予想する。火急の用ができたら、教師という生き物であることだし、適当に「先生」とでも口に出せば振り返ってくれるだろう。
「……あおい。青天目、葵」
先程、受け持ちの生徒がなんだと宣っていたから、分かった上ではあろうけれど。さして聞かせる風でもなく自分の名前を呟くと、不意につむじ風が強く吹いて、忍び寄る月を割いた空気が草笛にも似た音を奏でる。
「ああ、知っている」
空へ雲がはしり、向かい合った相貌の細部が隠れる。夜の始まりを告げる放送がかかり、街灯へ電気が通されて、その先端で七色の翼を休めていた烏が飛んだ。人工の光にぱっと浮かび上がった顔つきは、生真面目そうだという印象を第一に与えるものからぶれがない。
「担任だからな。名前と顔くらい覚えるさ」
教師はそこで読点付けて視線を外し、灯りが多い道の方角を正面として定めた。




