記憶と過去と微睡と
母親が手を振り上げるのは、決まってオレが眠っている夜遅くだった。
安物の布団越しの拳は、綿にほとんど衝撃を吸われずに発展途上の身体へ響く。みぞおちに入って声が漏れると、次に殴る拍が僅かに遅れる。しかし、それだけで思い止まってくれるはずもなく、女の声とは思えない呻きと共に、かえって加虐はエスカレートするばかりだった。制止を求めず、嗚咽も漏らさず、臓腑の奥からのぼせ上がってくるやりきれなさと、恐らくは寂しさだったものを抱いて愚直に朝を待つようになるまでに、さほど時間はかからなかった。日ごと見つける度に少しずつ大きくなる、部屋の隅に蹲る歪んだ存在だけが、家の中で静かに息づいていた。
翌朝、おざなりに布団の脇へ投げられている服に、半袖があったことはない。赤や紫、青のまだらを他人に見られまいとしてか、下半身の装いにもハーフパンツやスカートはついぞなかった。黙って朝食を用意し、彼女はまるでこちらが見えないかのように家を出ていく。そして日が更けて、煙草にアルコールに香水、埃と人間の濃い臭いを全身に纏わせて、くまの深い眼で寝具越しのサンドバッグを痛めつけるのが、女の習慣だった。時折、寝床で彼女がすすり泣く日には、涙の合間に「コトツグ」という知らぬ男の名を呼び、次いで「殺してやる」「死んでしまえ」、挙げ句の果てには「愛している」と喚くのだった。
成長期の睡眠は、身体に大切な養分を蓄える時間なのだと保険の時間に教わった。けれども、ろくに眠れぬ歳月の中にあった少女の背丈は、そんな常識は自分に関係ないと言わんばかりに、同年代の平均身長をゆうに超えてしまった。成長痛もあった気がするが、暴力か騒音かの毎夜を重ねることの方が遥かに息苦しかったため、あまり意識することはなかった。次第に眠れなくなっていくのが分かったが、ついに小学校を卒業するまで、隣室の住民、学び舎の同輩、定期検診で晒した腹部に痣を見たはずの保険医すら、自分と視線を合わせようとはしなかった。
(眠い)
けれど、眠れない。
小学校高学年に上がる頃には、すれ違う中高生とも遜色のない体躯になっていた。ちょうど、うだる暑さの夏の日に、おまえの目は「コトツグ」に似てきた、と呟いた女が首を絞めてきたことは覚えている。これが、女の腕をはじめて振り解いた、この頃の自身にしては珍しく幸福な出来事だったからだ。
だが、成長が足しになったエピソードはあるか、と尋ねられて思い浮かぶものは、それ以外にはあまりない。初経の情けなさには怒りが湧いたし、周囲ではまずいなかった青髪という特徴も重なってか、横目に見てくる他人の視線は、どれも見世物を楽しんでいるかのようだった。忌み嫌う存在と近くなっていく身体への恐怖は、女から殴られることが減った夜の静寂を冴え渡らせる。当時の母の年齢はよく覚えていないが、纏った雰囲気は実年齢よりもずっと上らしくて、老婆じみた空気を背に負っていた気がする。
(……眠い)
どうせ眠れないのならば、どこか自分も知らない場所で、夜を明かしてみたい。淡い希望とも欲ともつかないまやかしが襲った十二歳の四月に、初めて袖を通した制服を着たまま足を向けたのは、入学式が行われる中学校の体育館ではなく、道中に見付けた分かれ道の迷路だった。どこに辿り着きたいわけでもない遊歩は存外面白く、脚が疲れたと思った時分には、世界の色は橙に染め上げられていた。コンクリートの道に散った桜が、車に轢かれて潰れて濁る。
(もう、ずいぶん、眠い)
道端に座り、目を閉じる。緩やかに冷たくなる風が頬や手指に心地よく、このまま朝まで過ごそうと決めた、ちょうどその時だった。
「おい、起きてるか」
眠るために蹲った肩を揺すったのは、生真面目そうな黒髪で、目元に眼鏡をかけた男性だった。




