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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
41/88

切り分けられた果実

 スイッチ一つで切り替わる壁面の明るい不透明さは、眩しく熱い夏の太陽が、舞い上がった塵芥で陰る素振りにも似ている。革製のパンプス、そのラウンドトゥからこっそり抜かれた両足が、人工の物陰で指を伸ばした。

 リンネルの上、日光が届かない病床へと二人を担いで運んだのは、白衣の下に恵まれた体躯をもつ柊だと聞いた。簡単な触診の後、猫間は別な個室へと運び込まれたため、この室内には存在しない。東堂宛の言付けを預かって足を踏み入れた偶然に、新人たちの事後処理が重なった元部下の私は、あれよあれよという間に、うち片方の寝ずの守りとしてあてがわれた。細い長方形のレンズが几帳面なアンダーリムは、ベッド横の棚の上で逆さまに置かれている。

「東堂さんはお休みで、加えて新人さんお二方もとは……うーん……」

 運がいいとは言えない今日は、朝の星座占いでも見ておくべきだったか。彼の黒髪の隙間からのぞく白は、頭蓋骨こそ割ってはいなかったものの、出血が多かった裂傷の手当てに用いられたガーゼの色だ。手際よく傷口に針と糸を通していった医者の手腕には唸ることしかできなかったが、当人の意識がないことをよしとして、麻酔もせずに道具を並べ始めた時には肝が冷えた。幸いにも、患者が深く気を失っていたために縫合手術は事なきを得たが、恐らくは、万が一にも彼が痛みで目を覚ますようなことがあった場合は、執刀医たる柊が押さえ込んで対処するつもりだったのだろう。本当に、重傷者が失神し続けてくれて良かったと、しみじみ感じ入る。武蔵国支部に在籍する局員は――どの支部にも言えることなのだが、特にという意味で――己のもつ常識と比べると、ネジが多めに外れている部分が多い。そのため、治療目的であろうと、さらに相手取るのが誰であっても、どんな手法を用いるのかが未知数なのだった。元人間の医師は、かつては軍医でもあったらしいため、手荒な処置はむしろ専門なのかもしれない。しかし、戦場ではなく、ましてや資材不足でもない当局の医務室で常人に施すのであれば、治療にも安牌な手段を取って欲しいと思わざるを得ない。

 切れ目への処置の後には、レントゲンを撮った胸元へ硬質な医療用バンドが巻き付けられていたから、しばらくの間、彼は呼吸にすら難儀することだろう。左手薬指にプラチナの輪を携えた柊が別室に向かったのと入れ違いにやってきたのは蘭で、全体的に色素が薄い小さな鬼は、こちらへ数枚の書類を差し出した。その後、幼い手は縫いたての皮膚をぺたぺたと触りながら「この糸、ね……ぼくが編んだんだよ、春」とにこにこ報告する姿はいみじく愛しい幼子だったが、触られている側の眼球が瞼の向こうで動いていたため、慌ててやんわりと剥がした。

 意識が浮上してはじめて得るのが傷口いじりによる痛みになるのは気の毒だったため、新人で遊び始めた蘭を諫めはしたが、いざしんとした部屋にほぼ初対面の二人ぼっちで残されると、心許なさが勝る。小鬼は既に退室しており、次の客人も予約がない。手持ち無沙汰を持て余して、ホッチキスで右上を留められただけの、簡素な紙束を手に取ってみる。「持出禁止」と書かれた表紙の次には、猫間と乾の素性がそれぞれ書き連ねられている。モノクロの文字の羅列に意味を見出そうと目を潜らせると、初見ではにわかに信じがたい情報が連なっていた。軽く流し見しただけでも、新人としてやってきた猫間と乾の両名は母親が異なる兄妹であったり、魂の根幹にイザナミとイザナギが混ざっていたり、神の混入による影響として発現したものが霊的な視力と聴力であるなどと、本人の顔と書面を三回は往復して見直してしまうほどの情報が、こともなげに印字されている。

 そうか、それであの時、東堂さんは――

 聖上からの伝言と、調査の途中経過を知らせにやってきた先日。コーヒーブレイクに添えられた雑談の中で、人間が通る際には難解なパスワードを入力しなければならない秘密基地の入り口において、新規の局員両名はその手順を覚えなくともよいのだと、麗しい鬼は言った。神仏、もしくは前者に認められた妖と直接まつわるものであれば、「こちら側」の世界の者として種族が判別される。そもそもの前提、暗号が入館証代わりとして求められるような「よそ者」として、判じられることがないのである。

 一通り表面を撫でてから再び目が吸い寄せられたのは、別室で眠っている、猫間に関するページだった。簡素に生い立ちがまとめられた部分を読み進めるうちに、どうして上役らが自分へこの文書を預けたのか、少しずつ理解が追い付いてきた。

 数週間前、東堂に「赤髪の少年」が臣籍降下後も含めて天皇家の血筋にいるかどうかを調査するよう命じられてからは、現在の天皇一家として公式に家系図に記される殿上人は当然のこと、非公認の嫡子までくまなく探した。しかし、依頼された条件に合致する存在は見当たらず、今日参じたのも、該当する者がいなかったことを報告するだったのだが、まさか、こんな形で情報を得ることになろうとは。最後に添付されていた写真に映る少年は、夕焼け色の髪を豊かに携えている。

 そもそも、天皇、スメラミコトは、神が地上へ遣わした存在で、源流は神そのものだ。神との繋がりがより濃い存在であるという宗教的観点から、無言のうちに崇拝されている要素も浅くはない。そして、猫間に憑いたイザナミは国造りの神であり、神産みの母でもある。その母神の欠片を人間の少女が宿している状態で子を産めば、不遜にも、天皇と同じく神の素質を秘めた子が生まれるだろう。小生の任務は、例外の可能性をなくすための調査であったのだ。

「……難儀なことです。地獄に辿り着く人間は、罪人だけだっていうのに」

 薄い紙束を膝の上へ下ろし、床よりもさらに簡素な天井を振り仰ぐ。ゆっくり瞼を押し上げてみても、視界には病的な白さしか広がっていない。つい、口から幸せが逃げていく。彼らが乗り掛かった船は、もう海原の只中で波に揺れているのだろう。軽い気持ちで漕ぎ出したのだとしても、嵐は都合を訊かずにやってくる。叩きつける雨風は理不尽で、やり過ごすための術はあっても、避けることはできない。誰もが通る、誰とも違う道が人生なのだと、羨むようにいつかの誰かが言っていた。あれは、赤目の君か、紫の君か。

 座ったまま伸びをして、凝った肩を鳴らす。思った以上にいい音が鳴ったのは、調べ物がここ最近多かったためだろう。うっかりすると眠ってしまいかねない頬をつまんで、変化のない掛け布団の裾を直した。

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