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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
40/88

ドラッグ・アンド・ブレイク

 また後日、お迎えにあがります。

 一方的な再会の約束を取り付けた少年は、俺たちがそれを呑むかどうかをまるで気に留めずに、呼吸と同じくらい慣れているとでも言いたげな滑らかさで、発育途中の身体を烏の群れに変化させてから、散り散りに飛び去って姿を消した。宴の残骸や、長い露草色の髪を携えた女の遺骸も、彼の退場に合わせて融けていく。

 確実に「何か」が動いた曲面の中にあって自分は、方々に飛び去った黒を追うこともできずに、ただ一点を見つめている。彼に放られ、粗雑に転がった言葉が脳内を巡る。

――中絶?

 いったい、どれだけ趣味の悪く、陰湿な冗談か。七年前といえば、彼女を中学校から送り出すための卒業式が、春の節目に設けられた年にあたるではないか。巡、カグツチと宣言した赤髪の少年は、こちらを元父親だの母親だのと宣っていたが、己が彼女と肌を重ねたことは、誓って一度たりともない。横暴な少年によって、自分の預かり知らない彼女の過去が、避けては通れないように横たえられた。

 矛先を見失った刃を、鞘に納める。

「なあ」

 斜め下、さほど離れていない距離へ届く声量で呼びかけると、男のそれより幅が狭く、薄い肩が微かに揺れた。耳障りな静寂の中でへたり込み、かんばせを俯かせることで表情を隠した妹は、物音一つすら立てない。

「……怪我はないか」

 目線の高さを合わせようと膝を折っても、相手の首の角度は変わらない。髪の合間から見える唇は、気の毒になるほど蒼く、微かに震えていた。

「いやだ」

 絞り出されたその声には、懇願の響きと、手負いの小動物が持ち合わせるような寂しい威嚇が滲んでいる。

「今、アンタに、みられたくねえ」

 弱く、脆い殻に閉じこもるための拒絶を受け入れてやれるほど、優しくはしてやれない。

「いいから。見せてみろ」

――晒せ。

 片膝をついた体勢のまま、汚れの少ない手で顎を掴んで顔を診れば、冷えきった肌には血の気がなく、瞳の焦点もふらふらと揺れている。むやみに他人の心へ干渉しないと決めた自分自身への禁を破り、命令形の毒を伝わせて潜った少女の深層思考の海域は、いくつもの事柄が複雑に絡み合っており、意味の通る言葉としてそれらを聞き分けることすら難しい。絡まった糸を解こうとそれらに指先をかけるたび、酷く、頭が揺さぶられる。

「や、ッ、めろって!」

 抵抗のために暴れた彼女の手には、鈍器とするべく咄嗟に握られた拳銃があった。本当に奮われるべき時には触れられすらしなかった人殺しの道具が、今や、俺の拘束から逃れるための一助として縋られている。フロントサイトの凹凸が目のきわを掠め、水晶体の代わりを担う透明なレンズを枠越しに砕く。外見よりも硬い黒のボディが、塞がらないまま放っておかれている額の内側まで抉ったがために、止まりかけていた生温く赤い液体が、また新しく垂れてきた。目元の粘液を拭い、閉じていた瞼を再び開けば、銃口付近に血がついた量産品のポリマーフレームが、彼女の手から滑り落ちた。

「あ……」

 見開かれた瞳には、怯えが孕んでいた。

「ちが、違う! こんな……ごめん、ごめんなさい、嘘だ、そんなつもりじゃ――」

 乞い願う相手の喉からは不完全に空気が漏れて、歪な呼吸が肺に強いられていく。過呼吸の合間から途切れ途切れに言を繋ごうとするのを遮れば、かえって深く傷ついたような顔をして、体調によるものか感情によるものか判別がつかない塩水を目尻に浮かべる。

 ああ。また、間違えた。

 焦るほどに栓がきつくなる気道へ、から咳が重なる。数秒のうちならばと唇を手で塞いでも、彼女の発作が治まる気配は感じられず、かえって当人の混乱が増すばかりだ。

 連れ戻さなければいけない。たとえ、どんな手段を使ってでも。

 少女だったはずの、小さかった身体を抱き寄せる。意識して遅い呼吸をしてみせ、黙ったまま体温を沿わせていると、苦しげな息が段々と解けていく。昏いスーツへ赤が落ち、繊維の合間へ染み込んでいく。

「……だいじょうぶ。大丈夫だ。なんともない、大丈夫」

 努めて柔らかに、心のうちに蓋をした動揺を伝播させないように、言葉を使う。とん、とん、と一定のリズムで、背に回した手を軽く動かしてやる。大丈夫だと、根拠のない呪いを埋め続ける。怯えた視線は次第にゆるゆると伏せられ、戸惑いつつも閉じられたことが、肩に預けられた顎の緩い傾きで分かった。

「そう、上手、そのまま……いい子だ。リラックスしていい。力を抜いて」

 弛んだ精神の糸でできた細いトンネルをくぐり、柔い彼女の真核を手繰り寄せる。暗示の蚕を先より細かに潜り込ませ、ぬるま湯の波で鼓膜の奥へと注ぎ込むイメージで、言葉による麻酔をかける。

 洗脳は、二人の父親が最も得意とし、幼かった息子が彼から唯一手解きを受けたものだった。

――眠って、しまえ。

 雫が核の渇きに落ちてしまえば、それまで。かかる体重が増え、意思のない指先が床を滑る。特に重い頭部を慎重に傾けさせた胸元には、鋭い痛みがはしった。夢中で気が付かなかったが、ここへ着くまでに相手をした化生との戦闘中に、肋骨を折られていたのかもしれない。しかし、道中を正確に思い返そうとしても、考えがうまく纏まらない。随分な無茶をした、ということだけは分かるが、体内にいくつも心臓が増えたかのような激しい痛みが、思考の余裕を奪っていく。

 認識した痛覚と疲労が、濁流へと変わる。肉体の強制シャットダウン勧告に抗いきれなかった気力と自我は、目眩と共に心中した。

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