鉄の雫と所有物
叩きつけられる情報と、記憶の渦が絡まる。せり上がってきた気管の奥からの欲求で喉が引き絞られたが、通り道を弱い塩酸で焼いた以外に、胃からは何も吐き出せなかった。白黒する頭に軸を持たせようとするたび、かえって思考がもつれていき、時間が流れる感覚さえも覚束ない有様だ。正面に陣取っていた少年は、体を横にずらし、不規則に動くこちらの背を愛しげに撫でるよう掌を添わせている。
「そこにいるのは、黄泉に残された女の末路です。生ける屍そのものとなってしまいましたが……イザナミ、という名前くらいは聞いたことがあるでしょう」
優しげな手付きとは裏腹に、布を色水に浸すかの如く注がれる言葉の雨は降り止まず、緩やかに体温を奪っていく。
「貴女の身体は、彼女と共生しています。朽ちた肉から溢れた魂は、巡って生者に宿るもの。御霊と、宿主となった人間――つまり貴女は、イザナミと全く同じ存在というわけではないけれど、波紋のように影響しあっているのは事実ですね」
静かに交わっていた水辺が波立ったからこそ、今、陰陽の均衡が崩れ、肉体と精神の和が乱れているんです。
少年がこちらの背に置いた指の場所から、液体窒素で低温火傷をする時のような冷たい熱さが、衣服を超えた先の肌を刺激する。物言わぬイザナミの首が傾き、溶けた脂肪の膜の先から向けられた無機質な視線が己のそれとかち合って、瞬きの数が減っていく。へその緒が生えていた部分の凹凸を内側から探られたら、今の自分と同じ気分になれるかもしれない。彼女の存在そのものが恐ろしいのに、不思議とどこか懐かしく、独りではどうしようもなく埋められない欠陥を埋められる不良品が、重なる瞳の先にあった。
「神仏の依代となった人間は、超人的な能力を少なからず持つことになります。昨今の遺伝による余白に目覚めただけの方よりも強く。……まあ、これについては」
背中に置かれた冷たい手が、ぴたりと動きを止める。
「貴方もよく知るところ、ですよね。イザナギの依代さん」
振り返って見上げた先では、少年の細い首に片手で携えた大脇差の鋒を添えて見下ろす元担任が、初めて見る表情で佇んでいた。
「遅かったですね。来ないかとも思いましたよ」
色白の肌と、鋭利な銀色がより一層近くなる。あと少しでも彼が力を込めるか、少年が気紛れに動こうものなら、弾む皮膚に砥がれた刃先が埋まるだろう。教師の纏うスーツには、既にいくつかの裂傷があり、穢れが由来なのであろう黒も節々に染みている。
「まだ触れているつもりなら、このまま首を落とす」
低い声が場に通る。つい先刻まで辺りで賑やかしく宴を催していた一群は、皆、跡形もなく消えていた。音楽が消えたからなのか、全身を蝕んでいた不調は軽くなりつつあるものの、目眩じみた混濁は残っている。
「まるで所有物のような言い草ですね」
「離れろ、と言っている」
斜めに角度をつけられた鈍い光を放つ凶器が、薄皮に沈み込む。
「……センセ、本気か」
今まで頼ってきた、頼るに値していた唯一の大人が、年端もいかない子どもに迷いなく刀を突きつけている。オレには向けたことのない、零度の瞳で少年を見下ろす先生は、まるで、全く知らない他人のようで――怖い。
こちらの声を拾ったらしい彼が、どこか哀れみ、どこか傷ついたような視線で、己へと焦点を合わせた。空いている右手を後ろに回したかと思えば、男の背後から引き抜かれたのは、自分が地上で取り落とした一丁の拳銃だった。実弾の入っていない武器はそのまま投げられ、手を伸ばせばすぐに掴める位置へと滑ってきた。
「それで撃とうと思えば、弾の有無に関わらず撃てるはずだ。使用者がどれだけ強く念じるかが、性能に直結するらしいから」
こいつが味方に見えるはずはないよな、と、諭す口振りで窘められる。
「お前にできるなら、俺は刀を納めるよ」
転がった銃と彼の間とを、視線が何度も行き来する。わざわざ立ち上がるだけの苦労もなく、容易に武器を掴むことができるはずの十数センチの空白が、どうしても、埋められない。
かつて自分が縋ることを選び、それに応えるようにずっと正しい答えをくれていた彼からは、次の助け舟を出してくれるような気配が認められない。アンダーリムのレンズ越しにふと緩まった、目尻を下げたセンセの眼差しは、残念そうにも、憂えたようにも、また、安心したようにも見えた。




