七つ捲った先の綴じ目
「な、に……」
硬直する喉に無理を強いて絞り出した疑問が、露頭に迷う。目の前の屍体や魑魅魍魎、この場の存在、少年に回された細い腕の意味と、質問すべきものが多すぎて、強張ったままの声には荷が重い。
背後を陣取っていた少年は、おもむろに肉の拘束を解き、向かい合うように覗き込んでくる。正面から見据えられるようになった全身で、彼は間違いなくあのアパートの前で出会った中学生だと確信し、尚更に混乱した。
第一印象と変わらない、人好きのする笑みが、黄金色の瞳の上下を瞼で浅く覆う。
「おかわいそうに。ずいぶん長く眠っていらっしゃったから」
己のものよりも一回りは小さい掌が、こちらの頬に添えられ、額同士が合わされる。頭の痛みが、また荒れる。静電気への反応めいたかぶりをふれば、低い体温は素直に離れていった。
癖のある抑揚で唄う声と、絢爛豪華な楽器の音色が鼓膜を震わせる。仕掛け人からの接触を絶ったにも関わらず、鋭い痛みは続いていた。鈍いそれに慣れようとしていた神経が無理矢理に揺り起こされて、息の拍までもが一定でいられなくなっていく。瞬きの度に見える瞼の裏に、浮かぶ様々な像たち。痛みが酷くなればなるほど、その鮮明さは増していった。
始めに見えてきたのは、一対の男女。紙芝居のように展開する流れから推測するに、恐らくは親しい仲だろう。遠近どちらにピントを合わせるかで迷うカメラのようにぶれる焦点のせいで、二名の細部や顔は判然としない。冒頭に視えた情景では、彼らは船頭のいない小舟に乗っていた。おもむろに海の中へ長い棒を差し入れてかき回すと、重い渦巻がゆるゆる生まれて、いつしか粘土状の塊が接合し、広大な陸地が完成する。次に二人は、静けさに満ちていた土地へ手を入れた。そうして絵面がくるくると切り替わっていく間、彼らの近辺には着々と人影が増えていっていたにも関わらず、ある時から、原初の女が男の傍らからいなくなってしまった。彼女がいなくなった原因らしき塊は彼が斬り捨て、飛沫からは新しい形が生まれていく。
「どうか、思い出して」
案内人よろしく添えられる若いボーイソプラノが、どこに散らばり、繋がっていたのかも判じ得なかった記憶を、固い卵の殻を少しずつ叩いて割るようにして次第に全体を覗かせる。自分は、この劇の終焉を知っているはずだと、遠くから呼び覚まされる予感が段々と頭を重くする。研修により得た付け焼き刃の知識から引き出される、かの夫婦神の伝説ではない。語られる前の原初を、彼ら自身の感情を、胎児のうちから知っているのだ。
続けられるスライドショーの景色の大半はどこか見覚えがあるものの、完全に一致するわけではない。例えるのなら、行きの道のりで見ていた道中の目印を帰りに見失うような、そういった鈍い感覚のずれがあった。よく観察しようと瞳孔を絞るのに、女と同じく、残された男の顔の部分だけはどうにもぶれていけない。強い酒を飲み干した時のぼやけた景色にも似ていて、運良く輪郭を捉えられたとしても、一秒と長くは保てない。そうして、オレが彼らの人相の判別に躍起になっているうち、遺された夫は、自ら望んで深く暗い場所へと足を踏み入れた。すると、どうしたことか、男性が奥へ進めば進むほど、登場人物たちの顔周りの解像度が緩やかに上がっていくではないか。場の陰影が濃い分はまだ障害として居座っているが、男の髪は黒く、瞳は金色であることが新たに確認できた。一枚絵の連続から、突如として動画じみた滑らかさをもち始めた虚像によって、自分が目を閉じたまま魅入っていると気付いたが、今更開くのも億劫に感じて、閉じた眼球をそのまま凝らしている。体の中心から押し出される血液が爪の裏まで染み渡り、滔々と循環を続けていた。
「彼女は幸運にも、地の底まで侍らんとする勤勉な迎えを得ました。女は彼を待たせて、やむなく降った先から光の中へと帰ろうと、そう、決心したのだけれど」
愛しい伴侶がなかなか戻ってこないことに痺れを切らした男は、来るなという言いつけを振り切って、さらに先へと進んでしまう。そして、腐肉と化した女を目にするのだ。甘美な朱の合間から溢れる白い蛆の粒、健常な生者はもたない身体の凹凸に、だらしなく伸びきって褪せた髪。それら全てを妻だと認めることこそが、彼にとっての絶望だった。
「めをあけて」
頬と顎にかけられた掌で顔を動かされ、再び腐った残骸を見せつけられる。醜悪で、およそ相貌すら判然としない塊のそれは、今や別な見え方をしていた。少年が語り、鮮明な情景が脳裏に浮んだこの物語は、自分の「記憶」の一部なのだと、強引に理解させられた。
確信と不信が頭痛の波と共に押し寄せてきて、なぜだか心臓が切なげに縮む。瞼を押し上げる瞬間、刹那に見えた泡沫。虚像の中に佇み、驚き見開いて女を怖れた男の顔が、途端に霧を晴らし、その顔を濃やかにする。浮かび上がった彼の面は、今の己がよく知る彼に、恩人に、教師に、否定のしようがないほど酷似していた。




