予感と潮流
せんせい。
呼ばれた気がして、振り返る。汗でずれた眼鏡をかけ直したが、ぶれる視界に求めた彼女はいなかった。飽和するまで墨を練り込められた液体が沸騰したかのような歪な地面が、彼方まで穢れを泡立てているだけだ。
「……猫間?」
幻聴や聞き間違いにしては、鮮明な声だったように思う。横から伸びてきた澱みの腕を鎬で滑らせ払いのけ、声変わりの来ないそれが発されたはずの方へ駆け寄った。纏わりつくぬかるみを振り落としながら歩けば、ふと靴へぶつかる何かが一つある。片膝を落とし、摩擦が生じた相手を探して掻けば、泥濘は不愉快な凹凸で指の合間を重く伝うものの、質量が感じられる分排除もできる。直の肌でならもう少し躊躇っていたかもしれないが、手袋を身に着けていた恩恵がこう生じてくるとは。衝突した拍子に僅かに位置取りがずれたらしい塊は、ほどなく再び指の腹に触れて掴まれた。
拾い上げてみた物品は、強化プラスチックで組み上げられた、狐塚からあの子へと配布されたはずの拳銃だった。持った軽さが外装から与えられるイメージからずれている分、弾が入っていないという談とも一致している。彼女が持っているはずの一丁がここに落ちている、ということは、すなわち。
置いてくるのではなかった! 察せざるを得ない現実に、かっと身体の芯が熱くなる。舌を口内の上顎で打って、近寄ってきた触腕を左手のみで握った鋼で両断した。隻腕から噴き出した体液らしきものが、奮った肘まで降りかかるのが煩わしい。賭けの偵察が落ち着いたら迎えに行くつもりでいたが、とんだ計算違いだ。辺りに赤も肉片もないから、想定しうる最悪の事態ではないはず、と、確証もなしに思い込むことしか許されない。なにせ、敵は完全に未知の存在だ。文献を漁り、付け焼き刃の知識程度を備えたところで、いざ己に迫る事実として覆い被さられると、判断を弾き出すまでにも後手に回らざるを得ないことに焦れる。今、こうして早鐘を打つ心臓では持て余すほどの事態に陥っているかもしれない。浅くなる呼吸を、焼ききれそうな理性で押さえつけた。
また自分は、彼女を喪うのか。
不意に頭に浮かんだ文言へ、小さな引っかかりを覚える。「また」とは、いつ、どこで、そう判ぜられる前例があったのか。担任と生徒としての立場が消えた、七年前の卒業? いや、あれはそんな発想をもって送り出したはずはない。幼い頃の離別も、宝物を奪われたという感覚に近く、勝手に落命まで飛躍させる想像力はなかった。……いや、そう思わないように、無意識のうちにブレーキをかけて、自制していたのかもしれない。それでも、先の発言の根拠であると判じることは躊躇われるほど、遠く幼い昔の出来事だ。
記憶から何かを掴みかけた途端、頭が鋭く痛みを訴える。浅く切った額の傷ではない、もっと奥、脳に張り巡らされた神経の一本一本全てで暴れているようなそれに、元々ぼやけていた視界がさらにざらつき、ノイズが走った。
網膜へ直接叩き込まれるかのようにして、現実の場ではないとすぐに分かる映像が流れてくる。混沌としてはいてもどこか穏やかに交わり続ける流水と、表面へ浮かぶいくつかの固形物。それらを混ぜ合わせる細長い棒らしきものを互いに支えて寄り添っているのは、一対の男女だろうか。首から上は靄がかったようになっており、表情を拝するのは難しい。
目眩に足元が覚束なくなる予感がして、咄嗟に騒音の核から飛び退く。こんな状態で、ひとところに留まっているのは愚の極みだ。変わりない聴覚と、頼るには不安定な第六感になおも縋り、安全地帯を求めて動く。瞬間、先程まで足裏をつけていた地へ音が着弾したらしく、くぐもった衝突が耳に届いた。頬へ飛んできた雫を、気付けを含めて強く拭き取り、頭を振る。ようやく薄まった幻影の奥に景色を見ると、曖昧な黒を背景に、濃い縁取りをもって佇む人影が、こちらを冷えた顔で見つめていた。
「……誰だ」
夕焼けを濾したような赤い短髪。熱した鋼に似合いな金の輝きを沈殿させた二つの瞳に、耳朶へ飾られた一対の宝石。背丈や肉付きから推測される年頃は、十代前半といったところか。肩の幼さに反比例する無感動が顔に研がれて、彼の表情から内面を読めなくさせている。脳に直接届けられる言葉も一切なく、相手が何を思ってそこにいるのか、無言のうちには聞き出せそうもなかった。
表皮の特徴を列挙していくうち、相対する少年は、ある虚像へと重なっていく。
『そういや、髪の赤い中学生がいて』
『うーん、大人びてるっつーか……器用、って感じの……よく分かんないかも』
古いアパートの一件を収めた翌日。会議室へ向かうまでの東堂との問答で、猫間が零した証言。彼女が言うところの「大人びてる」が、推測される年齡と照らし合わせた時の態度の違和感を指していたとすれば、目の前の少年は特徴が一致する。
『……あと、また、って言ってた気がする。別れ際にさ』
少年が瞬く。再び瞳が露出する前に、身体が動いた。
刃は頸をはねるための軌道を描き、頸椎の合間に滑る。突き動かされる衝動へのためらいは、不思議とどこからも湧いてこない――まるで、これが当然で、義務で、正義であるかのように、思考の外側が反応していた。




