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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
32/88

下り坂の先行

 包み込まれた空間へ髪の先まで浸かった感触を享受して、暫く。瞼をきつく閉じ、せめてと覚悟していた心持ちは、呆気なく肩透かしを食らった。時間の感覚も曖昧だけれど、もうずっと何もない。恐る恐る目を薄く開いても、彩度がない景色が待っているのは想像に難くなかったが、てっきりおぞましい有象無象に襲われるだろうと思い込んでいた予想は外れて、心地よさすら覚える静寂に出迎えられる。限界まで詰めていた息は、普通に吐くことができるし、吸うことも叶う。そこに苦しさや不自由はなく、嫌悪感どころか、どこか懐かしさすら馴染む場所に、ぽつんと一人で立っている。首を左右に振っても、見えてくる景色は黒だけだ。

「……あ、あー」

 口を開いたついでに、声を出してみる。ごく普通の空気中にいる時と同じに聞こえる響きで、むやみに反響もせず、ただ周囲へ音が融けていく。気になる部分といえば、足元がどうにも安定しないことくらいか。もっとおどろおどろしい内部を想像していただけに、実際の様子へ妙に拍子抜けして、肩の力まで抜けてしまう。

 試しに一歩を踏み出すと、足元に寄ってきた蛍のような仄かな光たちが、そのまま二列にまっすぐに並び、こちらに道を示して見せた。小さくとも確かな明かりに足場が照らされたことで、自分自身の姿かたちも、ぼんやりと暗闇の中で浮かび上がってくる。服装に変わりはなく、下半身には革靴とスラックス、腕の末端には手袋が、周囲とは異なる硬い黒で黙り込んでいる。背後を振り返ってみると、そちらにも同じように道が伸びているものの、案内は果てる遠さよりも近くで忽然と途切れている。振り仰いでもみたが、天井は分からない。ならば、前後どちらかには進むとして、終わりが見えている方から確かめておくのが賢明だろう。そう決め打って、まずは光の崖へと向かった。

 切れ目の近くに寄ってみても、見えてくる事物は変わらない。視覚に頼れないのであればと、明かりが行き止まった辺りから垂直な空中を弄ると、不意に指先が何かにぶつかった。恐る恐る掌全体を沿わせて調べると、不規則な凹凸をもつ、堅い質感の見えない壁があるらしいと察する。探っていた両手の幅を広げてみても、その障害物はずっと横まで続いている。微かに音が聞こえてくる気もしたが、透明に耳をつけてみても、確証は得られなかった。

「壁伝いに歩いたら出口、じゃないだろうし」

 迷路の正攻法が通じたら苦労はないが、そもそも道は枝分かれすらしていない。誂えられた一本道の外側に踏み出すのは博打が過ぎるし、やむを得ず試みるとしても、一番最後に回すべきだろう。

 改めて、最初に身体を向けていた方角へと歩き始める。今更ながらに気付いたが、爪先が少し下を向いたこの道は、僅かに角度がついた坂道となっているようだ。飲み込まれた異空間にも上下の概念があるのかと首を傾げていると、闇ばかりと思っていた道の脇に、傘の真似をして生い茂る三本の木々が現れた。思わず顔をしかめたのは、それが自分の苦手な桃の香りを纏っていたからだ。甘ったるく、鼻の奥に残る後味。あまり好き嫌いはない質だが、どうにもこれだけは苦手で、給食に出される度に教室を避けていたほどである。片手で数えられる本数しかないのに、眩暈がするほど濃密な香りにあてられてか、低気圧の頃に起こるような鈍痛すら頭に生じ始めている。さっさと通り抜けるが吉、と内心で呟いて、足を速めた。

 次に目についたのは、足元に茂る緑。先程の桃と違い、これといった強い匂いはない。瑠璃から紫にかけて、青系の小さな丸が多く実っている。道端の僅かな土の合間、もしくは公園かどこかで絶対に見たことはあるのだが、謙遜を省いた寡聞にしてそれの名前を知らないので、手がかりにはならなそうだ。ヘンゼルとグレーテルのように散らしていくなら便利そうだが、迷いようもない現状においては不要だろう。

 いつの間にか平坦になっていた細長い場には、まだ先があるらしかった。頭痛は緩やかに強まっていき、血液が心臓から押し出される度に痛みが脈打つ感覚が生々しく、顰めっぱなしの眉をさらに顰めさせる。

「ったく、どこまで行きゃいいんだよ……」

 思わずぼやいてしまうほど、傘の樹木も、低い緑も遠のいた頃。独り言に呼応するかのように、突然道の導が消えて、代わりに暗がりが押し寄せた。あれだけ強かった桃の薫りも、鮮やかだった小さな実も、とうに後ろだ――ここで間違えれば、きっと、帰れない。方向感覚を失うまいと立ち止まって、爪先の角度を固定する。進むべきか、退くべきか。迷っている間に、遠くから音が流れてくることに気付いた。耳を澄ませてよく聴けば、それらは雅楽めいた音の粒で、鼓や笛に加え、時折は鈴の高さもある。穏やかでありながら華やかさのある色の玉を、自分はいつかどこかで聞いたはずだと、締め付けられる脳が絶えず訴え、頭痛をさらに強いものにしていた。

「……おーい、誰かいるんスか」

 まさか、楽器がひとりでに自分の弦を弾きはしないだろう。この際もう敵でもいいからと、演奏者を頼みにして声を投げたものの、返答はない。音楽は変わらず鳴り続けている。

「なあ! いないのかよ!」

 半ば自棄になった具合で呼びかけたが、やはり返ってくる言葉がないどころか、木霊すら沈黙を守っている有様だ。溜息をついて、止めていた脚を思いきってそのまま前へと交互に動かしてみると、響きの根源は次第に大きくなり、か弱い漣からみるみるうちに育っていく。逆らい難い意思の根に従って早鐘を打つ身体の中心に比例し、頭部を割らんとする鉛も増していくのが不快だった。

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