赤と帳
音が響きにくいよう、赤い絨毯で覆われた廊下。その延長線上にある玄関から辿って入室してきた女性の目元には、年齡がきたす分に加えて、疲労が招く細かい皺が重力にたわんでいる。
「巡、おかえりなさい」
「ただいま。母さんも、お疲れ様です」
勉強机に広げた教科書やノートを互い違いになるようにさっと畳んで、中学生に与えられるにしては広すぎる部屋の、出入り口近くに備えられた横長のソファへ腰を下ろす。隣へは既に「母さん」と呼んだ中年の彼女が座っていて、眼鏡を外した鼻の付け根を揉みほぐしている。曇天からついに溢れた雫に降られてか、ジャケットの一部が濃い色に湿っていた。
以前は首相官邸として機能しており、今は総理大臣が日常生活を営む建築物――首相公邸。屋上では四羽のミミズクが石像の形でもって羽を休め、雨風に晒され続けている。度重なる改修を経てもなお建築当時のライト風なアールデコ様式を保つここは、自宅として紹介するには過美であり、かといって施設として規定するには用途が限られている。彼女の養子となり、首都でも有数な私立小学校の高学年クラスに編入した時から住みはじめたが、この感想はずっと変わらない。作り物として能く造られた場所、それだけ。
目元を強く瞑っている保護者は、各地への出張を一区切りつけての久方ぶりとなる帰宅だ。住所である武蔵国で催された祭りでの公務のため、少しだけ公邸へ寄った時もあったが、次の演説場へ向かうための飛行機の最終便には飛び乗った。その日から数えると、こうしてまともに顔を突き合わせるのは、数週間ぶりになるだろうか。国会が閉じられている今、彼女の活動は自由に多忙を極めている。
「学校はどうかしら、そろそろ生徒会選挙よね」
眼鏡を耳に掛け直し、座ったままの体で、血の繋がらない息子へと微笑む。
「はい、皆よく協力してくれて……ボクも頑張らないと」
「あなたはカリスマ性が母さんよりあるもの、きっと大丈夫よ」
下町の風情が名残にある笑顔を浮かべて、赤い短髪を撫でられた。ピアスに嵌め込まれた石が、天井のシャンデリアの光をちらちら反射する。煌めく透明のインテリアに佇む黒い塊は、彼女の網膜に映らない。
「親の七光りだなんていう輩がいたら、すぐに言うのよ」
「皆いい子だから、今のところ聞かないですね」
「そう? それならいいんだけれど。ただね、あなたの才能と努力はあなたのものだから、遠慮しちゃダメよお」
分かりました、と上品さを残して破顔すれば、満足気に頷かれる。部屋の四隅から染み出してきた闇が、照明の周りにいるそれと同じように輪郭を持ち始めた。
「母さんも、無理をしたんじゃないですか」
「こんなの平気、平気。なんともないの。それに、巡と話すと、疲れなんてどこかへ消えて……早く次の行動を起こさなきゃ、って元気が湧くわ」
不思議ねえ、と何気なく呟く女性は、肚から産んだわけでもない少年をよくも信用できるものだと思う。保護者の肩に乗り、輪郭から体内に沈み込んでいく穢れを視界の端で確認して、完全に馴染むまで見届ける。女は自身が毒を媒介する容れ物だと、きっと永遠に気付かないし、周囲にも気付かれない、実に幸せな人。三年前に政のトップへ上り詰めた時から、少しずつ確実に国を腐らせるシロアリになっているのは、間違いなく貴女であるのに、表層はむしろ改善されていると世論が取り上げるのだから、皮肉な話だ。
「話を聞きに来てくれる皆の視線を受けると、まるで自分が別人になったように思うの。疲れも不安も消えて、すらすら言葉が出てきて」
仕込んでいるのは、演説の言葉と言葉の合間に挟む暗号。声にならない微妙な音波と唇の形で脳に刷り込む、悪感情。本来は話者が自覚して話すことで実現するその話法を、「そのように話す」ようにとボクが刷り込み、染めきってしまえば、呪いの感染源としての役目を十分に果たせる。知らず識らずのうちに菌を奥底に受け取った聴講者は、日常のふとした瞬間で怒りが爆発し、結果、大小様々な犯罪が増加して、抑止力たる地獄の機関が調査に乗り出し――ようやく、実を結び始めたのだ!
この話法を見せるともなく見せてくれた忽那の長には、どんなにか感謝したことだろう。滑らかすぎるカウンセリングの様子で気付いた手段を真似たおかげで、自分は生まれる前からずっと探し求め続けていた、愛しい人に出会えた。あの日の悦びは、一体どう言葉にし得よう。あのひとの御霊は穢れからも、光からも離れられない。二世界の天秤がどちらかへ傾く時、必ず己と惹き合う輪の中にある。連なる数珠の中にあの男がいるのは目障りだが、彼がいなくては自分もないし、彼女はこの世に生まれ出ない。因果な輪廻を想いながら、聞き分けよく賢い息子としての演技を上澄みでこなす。唯一と認めたのは、夢を渡り通ったあの気儘な猫のような彼女だけと、何度も何度も常世を巡った魂が主張するのは止めないまま。手に入れたいと喚く本心を、まだ今は抑えつけて。
「お仕事、頑張って下さいね」
そうすれば、自分はようやく、本当の愛情を得られるのだから。
柔らかく両の口角を上げ、瞼を細める。都合のいい人形はこれだけで喜んで、明日もまた言の葉をばらまいてくれる。夜は深まり、暗い空は勢いを増していく。窓に透明な線を描く水を遠くに聞きながら、露草色の髪を靡かせる彼女の胎を夢想した。




