警鐘、昼下がりにて
「拒絶は、恐怖が生む反応の一つでもある」
己の半分を作った男は、嘘なく凪いで嘯きながら、視線の奥に灯った老獪な暗がりをこちらへ注いでいる。それは、幼い時分に見聞きしたものと少しの変化もなく、厭うべき視線と、嫌悪するべき声だった。
十数年ぶりに実家の敷居を跨いだのは、ちょうど一昨日の今頃だ。不必要に大きく、古めかしい和製の屋敷の前に着いて眺めた表札には、「忽那」の二文字が欠けのない楷書体で彫られている。閂を通せる木の門が、手をかける前に自然と内側へ向かって開いた。
「継司さま、中へどうぞ」
敬礼と最敬礼の間で出迎えた、記憶が正しければ少し前に五十代に差し掛かった馴染みの女中は、懐かしく儚い笑顔と、今の状況に対する戸惑いが表情へ半々に出ている。最後にこの人を見たのは、彼女はまだ而立と不惑の間にいた。長い髪を後ろで一つに纏める太い簪だけは昔と変わらず、椿の塗装が僅かに剥げている所まで同じだった。
「急な頼みで、申し訳ない」
飛び出すようにして家業を投げた長男は、どの面を下げて生家に訪れるのが正解なのだろう。知った顔であるのに、勝手に距離が離れた気がしてやまない。あの縁側に向けて作られた池泉庭は、もっと大きくはなかったか。
「いえ、いいえ。息災で何よりでございます」
引き戸の玄関を潜り、靴を脱いで、黒木の上がり框に歩を進める。脱いだ上着を受け取ろうとする手を辞して、鞄を持っている方の腕へかけた。
「菖蒲さんは」
薄く化粧気のない唇が、短い時間引き結ばれる。上女中は、年齢を重ねて細くなった目をさらに細め、困ったように微笑んだ。軽く顎が上がる素振りを見て、それ以上の問いは心に留めた。
――用心も、当然か。
戸籍上では母と実子である忽那菖蒲と俺が、その実他人であり、また互いにそれを認識していることを、彼女は知っている。知った上で、母に寄り添い続けている。自己完結し、限界まで閉じられた心は、普段は意識を逸らすことで「聞かなかったこと」にしている自分の体質――他人が感情や考えを胸中で強く意識すると、それらが脳に直接響いてくるという、厄介な身体だ――でも、頭に響いてこない。元より探るつもりがなければ、尚更に静かな午後だ。代わりといわんばかりに、時々軋む床の響きが嫌に耳につく。
「……言継さまは、書斎に。中でお待ちです」
廊下の曲がり角で告げられ、会釈をして進む。遠くなる背中の先で、頭を下げ続けられているのが分かっていた。
油がさされた滑りの良い襖を開けると、いぐさの香りが鼻を抜ける。文机に肘をつき、某かの文庫を読む男が、こちらをちらともせずに座っている。撫でつけたそのほとんどが白銀に変わりつつある頭髪は、黒で仕立てた着流しと相まって、見た者に畏怖を感じさせる装いとして機能している。壁は本棚と一体となっており、日光を拒む構造のこの部屋が、そのまま彼から受ける圧を体現しているかのようだった。
徐に、読みかけの本が閉じられる。題は『悲しみの歌』。遠藤周作が手掛けた小説『海と毒薬』の続編。主人公の勝呂は、かつて加担した人体実験の現場である大学病院を離れて、開業医として末期がんの患者を本人の希望から安楽死させるものの、勝呂の過去を掘り返した新聞記者によって正義中毒となった民衆から爪弾きにされ、自殺する。雑誌連載時の原題は『死なない方法』だったはずだが、そこまで含めた皮肉のつもりであれば、よほど俺はこの男から見て下にいることになる。
「おかえり。座りなさい、継司」
目元の柔和な皺、穏やかな笑み、落ち着いた声音。どれもが人を安心させる要素でしかないのに、彼の生業を思うと、所作の全てに拒否反応が出る。
膝をつくよう言われた先に布地はない。畳の上へ左足から膝をつき、ほとんど同じ高さにある、同じ色の瞳を見返す。
「質問があるのだったね。我が子が知りたいことというのは、私も興味があるよ」
「……お前の知的好奇心を満たすために、来たわけじゃない」
「拒絶は、恐怖が生む反応の一つでもある。おまえ、私を怖がっているのかい」
鋭い衝撃が木目を通り、空気の波を鈍く揺らす。
一枚木で設えた目の前の家具に叩きつけた拳の側面が、数秒空けて痛覚を伝えた。浮いた腰と立てた右膝の意識はなく、真っ赤に染まった脳髄ばかりが沸騰しそうだ。冷静になれ、落ち着いて、相手の些細な反応をも見極めろ――そう頭の片隅で言う平生の自分も、今はとても遠くにいる。微笑みを崩さない相手が、一瞬機械かとすら思わされて、底の見えない崖を覗く心地を錯覚した。
「おまえは根が激情家だからね。コントロールはまだ難しいか」
喉から苛立ちが零れそうになって、無理やり押さえ込む。この種の相手へ舌戦を仕掛けるには、生来から分が悪いのだ。
「古舘公代の顧問をした覚えは」
得体も底も知れない男の眼前に、不用意に長くいてはいけない。警鐘を鳴らす本能に従って、端的に問を投げかける。
紅から聞いた情報によると、現総理である彼女がその座へ就いた頃から、地獄から見た現世の様子が急変したらしい。となれば、その周囲の情報を得られる可能性が、代々政治家と関わりを深くした一家の長にあって不思議ではなかった。むしろ、真犯人である可能性すら視野に入れていたからこそ、自ら絶った縁の家へやってきたのだ。もしもこの男が糸を引いているなら、止められる手をもつのは、血の半分は偽りであったにせよ、十数年は長子の席に据えられていた自分しかいないだろう。あの子が、妹が巻き込まれる前にカタをつけられるなら、一家心中だろうと構わない。
そうとまで決めてきたにも関わらず、返された言葉は意外なものだった。
「確かに担当していたよ――三年前までね。彼女が総理になる選挙の開始が区切りだったな。その一年前にとった養子がいて、医者から息子へ寄る辺を変えたらしい」
「選挙の前、まで?」
それでは、就任後に増えた穢れの説明に結びつかない。もしや、本当に無関係だったのか。偏った仮説が招いた、単なる杞憂か。
「……養子の素性は」
ふむ、と被りをふりつつ行われる観察は、質問を利用して、逆に相手の真意を探る捕食者の視線だ。努めて反応を殺し、応えを待つ。とにかくも、虎の巣穴に入っただけの価値ある情報は持ち帰らねば、この不愉快と割に合わない。
語る気になったのか、作られた笑みの口元が開かれた。思い出すように、幼子へ語り聞かすように、揺り籠を緩慢に揺らす声が文章を生み出していく。
「施設上がりの孤児だ。引き取った当時はまだ小学校高学年にあたる歳だったけれど、地がとても聡い子だと、少し話すだけで分かったよ。元々の名前は王生巡……王が生まれると書いてイクルミ、巡は巡回のメグル。もっとも、今は古舘巡だがね」
――赤い髪が目立っていたから、よく覚えている。
赤い髪。
目の荒いやすりが体の奥を擦ったような、ざらつく嫌悪が芯を通して、記憶の穴を縫っていった。俺は何か、重大な何かを、取りこぼしている。どこで、いつ――
研修後。変わったことがないか、気付いたことがなかったかと東堂に問われた時、あの子は、一体なんと答えた。
『そういや、髪の赤い中学生がいて』
いくら遺伝子の混ざり合いが増えたとはいえ、明るい茶をそう称するのとは違うほど真っ赤な髪をもって生まれる存在は稀有だ。代々、位を継ぐべき長男が燃える色を毛髪に携えているという国のシンボルたる天皇家以外の血筋においては、十分すぎるほどの突然変異。彼女が「赤毛」と評さず、「赤い」と当てはめた少年は、王生巡と仮定すべきか。渦中にある総理の養子が、よりにもよって彼女とのみ、接触した。これが意味するところとして弾き出された解に、不愉快な耳鳴りが忍び寄る。
『……あと、また、って言ってた気がする。別れ際にさ』
握り込んだ拳と同じ大きさの心臓が、今度こそ嫌な動きをした。




