秘密の部屋
通い路を覚え始めた武蔵国の某所。地獄現世支部という通称で呼ばれる、正式には地獄日ノ本部現世特務派遣課という長ったらしい名前の勤め先に、今日も今日とて足を踏み入れる。降り出しそうな曇天が雫を取りこぼす前に当該の屋内へ滑り込んだおかげで、足跡は廊下に残らない。未だに仕組みが分からない謎の自動ドアをくぐり抜けた先には、矢印のパネルを押さずとも到着済みのエレベーターとセンセ、それから狐塚が待ち受けていた。
「ここで待ち合わせっスよね」
何食わぬ顔で輪に混ざると、乾が自身の腕に巻きつけた機器を見遣る。
「俺の時計は壊れたかな」
デジタル式の液晶に浮かぶ数字の右二桁は、偶数であっても六十進数の円盤の上ではキリが悪い。端数は、オレが遅刻した分だけ五で割り切れなくなった過失だ。起きた頃には目覚ましの設定時間を大幅に過ぎていたのだから、これでもかなり頑張った方なのだが。
「はは、すんませーん……」
「まァまァ。身支度の時間もあるでしょうよ」
「自己申告の問題ですよ。社会人なら最低限の礼儀として」
「さ、地下行くぞォ! 細かい男は放っといて、お嬢ちゃんはお手をこちらに」
「狐塚さん!」
彼の咎める声を聞き届けた上司は、仰々しい仕草でこちらへ差し出していた手を、わざとらしく舌を出してから引っ込めた。銀の箱へ先に乗り込み、手の表裏をひっくり返し、早くこいこいと内部から手招きされる。招き猫ならぬ、招き狐か。大してうまくない冗談を頭の隅に追いやりながら、誘われるままにエレベーターへ乗り入る。空耳に聞き間違う程度にぽそりと遅刻の件を謝ると、最後に箱へ収まった彼からは仕置だと言って軽く頭を叩かれたが、ほとんど乗せただけの罰は全く痛くなかった。
一階を示す英数字の下方、模様に擬態していた四角が押されて、沈む。閉じられたままの景色は変わらない代わりに、重力が体にかかり始めた。
「この間、ボロアパート行ったろ?」
壁に背を預けた彼の紫根の視線は、他二名の乗客へ配られている。あまりに衝撃的、かつ実戦的すぎるお試しから、まだ月を一巡りすらしていなかった。あれ以来、業務内容にはあまり飛び抜けたものはなく、半分は自習のように伝説や説話、御伽草子などを学ぶ時間としてだったり(案内人の東堂曰く、異界の何が、どのように信じられているかがこの職において非常に重要なのだとか)、久しぶりに道着へ袖を通し、竹刀を手にして同僚となった彼と掛かり稽古をしたりと、過ぎた学び舎が懐かしくもなる内容だった。残り半分では、局員らが代わる代わるにやってきて、ただ雑談をする時もあれば、問答を通して知識の程度を測られることもあった。いずれも奇妙な研修ではあるものの、命の危険がありようもないプログラムだ。昨日に記帳したばかりの通帳には目を疑うゼロの数が並んでいたし、休みも暦に従っている。それらの安全な要素がかえって、冒頭の異常さを色濃くしていた。忘れたくても忘れられるものかと、少し恨みがましい気持ちで狐塚に頷く。隣も苦虫を噛み潰したかのような顔だが、そんなにまで化け物の体を鉄パイプでえぐった感触が気持ち悪かったのだろうか。
「竹刀稽古でも思ったンだけどよ、二人とも体幹はそこそこ仕上がってるんだが、扱う武器の適正は各々違うんじゃねーかと」
「待て待て狐塚サン、武器って」
「……急に物騒ですね」
困惑しているのはこちらなのに、狐塚の方がピンときていない顔色が強いのはどういうことだ。粉砂糖だと思って口に含んだら片栗粉だったみたいな、塩だった場合の面白みすらない微妙なリアクション。そんな反応をされてしまうと、まるでこちらの言がおかしいかのように思えてくるではないか。
「素手でああいう類とやり合いたいなら、止めねェけど。だがなァ、それなら坂田公時ぐらい強くなってからの方が……」
「すげぇ無茶言われてることくらい分かるっスよ」
「なはは! 武器はあくまで護身用さ、気軽に考えな」
沈下が終わる。他人行儀に開いた扉の向こうにはまた扉が見えた。マトリョーシカを思わせる枠の一つ目をくぐらんと狐塚が先を行くと、少しの空間を置いて眼前で閉じたままだった長方形が横にずれた。ゆうに十センチは超えるだろう二つ目の扉の厚さに、新参二人は目を見張る。
「この組織については箝口令があるけどよ、こっから先もソレで頼むぜー」
箝口令というのは、センセと仲直りもどきをした日の招集で血判を押した書類で約束した、当組織が特定され得るあらゆる事物はお口にチャックといった内容だ。他の会社に入ったことがないから比べにくいが、職場の偽の業種、名目、住所まで連携される例はまず多くはないだろう。薄っすらと親指の皮が横一文字に浮いている原因は、傷口の大きさに対して過分な重さを負っていた。
どんどん先に進んでしまう上司の背中に目を見合わせて、センセが先に、少し遅れてオレも早足で追いつく。左右に時々部屋があるらしい細長い通路を幾つも曲がって通り過ぎて、気まぐれっぽく選ばれた部屋へ入ると、横にも奥にも天井も、全部がとんでもなく広々とした空間に、所狭しと古今東西の武器が収められている――所謂、武器庫だった。
「見回りたきゃお好きにどーぞォ」
入ってきた面も含めて四面に飾られている武器達に加え、本棚のように細長く何本も配置された重苦しい板の両面は、やはり壁と同じ様相を成している。拳銃小銃狙撃銃、散弾銃に擲弾銃といったメジャーな類はもちろん、ファンタジーゲームくらいでしかお目にかかったことがないチャクラムやハルバード、メリケンサックとしてよく知られる各種のナックルダスターなど、異国情緒を感じさせる武具も様々。東国近くを選ぶなら、蛾媚刺、三尖刀、匕首、釵、手裏剣辺りもカバーしている。絢爛豪華と言って差し支えない鈍色のラインナップの花形は、やはり刀剣の群だろうか。短刀から大太刀までの大きさ違いは当然、直刀や軍刀、忍刀まで。もはや、殺傷能力のある「刀」と名のつく品を端から集めてきたのではないかといった感じだ。
「博物館かよ……」
もしくは、コレクターの専用部屋。単純な高さにも圧倒されながら、何千もの道具を眺める。
「特務機関だからなァ、融通きくんだわ」
オレ達が宛もなくふらふらと鑑賞しているのに対し、狐塚は目的がある足取りで物騒な展覧会の列に入っていく。でかでかと開かれた扇も、手元に取ってよく見ると、塗装の奥に金属特有の光沢がある。部屋の装飾ではない、れっきとした兵器としての鉄扇だ。しかも、扇に限らず、どの機体にも錆や汚れが一片もない。保存状態は完璧と言っていいだろう。手袋をしていなければ触れることすら躊躇していたはずだ。元々の位置へ早々戻し、行儀のいい見物人として他を見回る。ぶらりとそうしていると、引っかかる点が浮上した。丁度、狐塚が口笛吹きつつ、右手に拳銃を二丁、左手に刀を一振り提げて寄ってくる。
「それ……捕り物の後みてーっスよ」
「へーきへーき。ホレ、手ェ出しな。重いぞー」
言われるがまま、両手を皿のように差し出すと、右手に引っ掛けていた銃をオレに、刀をセンセに渡される。重さに緩んだ指の合間から取り落としかけたが、間一髪で受け取りきる。簡素な外装と、意外に細めなグリップが特徴的なモデルだ。刀の鞘は深い臙脂、柄の暗さも相まって、遠目からなら真っ黒にも見えそうである。剣道で扱うような、木刀や成人男性用の竹刀よりもやや短い。それでもかなりの重さらしく、しっかりと掌全体で握られている。
「グロック一七の第四世代と、堀川国広が一振りの大脇差だ」
巧く使えよ? 向かって右の口端を吊り上げて笑う彼は、コンサルティングサービスにしては些かガラが悪かった。




