雨降り予報
鉛色に鈍く光る壁面へ指を滑らせ、薄氷を滑らせる思いで小さな長方形の分だけ表面をずらすと、文字の記載がないタッチパネルが現れる。手で覚えた順番に叩けば、さらにパネルが奥にずれ、先程まで入力キーだった場所にモニターがスライドして来た。画面は真っ暗で、ウェリントン型の眼鏡フレームにハーフアップのシルエット、それに顔の凹凸がどんより反射していた。そういえば、朝に目にした予報によると、天気がそろそろ崩れ始めるらしい。早めに事を済ませられたら嬉しいな、と雑念を浮かべながら、ほんのりと口角を上げた。
「聖上から伝言です」
本来の色をすり潰して映す液晶でも、にこやかに微笑む彼女の表情の変化は捉えられる。笑顔と呼応するように銀の壁は左右に袖を引いて、水羊羹を綺麗に切り分けた時の断面にも似た、艷やかで短い通路が作られる。走れる程度には柔らかい、低い踵のパンプスで割れた海を通り抜けると、自動ドアは再び強固な壁へと戻っていく。ちょうど降りてきたエレベーターに乗ってきた、ひらひらと片手を振って出迎えてくれたのは東堂だ。磨かれたストレートチップの爪先をはじめとした彼の全身は、鏡面のように埃一つない床へ少しも映らない。
「いつもごめんね。伝書鳩のような真似をさせて」
「いいえ、それがお仕事ですから」
微笑んだまま時を数えなくなった色飛びの写真を復元すると、今の己が得ているような感覚が生まれるのだろうか。身長はもちろん、髪の長さも変わらない彼は、昨日の帰りに別れたばかりの知り合いと会う朗らかさをもって歩を誘導、もといエスコートし、指の動き一つで外からの視界を遮る部屋へと案内した。差し出されたコーヒーへミルクの方だけ垂らして、ゆっくりと白が混ざり始めたのを見るともなく見つつ、早々に本題を切り出す。
「まず、新規に加わった二人については、そちらに全てお任せするとのことです。一応こちらでも素性を調べさせて頂きますが、聖上……もとい、スメラミコトが良しとしましたから、ご安心下さい」
「ありがとう。彼にもよろしく伝えて」
通称は地獄現世支部、正式名称は地獄日ノ本部現世特務派遣課となるこの部署は、公務員の枠組みにありながら、その働きは政権によって左右されないばかりか、スメラミコト、つまりは天皇と対等な立場をとりすらしている。これは、天照大神の孫であるニニギノミコトの血をひく、神の遠縁としての天皇の位置付けにより、天皇が彼らのような異界の住民と近しい身分とされているからである。
「承知いたしました」
外見はほぼ同年代ではあるものの、こうして東堂と相対していると、妙な気分になる。鬼である彼らと常人との間には、独特な空気の流れというか、波というのか、水とアルコールとの水面の模様の差めいた違いがあるのだ。異なる血が流れるだけで変わるものとは考えないが、大前提となる性質として、鬼の根本はどこか私たちとは違っているのではないだろうかという疑念は拭えない。
相手がカップの縁を唇につけたタイミングに合わせて、ミルクによって色が淡くなったコーヒーを一口飲んだ。酸味が抑えられたコーヒーは、自身の好むところでもあった。
「……それと、お尋ねになった赤髪の少年ですが、今の一族の中に該当する年齢の男子はいらっしゃいません。天皇家の嫡子は代々赤髪ですので、お疑いになるのも理解できますが……お力になれず、申し訳ないです」
新しい人員の報告と共に飛ばされたのは、現在の一家に赤髪の少年はいるか、という調査のリクエストだった。現在の天皇家の顔ぶれを彼らが知らぬはずもないのに何故、と首を傾げつつ、念のためにと公的な記録に残されている限りは調査してみたが、最年少でも二十代周辺がせいぜいで、彼らの期待に添えるような記録は見つけられなかった。
「元、を含んでよろしいのであれば、引き続きお調べいたします」
「頼んでもいいかな。併せて、降りた周囲も分かれば嬉しい」
「お時間はかかりますが」
構わない、そう頷きながら静かにソーサーへ食器を戻される。了承の意味で会釈を返して、京から預かってきた封書を渡す。微かなクリームの下地に、角度の変化で現れる菊の文様が施された紙は、あの方に纏わる一族でしか用いられない。意を汲んだ東堂は丁寧に封を切り、そこに書かれているのだろう文字列の流れへ視線を従わせている。
「返事を書こう。外で待つかい?」
「こちらで平気ですよ」
「そう」
東堂は、返信用として入っていたらしい一回り小さな紙へ、胸元に挿していた万年筆の先を滑らせる。寝る前に日記をしたためているかのように慣れた仕草は、ここが風情のある洋館の一室でもあったなら、さぞかし絵になったことだろう。
「そういえば、あの入室用のパスワード。新しい方々は覚えるまで大変ですね」
壁を模した扉を手動で開くには、先刻やったような手順を踏まなければならないのが通常であり、古株の局員、かつ、人外の誰かがすぐ傍についていたとしても、正しいパスワードを入力していない「人間」は、即座に弾き出されてしまう。無地のキーを指の動きで覚えるのも大変なのだが、初心者のうちは、そもそもパネルの位置を見つける時点で苦戦するのが恒例行事だ。精巧な造りとなっている分、その仕組みを活用する側にも、一定のレベルが求められている。
「本人の魂、もしくは身体のいずれかが異界にまつわる場合のみ、当該の手順が省略される……でしたか、皆さんは覚えなくていい理由。アレ、結構大変なんですよ?」
実例がここにおりますが――突然変異とかで霊力の素質があっても、それはそれ、これはこれ、別物ですっていう理論で弾かれてしまうんですから、厳重ですよねえ。
くすくすと眉を下げて笑む彼も雑談の気分になっているらしく、手は止めないながらも、話に耳を傾けてくれていた。質問に答えるためにあまり長い文章は必要としなかったようで、老舗ブランドの筆記用具の蓋が、くるくると回されて閉じられていく。
「ふふ、すまないね。でも、彼らには覚える必要がないんだ」
八重歯の位置にある控えめな牙で親指を切って、文の最後に血判を押す。これまたほんの少し小さめの封筒に三つ折りにして入れ、目の前に差し出された。
「必要ない? 工事でもするんですか?」
受け取った返信をそのまま保管用のファイルに滑らせ、鞄の中へと差し込む。既に人が入っている建物で改修となると、外部にこの機関が察されはしないだろうか。ビルの内側には漏れなく箝口令が布かれているし、そういった目立つ動きは極力避けているのではなかったか。
「しないよ。単純に、いらないだけ」
首を傾げる。ならば、システムの構成を変えるのだろうか。ついでに聞いてみたかったが、手首に巻いてきた時計の針が、退出の時間を知らせていた。
「いけない! つい長居していました」
「こちらこそ、仕事を増やしてしまってすまない」
「普段と違うことをすると、暮らしにハリも出ますので。本当にお気になさらず」
「手間の詫びに、帰りはパスなしで開くようにしておこうかな」
「それはぜひよろしくお願いしたいです」
挨拶もそこそこに、雨脚が追いつく前にと部屋を辞す。来た道のりを違わず辿っていくと、約束通り、キーパネルへ手を伸ばす前に扉が開いた。律義な東堂に感謝しながら、速やかに廊下へと飛び出した。
段々と近付いてくる話し声へふと顔を上げると、少し距離を置いた正面に、新人のデータとして送られてきた資料で見た通りの、三十代と二十代の男女二人が揃っていた。今日はこれから仕事らしく、それぞれの片手には、私物であろう荷物を入れた鞄が握られている。
「だからオレも悪かったって! おあいこってことでよくねっスか?」
「こっちは結構ショックなんだよ……次があったら本当に教師失格だ俺は、一発殴っていいぞ」
「本人がいいっつってんのに聞けや話を」
「おい、口のききかたには気をつけろと前に散々言ったよな?」
「ウワッすんません! 急に通常運転で風邪ひくわ!」
「それとこれとは別の話だ」
事情はよく分からないが、とりあえず話の邪魔にならないように通路の端へと避けてみる。内容はともかくとして、声音は気さくな人に向けたそれで、思わず頬が綻んでしまった。遠ざかりながらも耳に届いていた声が急に途切れて、そういえばと振り返った時には、もう彼女たちの姿を見失ってしまった。東堂のあの言がただの冗談だったのか否か、確かめられる機会でもあったのに。
ガラス張りの出入り口を抜けると、既に小雨が降り出していた。折りたたみ傘を取り出して骨を開き、直近の電車を検索する。帰ったら、預かった返信をお渡しすると共に、赤髪の少年を改めて調べなければ。今度は、降りた範囲――つまり、臣籍降下という、一般人と結婚するために皇室から降りるという形式をとった人々の、その後の暮らしぶりまで手を伸ばすことになるので、軽く考えただけでも頭が痛い。誰から順に調べるべきかと考えながら、まだ幼い水溜りを視界の端で見遣った。
「本降りになる前に、目処をたてないと」
予報よりも雲は分厚い。詰め込まれて身動きが取れなくなったのかと思わされる重い空気の塊を一瞥してから、九分後の電車に乗るべく早足で歩き出した。




