表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
21/88

名前

「俺がしたくてすることだ、口出しするな」

 数刻前に自分の喉から飛び出した言葉の羅列が暴力そのもので、独り暮らしの殺風景な部屋で長らく頭を抱えている。

「まるで亭主関白じゃないか……」

 一通りの業務知識をざっくらばんに語り聞かされ、のるかそるかの意思表示を求められた際の頷きへ戸惑いながら何事かと尋ねてきた猫間を、なんと強い言葉で跳ね除けてしまったのだろう。気持ちが強張っていたことなぞは弁明にならず、大人であるならば、自分の機嫌は自分でとって、外面をコントロールすべきなのに。しまった、と思った時にはもう遅く、一瞬だけ酷く傷付いた表情を浮かべ、その後に苛立ちを露わにした彼女をたしなめることすらできなかった。やはり、自分はまだ、旧い時分から認識を越境できていないらしいことを痛感せざるを得ない。昔の彼女よりは、ずっと落ち着いていると思いはするのだ。卒業後に経た年月を加味しても、齢だけなら大人の枠組みに当てはまるのだろうし、再び見えてすぐは強くそれを意識した。ただ、己の感情だけが、根底の記憶を塗り替えられずにいる。

「古舘公代。恐らくは彼女絡みで、国単位の精神操作が行われている」

 この一言で、凪いでいた気持ちは乱れ、迂闊な言動をしでかしてしまった。精神操作――たった四文字へ押し込めてしまうには余りある実に、ツテと表現しても足りないほどの、確かな心当たりがあったのだ。

 科学が発達した現代において、宗教や幻想といった、いわゆる非科学的な属性を持つ組織や、それに関連する人々は息を潜め、多くは集って生きている。カタコンベに篭った初代キリスト教徒とは比べるべくもない事情があるにせよ、そうして深く、狭く生き延びた知見はこの国にも多い。時に創作として扱われている題材が、本当に存在している事柄だったなんていう例もザラだ。情報を吸収するためのアンテナが低い人々が感知できないように装飾されているだけで、世の書物、特に文字が主体となる小説などには、フィクションの中へ、現実が巧妙に織り交ぜられているのである。

 俺にとっての読書とは、娯楽というより、周囲にどれだけ真実が知られているのか、漏れ出ているのかという確認と、恐怖の払拭のための手段だった。遠藤周作の『海と毒薬』を初めて読んだのは、中学一年生の頃だったろうか。モチーフだとして挙げられている九州大学の解剖を「事実」だと知り得る家で息をしていた自分にとっては、ノンフィクション小説だとしか思えなかったし、危うい記述にどうにも惹かれて、何度も読み返しているうちにカバーも綻び紐は解けた。次の出会いは伊藤計劃の『虐殺器官』。これは決定付けて背筋が冷えた。なぜなら、言葉の合間に挟まれる虐殺の暗号なるものとほとんど同じ理論から成る話法を、一族の長である父親のみならず、次の家長となるべく養育されていた、己自身も扱っていたことがあるからだ。誰にも知られないうちに、巧妙に言葉へ毒を混ぜて相手を操作する手練手管は、今は縁を切った実家が得意とする技術そのものだった。僅かに異なる点を挙げるとするならば、我々が扱う「毒」は、殺害のための手段としてではなく、相手の判断基準を揺るがし、行動を操作する――すなわち、洗脳のための手段として扱うということくらいか。心療内科の看板を掲げながら、数々の組織のトップや政治家の主治医を担う、遺伝子上揺らがない己の父親の名前が、仄暗い思い出と共に脳髄を浸していく。

 忽那言継。

 長男として養育される中で、当たり前のようにその方法を教え込まれた幼い自分は、比較する家庭すら知らなかったために「これが当たり前なのか」と思って疑わず、彼の善き生徒であり続けようと努力すらした。挙句の果てには、実践として、彼の抱える患者のヒアリングに付き添い、第三者に洗脳を試したことすらある。その意味と、もたらす結果すら意識せずに。その患者が、父親の愛人であり、己の実の母でもあり、後に、猫間の母として記憶をすげ替えられる女性だということすら、何も、少しだって知らなかったのだ。

 卑しくもただ、偶然に男であった性別と素養だけで引き入れられたこの存在のせいで他所へやられ、あまつさえ虐待を受ける巡りに遣ってしまった、彼女だけだ。

 本家の正当な血筋をひくのは、彼女しかいないのだ。

 精神操作、いや、洗脳のごく稀な副作用からくるフラッシュバックが災いして、正体を失った女に暴力を振るわれるべきは、彼女ではなかったはずだ。あの子を傷付けたのは自分だ!

 忽那言継。

 この男が、この身の半身を作った男が、件の騒動に関わっていないとは考えられない。先祖代々から医学の道を歩んできた忽那の家は、あらゆる大家の脈を絡め取り、死体の血を吸い上げた桜が鮮やかに咲き誇るかのように繁栄してきた。視線に晒され、一挙一動から粗探しをされる政治家は、最も太く、安定したパイプの一つ。全国各地に支持者をもち、成熟した水路へ毒を流せばどうなるのか。その結果は、火を見るよりも明らかだ。

 まさか、こんな形で、育てられた家を思い出すことになろうとは。忌むべき血筋からは逃げられないという戒めか、それとも、これほどまでに危険な橋へ妹を巻き込むことこそが、己が生まれ落ちた咎への報いだとでも、神や仏は宣うのか。

 早く、終わらせなければ。

 とっくに端末の記録から消した番号を、記憶を頼りにして端末へ打ち込む。

 早く、アイツを昏い場所から遠ざけてしまわなければ。

 三度目のコール音が鳴る前に、女中が受話器を取り上げた。

 早く、渦から掬い上げてやらねば。

「――忽那言継に繋いでくれ。無視するなら、お前の息子から、……継司からは、二度と連絡しないと、そう伝えればいい」

 忽那継司。

 生を押し付けられて、最初に受けた呪いだ。

 充てがわれた乾という名にこそ、自身の本質があるように思う。

「名前の意味、か」

 呼称として使われる場合においての「乾」には、本家から見た分家の方角として生じた由来を持つ。分家とはまた多少異なる血であっても、意図する方向は同じだ。

 身から出た錆を大いにこじらせ、やるせない気持ちを持て余したまま吐き出せもしない矮小な自分の表情が、黒く沈んだ携帯端末の表面に反射する。たったそれだけの偶然にすら酷く惨めな気持ちにさせられて、強く瞼を閉じることしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ