ニアイコール、ゼロ距離
チャンキーヒールが奏でる、ピンヒールよりも低く響いた足音。それが止まったのは、女上司の端正な顔が目と鼻の先まで近付いてからで、あと一歩、いや半歩でも進まれようものなら、彼女の豊満な胸がこちらのまな板にぶつかるだろう。踵が高い靴を履いているとはいえ、自分よりも目線が高い女性に出会ったのは初めてだ。横目で捉えた、数歩離れて立っている彼女とは瓜二つな片割れも、決して低くはない狐塚の背丈を優に越している。目の焦点を前方に戻せば、眼鏡のレンズが窮屈げな、黒く長い上向きの睫毛が眼前に佇んでいる。そのまま女の片手に顎を掴まれ、じ、……っと、熱量のない、見定めるような青い視線が、両の眼球へと注がれる。突然ネコマ、イヌイ呼ばわりされたことについて質問する暇もないままに、新手の圧迫面接を受けていると言って差し支えないのではなかろうか。
「えーっ、と……英サン?」
「煩い。黙っていろ」
取り付く島もないとは正にこのことだ。芯があってよく通る声には、腹の奥に染み入る圧がある。
「ちょっと、急に何を――」
「大丈夫だから……ね、待っていて」
尖った声はセンセのもので、諌めたのは東堂の声だ。辛うじて視界の端に映っていた彼の肩が、黒手袋に強く添えられて、引き際悪くフェードアウトしていく。見知った一部が見えなくなると、一層眼差しが強く感じられて、何もかもを見透かそうともしているような濃密な気配に、指一本動かすことすら躊躇われた。
「次」
一分もしないうちにすんなりとオレを開放した彼女は、グラスチェーン付きナイロールのブリッジを白手袋に包まれたままの中指で押し上げて、流れるような仕草のまま、元担任へも同じことをした。オレはといえば――情けないことに、しかし先の不穏な台詞の意味を解して――強い緊張の糸がひといきに断ち切られたような、そんな心地で、膝から爪先へと支えが解けて緩み、ひいたまま放置していた椅子へ座り込んでしまった。どうにか重い首を持ち上げて、座位から先生を見上げると、ごく近距離で得体の知れない美女の接近は、「道徳」の権化足る教師をも戸惑わせているようだった。色香に惹かれている訳ではないらしいが、女が男の顎を引かせる、それだけで背伸びをせずとも至近距離の目が絡むのだから、今少しばかり遠くから写真を撮ったら、オフィスラブが題材の月九ドラマ、そのキスシーン一歩手前だ。まあ、実際の現場に色っぽさは微塵もなく、いっそ裁判のような緊張感が漂っているのだが。息が詰まってきた頃合いにようやく彼も開放されて、ふらついた男性用の革靴は、持ち主が机へ手をつくことで安定を取り戻した。
「紅」
「うん?」
「貴様も異存ないな」
「瑠が良いと言うなら」
尊大と温良が呼びあったのは、ベニ、リュウ、という、下の名前か愛称らしきもの。穏やかな方を見てみると、東堂によく似た赤の宝石が二つ、眼孔へ嵌っている。気のついた男が笑む様子も、やはり東堂を思わせた。ただし、こちらの視線の温度は東堂よりもずっと低く、感情を察せない微笑みだけれども。センセとオレは、家族写真でありがちな、一方は座り、一方はその椅子の背もたれへ手をかけた構図に収まっている。
「貴方がたも獄卒の?」
未だかさついている彼の喉から発された質問に、口紅が綺麗にひかれた唇が開く。
「そう警戒するな。鏡で視ていただけに過ぎん」
鏡? レンズではなく?
「獄卒ではないよ。うーん……そうだね、方針を決める側」
再び並び立った様子は、対で創られた芸術品のさながらに。三十代中盤の年頃に見える二人の顔立ちは、老いや重ねた年月を表層に浮かべていると形容するより、そうあるべくして形成された顔、成るべくして成った姿のようで、十代や五十代といった他の歳での見目を想像するのが少し難しかった。
「我らは英、姓は同じだ。私を指す時は王偏に留めるで、リュウ」
「僕の方は、糸偏に片仮名のエを並べてベニ、と分けてくれ」
「瑠サンに、紅サン」
指差し確認をしていたら、まだ薄っすら顔色が芳しくない彼にやんわりと手を下げさせられた。どんなに自分が弱っていてもご指導とは、実に天晴なことである。けれども、先刻見つめられていた頃の重圧は既に大分緩和されて、自然に肩からも力が抜けている。纏う気圧を操る異能でも持っているのかとも勘ぐったけれども、それ自体は別に特別なことでもないか、と考え直した。同一人物と相対していても、時として印象は別人となって、話しかけにくくも、易くもなるというのはよくある話だ。
「ところで、何か質問の途中だったかな?」
英が入ってくる前の問を急かされている。会話を聞かせた覚えのない彼が、どうして知り得ているのだろう。一抹の不安と不信を胸に育てながら、恐る恐る口を開いた。
「……どうしてアンタらが、人間を必要とするのかって」
当然の疑問だ。そう頷く彼の様子だけは、本当に親切そうなのだけれど。
紅の赤い眼差しには、どこか底冷えするつめたさが紛れていて、自分にとっては少しく苦手な部類だと、早くも自認させられた。
「実は、取り締まるべき案件が、ここ数年急増していているんだ。時期としては、現職の総理大臣がその任に就いた、その前後から」
当該の人物は、緩やかな衰退とマンネリにより静まり返っていた政界を、我が国初の女性総理大臣という肩書きで大いに盛り上がらせた女傑だ。国民からの支持も厚く、国会議事堂のみならず、こまめに各地方へも足を運ぶ勤勉な政治家である。激務と一児のシングルマザーを両立し、自身の体調管理も徹底していることから、現代の完璧超人として、世間はにわかに活気づいている。
「古舘公代。恐らくは彼女絡みで、国単位の精神操作が行われている」
淡々と告げた彼の目元に落ちている、絵画じみた綺麗な泣き黒子が、黒い横髪の合間から覗いていた。




